アメリカ合衆国憲法修正第3条

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アメリカ国立公文書記録管理局所蔵の権利章典。

アメリカ合衆国憲法修正第3条(アメリカがっしゅうこくけんぽうしゅうせいだい3じょう、英語: Third Amendment(またはAmendment IIIto the United States Constitution)は、所有者の同意のないまま私有家屋(private homes)に兵士を宿営(quarter)させることについて制限を設け、平時についてはそのような行為を禁止する。この修正条項は、アメリカ独立戦争に至る過程の中でイギリス議会によって可決された、イギリス陸軍が公共の建物(public buildings)に兵士を宿泊させることを許可した宿営諸法英語版への応答であった。

修正第3条は、1789年に反連邦主義者英語版(Anti-Federalist)らの新憲法への反対に対応してジェームズ・マディソンによってアメリカ権利章典の一部として連邦議会に提出された。連邦議会は1789年9月28日にこの修正条項を各州に提案し、1791年12月15日までに、全州のうち必要な4分の3がこれを批准した。1792年3月1日、トーマス・ジェファーソン国務長官はこの修正条項の採択を発表した。

この修正条項は憲法のうち最も論争を呼ばない部分の一つであり、めったに法廷で争われることがなく、刑事司法ライターラドリー・バルコ英語版はこれを合衆国憲法の「ちびの子豚」("runt piglet")と呼んだ[1]。2009年現在、この修正条項は最高裁判所判例の主要な根拠となったことはない[2][3]が、1982年には第2巡回区合衆国控訴裁判所英語版の事件エングブロム対ケアリー判決英語版の根拠となった。

日本語訳例1
平時においては、所有者の承諾なしに、何人の家屋にも兵士を宿営させてはならない。戦時においても、法律の定める方法による場合を除き、同様とする。[4]
日本語訳例2
平時においては、いかなる兵士も、所有者の承認を得ずには、何人の家宅にも舎営させることはできない。戦時においても、法律の規定によるのでなければ舎営させることができない。[5]
1789年の権利章典法案の手書き写本。のちに修正第3条として批准される文章のみを表示するよう切り取ってある。

背景

1765年、イギリス議会宿営諸法英語版のうち最初のものを制定し[6]13植民地にそこで従軍するイギリス軍の部隊に食事を提供するよう要求し、また植民地当局に対して、もし現地の兵舎のスペースが不十分であるときは、酒場 (alehouse)、イン、および貸し馬車屋 (livery stable) といった公共の建物に部隊を宿泊させるよう命じた。ボストン茶会事件の後、1774年宿営法 (Quartering Act of 1774) が制定された。これら植民地を独立革命へと駆り立てた耐え難き諸法の一つとして、この法律はイギリス軍に必要であればどこにでも宿泊することを認めたが、どの部隊も現住の家屋に宿営することはなかった[7]。軍隊の宿営はアメリカ独立宣言において入植者たちの不満の一つとして引かれている[2]

採択

連合規約の下での数年間の比較的弱い政府の後、フィラデルフィアでの制憲会議は1787年9月17日により強力な最高行政官やその他の変化を目玉とする新しい憲法を提案した。制憲会議の代議員であり、バージニア権利章典の起草者であるジョージ・メイソンは、市民的自由英語版 (civil liberties) を列挙し保障する、権利の文書 (bill of rights) が含まれるべきだと提案した。その他の代議員——後の権利章典の起草者ジェームズ・マディソンを含む——は、現存する州ごとの市民的自由の保障で十分であり、一つ一つの権利を数え上げようとするいかなる試みも、他の名もなき権利は保護されないと示唆することになる恐れがあると主張し、反対した。短い討論の後、メイソンの提案は州の代議員団らによる全会一致の投票で否決された[8]

