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アレクサンドロス・モザイク

古代ローマのモザイク画 From Wikipedia, the free encyclopedia

アレクサンドロス・モザイク[1][2][3][4]は、アレクサンドロス大王ダレイオス3世の合戦を描いたモザイク画。大王の肖像画としても知られる[5]ポンペイの「ファウヌスの家」から出土した[6]前100年ごろの作[6][7]前300年ごろのフィロクセノスの作品の模写と考えられる[6]。『アレクサンダー・モザイク[6][8][9]アレクサンドロス大王のモザイク[7][10][11]アレクサンドロスのモザイク[12]などとも呼ばれる。

作者不明(フィロクセノス模写か)
製作年前100年ごろ(古代ローマ時代
種類モザイク
寸法313 cm × 582 cm (123 in × 229 in)
概要 作者, 製作年 ...
『アレクサンドロス・モザイク』
英語: Alexander Mosaic
イタリア語: Mosaico di Alessandro
作者不明(フィロクセノス模写か)
製作年前100年ごろ(古代ローマ時代
種類モザイク
寸法313 cm × 582 cm (123 in × 229 in)
所蔵ナポリ国立考古学博物館ナポリ
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アレクサンドロス大王と愛馬ブケファロス
ナポリ国立考古学博物館の展示風景

概況

縦2.71メートル、横5.12メートル[1]幾何学模様の縁取りを含めると、縦3.13メートル、横5.82メートル[1]

製法は「オプス・ウェルミクラトゥム英語版」すなわちモルタルに下描きし、数ミリのテッセラを一つ一つ埋め込んでいくという方法がとられている[7]。テッセラの総数は数百万に及ぶ[7]

内容

アレクサンドロス大王ダレイオス3世の合戦を描いている。通説では「イッソスの戦い」だが、「ガウガメラの戦い」「特定の戦いを描いていない」とする説もある[1][7]

左側には、アレクサンドロスの上半身と愛馬ブケファロスが描かれているが、その周囲のモザイクは破損している[7]。アレクサンドロスはゴルゴンの装飾がある鎧を着て[6]を被らず、前方のダレイオスをまっすぐ見つめている[1]。アレクサンドロスの背後にいる金の葉飾りの兜の男は側近と考えられる[2]

右側では、ダレイオスが戦車に乗って退却しようとしている[1]。ダレイオスはおびえた目をしており、を持っているが矢が尽きている[1]馭者が鞭を振るい、馬丁がダレイオスに逃走用の馬を連れてきている[1]。戦車の周囲には、混乱状態のペルシア軍が描かれている[1]。ある兵士は馬に踏みしだかれ、ある兵士はの裏面に映る自分の顔を眺めている[1]

中央では、アレクサンドロスの持つ長が、ペルシア騎兵の脇腹を刺している[1]。騎兵の馬は前のめりに地面に倒れている[7]。この騎兵はダレイオスの親族や側近とする説もある[3]。後続の騎兵はアレクサンドロスにで斬りかかろうとしている[1]

ダレイオスが片手を前に伸ばしている理由は諸説あり[3][7]、アレクサンドロスに刺された騎兵への憐れみとも、指揮とも、命乞いとも言われる[3]。その手の後ろには、兜が特殊な兵士がおり、ペルシア側についたギリシア人傭兵英語版と推測される[1]

遠近法が使われており、画面奥には一本の樹と何本もの長槍がそびえている[1][8]。長槍の一本に旗印がついているが、ちょうどそこが破損して旗の模様が見えない[1]。地面には武器が散乱している[1]

背景

プリニウス博物誌』によれば、前300年ごろ、ディアドコイカッサンドロス王が、画家エレトリアのフィロクセノスに、アレクサンドロスとダレイオスの戦闘が描かれた「第一級の絵」を描かせた[13][1][6]。本作はこの「第一級の絵」の模写と推測される[1][6][7]。フィロクセノスでなく女性画家アレクサンドリアのヘレネ英語版の作品の模写とする説もある[2]。アレクサンドロスと対立していたカッサンドロスが本作を描かせた理由は定かでない[1]

前180年から前170年ごろ、ポンペイに「ファウヌスの家」が建てられ、前120年ごろ大改築された[1]。それから前100年ごろまでの間に本作が描かれた[1]。中庭のエクセドラ(応接間・談話室)の床絵であり[1]、工房で作ったものを運んで嵌めたと推測される[7]

画中の破損は、後62年の大地震によるものと推測される[1]。当時若干の修復がされたが、修復が完了する前に、後79年ヴェスヴィオ山噴火で地中に埋もれた[1]

18世紀、ポンペイの発掘が始まり、1831年に本作が発見された[1]1843年ナポリ国立考古学博物館に移され、現在は同館の壁に展示されている[1]

2020年から2021年、最新の科学技術による修復と分析が行われ[10][14]、テッセラの産地がポルトガルチュニジアに及ぶことなどが判明した[14]

関連項目

脚注

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