アメリカ村
大阪府大阪市中央区西心斎橋付近の通称
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概要
歴史
前史
上町台地の西側に形成された難波砂堆と呼ばれる砂州(微高地)に位置し、島之内の西部にあたる。古くは御津(みつ)と呼ばれ、仁徳天皇の皇后の磐之媛命が御綱柏(みつながしわ)を海へ投げ捨てた逸話が由来とされる。三津とも表記され、奈良時代には三津寺(大福院)と御津宮(御津八幡宮)が創建された。三津寺は御堂筋の東に所在するが、御津宮は佐野屋橋筋の西に所在する。
鎌倉時代には石清水八幡領の荘園として三津寺荘が設置され、戦国時代まで続いた。北隣の船場は豊臣政権のうちに大坂城下へ組み込まれたが、島之内は元和偃武以降、徳川政権になってから大坂城下へ組み込まれた。
江戸時代には豪商の大坂屋久左衛門が居を構え、西横堀川の河川舟運を利用した銅吹屋の町だった。そこから派生して木炭の問屋が多かったことから島之内の横堀筋沿いは炭屋町と呼ばれていた。
大阪市の中心市街地を南北に貫くメインストリートである御堂筋の東側を並走する心斎橋筋商店街の賑やかさと対照的に、現在アメリカ村がある西側は、心斎橋筋などの商店や企業の倉庫、倉庫や駐車場、オフィスビル、住宅[3]といくつかの料亭がある程度の静かな地区だった。
アメリカ村の誕生と発展
一方で、御堂筋沿いに百貨店「大丸」の心斎橋店があったこともあり、ファッションデザイナーの石津謙介らが活動するなど、若者の街へ発展する萌芽も見られた[3]。1969年に日限萬里子が三角公園前に喫茶店「Loop(ループ)」を開き、若いクリエーターが集まるようになった[3]。以降、倉庫を改造してサーファーの若者などによりアメリカ合衆国西海岸やハワイなどから輸入したアメリカンカジュアルな衣服類が販売されるようになり、アメリカ村と呼ばれ次第に活況を呈するようになった。
1980年代には雑貨、レコード、古着屋[4]などの店が並ぶようになり、大学生などが集まるファッションや流行の発信地の一つとなった。この頃から近畿地方以外の地域でも有名となる。
1990年代初め、タワーレコード心斎橋店(2006年8月閉店)やビッグステップ[5]などが建ち、より多くの若者が集まるようになった。
1990年代中頃から来訪者の低年齢化、大音量の音楽による騒音、粗悪な商品を押し売りに近い形で売りつける悪質な店舗の増加、建物や公共物への落書きなど街の荒廃が問題になり始めた。
2000年前後から北隣の南船場、西隣の堀江、さらにはキタの茶屋町などへ若者が流れてしまい、1998年に約7万人だった休日1日あたりの来訪者数は2005年には半減してしまった。2006年から、東京の歌舞伎町より面積が広いこともあり50台を上回る77台の監視カメラ(24時間稼動)が設置され治安回復を目指しているが、監視カメラの運用も地元町会にとって重い負担となっている[2]。
2014年2月頃から再び落書き被害が急増するようになり、なかには地蔵を保護するための防犯用ボックスにまで落書きするケースもあった。大阪府警は事態が深刻化しているとして、パトロールを強化するなどしている[6]。
三角公園

アメリカ村の中心となる御津公園は、三角形の区画をしていることから、「三角公園」の通称で呼ばれることが多い。
島之内の周防町筋をそのまま西伸させるとちょうど堀江の堀江川(現在は埋立)に当たってしまうため、当初は島之内の清水町筋と堀江の北堀江通を結ぶ橋が西横堀川に斜めに架けられ、清水橋と命名された。
ところが、1921年の第一次都市計画事業によって、北堀江通と周防町筋が大阪市道堀江玉造線(現在の玉造西九条線)として一体的に整備・拡幅されることとなった。西横堀川に斜めに架けられていた清水橋を、1937年に北堀江通と接続する西詰の位置を変えずに真っすぐに架け替え、清水橋東詰に向けて周防町筋を屈折させることとした。これにより、すべて四角形の区画だった島之内に初めて三角形の区画が生じた。
戦後に御津公園として整備されたのちも、三角形の区画の珍しさもあいまって三角公園の通称が定着するようになった。なお、清水橋は1962年の西横堀川の埋立に伴い撤去されている。
公共施設
- 御津宮(御津八幡宮)
- 西心斎橋交番
- 三角公園(御津公園)
- 大阪戎橋郵便局
交通
関連書籍
- 日限満彦 『アメリカ村のママ 日限萬里子』 小学館、2007年、ISBN 978-4-09-387701-5。