しかし、憲法が批准されるためには、13の州のうち9州が州議会でそれを承認することが求められた。批准への反対論(「反連邦主義英語版」)は、部分的には憲法の市民的自由の十分な保障の欠如に基づいていた。大衆感情が批准に反対であった州(バージニア州マサチューセッツ州ニューヨーク州を含む)にいた憲法の支持者たちは、自らの州議会が憲法の批准と権利の文書の追加の請願の双方を行うことを首尾よく提案した。いくつかの州議会は、私有家屋への軍隊の宿営を禁じる規定を特に提案した[2]。1788年のバージニア批准会議英語版において、パトリック・ヘンリーは「以前の政府の元での我々の第一の不満の一つが、我々に混じっての軍隊の宿営だった。これはイギリスとの結びつきを解体する主要な理由の一つだった。今、我々は平時において軍隊を抱えるかもしれない。彼らはいかなる形態でも舎営されうる——我々を虐げ、抑圧し、粉砕するために。」と述べた[7]

提案と批准

権利章典の起草者、ジェームズ・マディソン

これらの州立法府の要請を受けて、アメリカ合衆国第1議会英語版において、ジェームズ・マディソンは各州の権利の文書や1689年権利章典のようなイギリスの典拠に基づく20か条の憲法修正条項を提案した; その一つが、私有家屋への兵士の宿営の禁止であった。議会ではこの将来の修正第3条へ複数の変更が提案され、それらは主として(騒乱 (unrest) など平時でも戦時でもない状況の可能性を含め)平時と戦時を区別する方法や、宿営を認める権限を持つのは行政府か立法府かという点で異なっていた[9]。しかし、この修正条項は最終的にはほとんど変更されずに、そして全会一致の議決で、議会を通過した[2]。議会はマディソンが提案した20か条の修正条項を12か条に削減し、これらは1789年9月25日に批准を求めて各州に付託された[10]

権利章典が批准のために各州に付託された頃までに、どちらの党派においても意見が変わっていた。かつては権利章典に反対していた多くの連邦主義者は、今や反連邦主義者たちの最も有力な批判を封じる手段として章典を支持していた。翻って反連邦主義者らは、章典の採択は自分たちが望む第二制憲会議の実現可能性を大きく低下させるだろうということに気づき、今ではそれに反対していた[11]リチャード・ヘンリー・リーなどの反連邦主義者たちは、この章典は連邦司法府直接課税のような憲法のうち最も反対すべき部分をそのままにしているとも主張した[12]

1789年11月20日、ニュージャージー州が議会の給与増額を規制する第2条を拒否した上で12か条の修正条項のうち11か条を批准した。それぞれ12月19日と22日にメリーランド州ノースカロライナ州が全12修正条項を批准した[13]。それぞれ1790年1月19日、1月25日、28日にサウスカロライナ州ニューハンプシャー州デラウェア州が章典を批准したが、ニューハンプシャー州は議会の給与増額に関する修正条項を拒否し、デラウェア州は下院の規模を規制する第1条英語版を拒否した[13]。これにより批准した州の合計が必要な10州のうち6州となったが、他の州では手続きは遅延した。コネティカット州ジョージア州は権利章典を不必要と見なして批准を拒否し、マサチューセッツ州は修正条項の大部分を批准したが、そうしたという正式な通知を国務長官に送らなかった[12][注釈 1]

1790年2月から6月にかけて、ニューヨーク州、ペンシルベニア州ロードアイランド州が修正条項のうち11か条を批准したが、3州とも議会の給与増額に関する修正条項は拒否した。バージニア州は当初議論を延期したが、1791年にバーモント州が連合に加盟して以降、批准に必要な州の総数は11に増加した。バーモント州は1791年11月3日に全12修正条項を承認して批准し、最後にバージニア州が1791年12月15日にこれに続いた[12]トーマス・ジェファーソン国務長官は、1792年3月1日に10か条の首尾よく批准された修正条項の採択を発表した[14]

司法上の解釈

ウィリアム・O・ダグラス英語版判事。

修正第3条はアメリカ憲法の中でも最も引用されることが少ない項目の1つである[15]ブリタニカ百科事典の言葉では、「この国の歴史はアメリカの地での紛争がほとんどなく進んできたため、この修正条項には発動される機会がほとんどなかった。」[16] 2009年現在、どの主要な最高裁判所判決も、この修正条項を主要な根拠として利用したことはない[2][3]

