アマル・シング (タンジャーヴール藩王)
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1787年、兄のトゥラジャージー2世が死亡し、養子であるサラボージー2世が王位を継承すると、アマル・シングがその摂政となった[1]。
1792年7月12日、アマル・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、イギリス軍の駐留費用の負担、外交権の放棄などを定められ、実質的にその保護下に置かれることとなった(タンジャーヴール藩王国)[1][2]。
1793年、アマル・シングはイギリスのマドラス知事により、兄の正統な後継者とされ、 サラボージー2世は廃位された[1]。
1798年、サラボージー2世が王位を主張したことから問題が発生し、同年6月29日にアマル・シングは退位し、サラボージー2世が復位した[1][3]。