ナムダイ
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概要
出自
16世紀半ば、チャハル部の領主であったボディ・アラク・ハーンは晩年に自らの勢力を諸子・諸甥に分封し、このころより「八オトク・チャハル」を構成するホーチト・スニト・ウジュムチン・アオハン・ナイマン・アラクチュート等の諸部が新たに興った。漢文史料の『北虜世系』によると、ボディ・アラク・ハーン(不地台吉)の弟にエルミグ・タイジ(也密力台吉/Elmig tayiǰi)という人物がいたとされ、『ガンガイン・ウルスハル』によるとエルミグは「アオハン・ナイマン・アラクチュートのダルガとなった」という[7]。
なお、エルミグ・タイジより派生した「アオハン」「ナイマン」「アラクチュート」は「八オトク・チャハル」の中で、「山陽/山前(大興安嶺の南側)の四オトク」を構成していた[8]。これに対応するように、漢文史料でもナムダイの部落を指して「山前遼東地方寧遠広寧辺外青山」に住牧していたとし、ナムダイ自身は七千の部落を、弟達が3千の部落を率いていたとの記録がある[9]。
同じく『北虜世系』によると、エルミグの息子にアイダビシュ・タイジ(挨大筆失台吉/Ayidabiš tayiǰi)がおり、更にその息子がナムダイ・ホンタイジ(那木台黄台吉/Namutai gong tayiǰi)であった[10]。『登壇必究』巻23はアイダビシュ・タイジに相当する人物を「哈剌処台吉(アラクチュート・タイジ)」と表記しており、アイダビシュの代よりアラクチュート・オトクを継承するようになったようである[10]。また『遼夷略』によるとアイダビシュの息子はナムダイ(腦毛大)を含め10人おり、32の派閥に分かれていたが、ナムダイと拱兎の二人が最も有力であったという[9]。
生涯
ナムダイはチャハル部領主のトゥメン・ジャサクト・ハーンと同時代人で、後述するように『蒙古源流』では「トゥメン・ジャサクト・ハーンの五大執政」の一人として名を挙げられている[10][11]。またナムダイは庚戌の変を引き起こし明朝に多くの記録が残されたアルタン・ハーンとも同時代人であり、そのために『万暦武功録』にその生涯が立伝されている[12]。『万暦武功録』によると、ナムダイは「元は薊門[注 2]の撫夷[注 3]」であったとされるが、遼東での掠奪を繰り返すことで明朝側では大罪人と見なされるようになったという[9]。
1572年(壬申/隆慶6年)夏には初めて内ハルハのショーハらに従って小河口より明朝領の東関駅を包囲し、参将楊騰・遊擊傅廷勳らによって撃退された[13][14]。同年秋にはシラムレンに兵を集め、黒荘窠・仙嶺寺などへの出兵が行われた。更に同年冬には明領付近で大規模な狩猟を催すことで明兵を誘い、果たして斥候に来た明兵を包囲して、多くの兵が射殺されたという[15]。
1576年(丙子/万暦4年)には内ハルハ・バアリン部のシュブハイらと連れ立って広寧・錦義で掠奪を行った。またこの頃、モンゴルの有力者複数人が女只罵火屯に集結して広寧を攻撃しようとする事があったが、これもナムダイの謀であったという[16]。1583年(癸未/万暦11年)冬には一万騎余りを集めて広寧関に接近し、貢市を開くことを請うた[14]。1585年(乙酉/万暦13年)春にはハーンの六万の騎兵とともに河東遼陽以西の諸郡を略奪し、またウバシ・ウイジェンに従って1586年(万暦14年)4月には再び牛・羊を引き連れて広寧に至り、改めて馬市を開く事を請うた[17][14]。
このころ、ナムダイの兵力は7万余りを数える大勢力となっていたため、明朝側でもナムダイの出兵を警戒していた。果たしてナムダイらは1万の騎兵を四手に分けて侵攻を始め、広寧及び錦義を攻撃したという[18]。
その後、トゥメン・ジャサクト・ハーンを補佐しながら海西女直のイェヘと結び、建州女直を統一したヌルハチ勢力に対抗したが、老齢のために自らはそれ以上の勢力拡大も果たせなかった[5]。現存するあらゆる史書にナムダイの子孫の記録はなく、嗣子に恵まれなかったようである[19]。
モンゴル年代記での記録
モンゴル年代記の一つ、『蒙古源流』にはトゥメン・ジャサクト・ハーンの治世の事蹟として、モンゴル諸侯の中から五大執政を任命した事を記している。
『蒙古源流』の記すように「五大執政」が一堂に会して任命されたとは考えにくいが、ここで挙げられる五名は漢文史料にも頻出する当時の有力者であった[21]。また、ウイジェン・スブハイはフラハチの次男、ノム・ダラはボディダラの三男、ホトクタイ・セチェン・ホンタイジはバルス・ボラトの次男の長男と、いずれも有力ではあるが各家の嫡流とは言えない出自であった。トゥメン・ジャサクト・ハーンは、このような人物らを重用することで、各部の嫡流家との間で権力を分散化させ、自らの影響力を強めたのではないかとみられる[22]。
また同じく『蒙古源流』には、1587年にナムダイが当時モンゴル高原に滞在していたダライ・ラマ3世に会いに訪れ、財貨・家畜1万を献上した逸話が伝えられている[23]。ナムダイはこの時トゥメン・ジャサクト・ハーンが後ほどダライ・ラマ3世を招聘するための使者を派遣する予定であると伝えたが、ダライ・ラマ3世は来年の初めまでに使者が来なければ行けないであろうと答え、果たして1588年3月にチャハルからの使者が来ない内にダライ・ラマ3世は死去したという[23]。『ダライ・ラマ3世伝』にもナムダイがダライ・ラマ3世に面会した逸話が記されている噶、『蒙古源流』と違って1586年の事としている[24]。
一族
*本章は基本的に森川哲雄(1976)[1]に準拠し、仮名表記については転写を参考した。
- 高祖父・ダヤン・ハーンdayan qaγan:バトゥ・モンケ。モンゴル帝国第34代ハーン。
- 曾祖父・トロ・ボラトtörö bolad
- 伯祖父・ボディ・アラク・ハーンbodi alaγ qaγan:第36代ハーン。[注 4]
- 従伯父・ゴデン・ハーンgödeng qaγan:第37代ハーン。
- 又従兄・トゥメン・ジャサクト・ハーンtümen ǰasaγtu qaγan:第38代ハーン。
- 従伯父・ゴデン・ハーンgödeng qaγan:第37代ハーン。
- 祖父・ネメグ・ノヤンnemeg noyan
- 父・アイダビシ・タイジayidabiš tayiǰi
- ナムダイ・ホンタイジ
- 叔父・ボイマ・タイジboyima tayiǰi
- 父・アイダビシ・タイジayidabiš tayiǰi
- 伯祖父・ボディ・アラク・ハーンbodi alaγ qaγan:第36代ハーン。[注 4]
- 曾祖父・トロ・ボラトtörö bolad