法歴史学者トム・W・ベル (Tom W. Bell) は1993年に米英戦争および南北戦争の際のアメリカ兵の宿営は修正第3条に違反したと主張したが、この議論はいずれの戦争の間にも法廷で取り上げられることはなかった。南北戦争の後、陸軍は不動産所有者に賃料や損害を補償しており、これが修正第3条による請求を無効にしたかもしれない[17]

修正第3条は憲法においてプライバシーへの黙示的権利の確立を助けるものとしていくつかの例において発動されてきた[18]ウィリアム・O・ダグラス英語版判事はグリズウォルド対コネティカット州事件英語版(1965年)[19]の多数意見の部分的根拠として権利章典の他の項目と並んでこの修正条項を利用し、個人の家屋は州の代理人から自由であるべきだという信念を暗示するものとして修正第3条を引用した[18]

ヤングスタウン・シート・アンド・チューブ社対ソーヤー事件英語版(1952年)の7つの意見の1つにおいて、ロバート・H・ジャクソン判事は戦時においてさえも行政権を制限しようという憲法起草者たちの意図の証拠を提供するものとして修正第3条を引用した[18]:

[t]hat military powers of the Commander in Chief were not to supersede representative government of internal affairs seems obvious from the Constitution and from elementary American history. Time out of mind, and even now in many parts of the world, a military commander can seize private housing to shelter his troops. Not so, however, in the United States, for the Third Amendment says ... [E]ven in war time, his seizure of needed military housing must be authorized by Congress.[20]
最高司令官の軍事上の権力は内政を扱う代議制政体に優越するものではないということは、憲法および初級のアメリカ史から明らかだと思われる。いつとも知れぬ大昔には、そして世界の多くの場所では今もなお、軍事指揮官は自分の部隊を収容するために私有住宅を押収することができる。しかし合衆国においてはそうではない、なぜならば修正第3条が〔中略〕戦時においてさえ、彼が必要とする軍隊の宿所の押収は議会によって認められていなければならないと述べているからである。

連邦裁判所が修正第3条を根拠として法律または行為を無効化することを求められた数少ない例の一つが、エングブロム対ケアリー事件英語版(1982年)であった[21]。1979年、ニューヨーク州の刑務官たちがストライキを組織した; 彼らは刑務所施設内の寮から立ち退かされ、そこは刑務官としての彼らの職務を臨時で担った州兵の隊員らに割り当て直された。第2巡回区合衆国控訴裁判所英語版は、(捜索および押収を規定する修正第4条に関する類似の判例を引き合いに出しつつ)修正第3条の「所有者」(owner) という言葉は賃借人 (tenant) を含み、州兵隊員は修正第3条の意味において「兵士」(soldier) であり、そして修正第3条は修正第14条に基づいて組み込まれる英語版(各州に適用される)と判示した[22]。この事件は地方裁判所に差し戻され、同裁判所は州当局者はこの解釈を知りえたはずがないという理由によりこれを棄却 (dismiss) した[23]

連邦裁判所によって言い渡されたこれより近い修正第3条の判例としては、2015年2月2日、ネバダ地区合衆国地方裁判所英語版ミッチェル対ヘンダーソン市事件 (Mitchell v. City of Henderson) において、市警察官は兵士ではない以上、修正第3条は彼らによる侵入には適用されないと判示した[24]。修正第3条に基づく請求のために、ミッチェルは警察が自分の家を監視所として使用したと主張していた[25]

これ以前の例、合衆国対バレンズエラ事件 (United States v. Valenzuela)(1951年)[26]では、被告は連邦家賃統制法は「合衆国憲法修正第3条に違反して人民の元に突撃隊員として宿営させられる役人どもの群れの保育器であり孵化場」("the incubator and hatchery of swarms of bureaucrats to be quartered as storm troopers upon the people in violation of Amendment III of the United States Constitution") であるから撤廃するよう求めた[27]。裁判所は彼の請求を却下 (decline) した。後にジョーンズ対合衆国国防長官事件 (Jones v. United States Secretary of Defense)(1972年)[28]において、陸軍予備役兵たちはパレードで行進することを拒否するための理由付け (justification) として修正第3条を引用したが、敗訴した。他の事件でも、様々な文脈における同様の議論は否定されてきた[29]

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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