アレクサンドル・シャロフ
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アレクサンドル・シャロフ | |
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Александр Григорьевич Шаров Aleksandr Grigorevich Sharov | |
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| 生誕 |
1922年2月1日 |
| 死没 |
1973年6月10日(51歳没) |
| 研究分野 | 古生物学 昆虫学 |
| プロジェクト:人物伝 | |
アレクサンドル・グリゴリエヴィチ・シャロフ(Александр Григорьевич Шаров、Aleksandr Grigorevich Sharov 1922年2月1日 - 1973年6月10日)は、ソビエト連邦の昆虫化石を専門とした古生物学者・昆虫学者。昆虫の分類学と形態学を研究した。生物学博士、教授[1]。
1922年2月1日、Лукино(当時はモスクワ州だったが2012年にモスクワ市に編入されている)の労働者の家庭に生まれた。
1939年モスクワ大学の生物学部に入学、1940年には極東への調査に同行した。1943年から1945年にかけて防衛工場で働いた。大祖国戦争の後は学問のため大学に戻り1947年に卒業している。
大学での最終年度、教授陣(Э. Г. Беккер, А. А. Захваткин, Е. С. Смирнов)の影響を受け、シャロフは昆虫の形態と系統発生に興味を持った。
1947年、シャロフはソビエト連邦科学アカデミー動物形態学研究所の大学院に入学し、Д. М. Федотовの指導のもと、セイヨウシミの胚発生と後胚発生の研究を開始した。この研究には古生物学的データも用いられた。1951年に博士候補(ソ連における博士の下の学位)論文を提出し、論文の内容は一方では他の原始的な無翅昆虫とまた一方ではより高等な昆虫の目と比較してシミ目の個体発生の詳細に焦点を当てたものだった。
動物形態学研究所で働きながらシャロフは多くの調査に参加した。それらの調査において、彼は Uropus ulmi(鱗翅目)の幼虫にもバッタ類で知られているような群生相と孤独相が存在するという事実を立証することができた。
1955年に彼は古生物学研究所に移動し、Б. Б. Родендорфの研究室でその後もずっと働いた。
1966年に博士論文を提出した。モスクワで開催される第13回国際昆虫学会議の準備と運営においては学会副書記長を務めた。ソビエト生物学者国家委員会の学術秘書 (Учёный секретарь) として何年か働いている。
シャロフは1973年6月10日にモスクワで亡くなった[2]。
科学的業績
シャロフは沿海州、ヨーロッパソビエト南部、コーカサスなどへの昆虫学調査に加わっている。彼はクズネツク盆地・ウラル山脈・エニセイ川流域のチュニャ川・アルハンゲリスク地方の古生代堆積物、中央アジアの多数の産地の中生代堆積物、バルト三国の古第三紀産琥珀の古生物学的研究を行った。
彼は多くの化石昆虫を記載し、その中には古生代の化石分類群 Monura目と Titanoptera目の新設も含まれている。
シャロフの業績は、個々の化石昆虫の記載だけでなく、節足動物全体の系統関係と昆虫の起源を論じる理論研究にも及んだ[3]。とくに1966年の著書『Basic Arthropodan Stock with Special Reference to Insects』で示された、六脚類と甲殻類の近縁性を含む系統仮説は、後年の分子系統解析でも支持されている[3][4]。したがって、シャロフは新分類群の命名者であるだけでなく、昆虫進化論の大きな枠組みを論じた研究者としても参照されている[3]。
また、追悼文では、直翅類型昆虫の系統発生を扱った1968年のモノグラフが、57属9科の新たな化石分類群を記載した業績として回顧されている[5]。さらに、キルギスのマディゲン層では1962年から1967年にかけて5度の遠征を率い、最も昆虫化石に富む露頭から約1万5500点の標本を収集したとされる[3]。同レビューは、同地で発見・記載されたロンギスクアマとシャロヴィプテリクスがこの産地を国際的に知られるものにし、シャロフ遠征が集めた標本群はいまなおマディゲン動物相研究の基礎資料であると述べている[3]。
彼はまた、中央アジアの三畳紀堆積物から数点の興味深い爬虫類化石(ソルデス・ロンギスクアマ・シャロヴィプテリクス)を発見している。
- ソルデス化石
- ロンギスクアマ化石
古生物学だけでなく、シャロフは現生昆虫の分類・形態・発生についても研究していた。
所属
- ソビエト生物学者国家委員会[6]
