アンドレ・タルデュー
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1876年9月22日、パリで生まれた[1]。タルデュー家は1670年よりパリに定住していたブルジョワジーの家系であり、アンドレ・タルデューも名門リセ・コンドルセで教育を受けた[1]。高等師範学校の入学試験に合格したが入学を辞退し、外務省の入省試験にも合格したが、数か月で辞任した[1]。外務省時期にアタッシェとしてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、イギリス国王エドワード7世、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトといった外国の要人、ポール・カンボン(英語版)、ジュール・カンボン(英語版)、ベルンハルト・フォン・ビューローといった外交官と面識があった[1]。その後はジャーナリストになり、『ル・フィガロ』、『ル・タン(英語版)』紙で働き[1]、対ドイツ帝国強硬論を主張した[2]。
1914年フランス代議院選挙(英語版)でセーヌ=エ=オワーズ県(英語版)から出馬して代議院議員に当選した[1]。当選から2か月後にサラエボ事件が起き、さらに1か月後には第一次世界大戦が勃発した[1]。タルデューは兵役に適さないと判断され、陸軍省勤務となったが、すぐに通訳として参謀本部配属となった[1]。1917年4月、首相アレクサンドル・リボーにより在アメリカ合衆国特別代表に任命され、米国の参戦に際してアメリカ軍とフランス軍の調整を行った[1][3]。戦後、パリ講和会議におけるフランス代表の1人になり[1]、ジョルジュ・クレマンソーの右腕としてヴェルサイユ条約の起草に関わった[3]。第2次クレマンソー内閣期の1919年11月に解放地域大臣(英語版)に就任した[1]。1919年11月の選挙(英語版)にも再選していたが、1920年1月にクレマンソー内閣が倒れ、タルデューの最初の大臣職は2か月で終わった[1]。
大臣退任後、議会でヴェルサイユ条約を擁護したが、クレマンソーが政界を引退したこともあり、左派政党ともアレクサンドル・ミルラン率いる国民ブロックとも敵対することになり、1924年の選挙(英語版)で落選した[1]。
1926年2月にテリトワール・ド・ベルフォール県で行われた補欠選挙で代議院議員に返り咲き、1928年(英語版)、1932年(英語版)の選挙で再選した[1]。首相レイモン・ポアンカレの説得を受けて公共事業大臣(英語版)に就任し、1928年に急進社会党がアンジェ会議の結果を受けて連立内閣から離脱すると、内務大臣に転じた[1]。
1929年11月にポアンカレの後を継いで組閣(内務大臣は続投)した[1]。首相として5か年のインフラ整備計画を発表したが、レオン・ブルムからは「看板広告」と批判された[1]。1930年2月にごく短い第1次カミーユ・ショータン内閣を挟んで第2次内閣を組閣し、1930年12月まで首相と内務大臣を務めた[1]。景気対策として政府による介入政策を採用したが、議会に支持されなかった[3]。
首相退任後、1931年1月から1932年1月までの第1次、第2次ピエール・ラヴァル内閣で農業大臣を、1932年1月から2月までの第3次ラヴァル内閣で陸軍大臣を、1932年2月から5月まで第3次内閣を組閣して外務大臣を務めた[1]。
1933年末には議会活動が実を結ばないとして諦めたが、1934年2月6日の危機により第2次ガストン・ドゥメルグ内閣が成立すると、旧知のドゥメルグの求めに応じて無任所大臣に就任した[1]。第2次ドゥメルグ内閣は同年のうちに倒れ、タルデューは政界引退を決意した[1]。
引退後はアルプ=マリティーム県マントンに引っ越し、著述業に専念した[1]。1939年7月に卒中を起こして健康を害し、1945年9月17日にマントンで死去した[1]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 “André, Pierre, Gabriel, Amédée Tardieu”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月27日閲覧.
- 1 2 「タルデュー」『山川 世界史小辞典 改訂新版』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC。コトバンクより2025年11月27日閲覧。
- 1 2 3 平瀬徹也「タルデュー」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC。コトバンクより2025年11月27日閲覧。
外部リンク
- アンドレ・タルデューの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library(英語)

- “アンドレ・タルデューの関連資料一覧” (英語). イギリス国立公文書館.

| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 アルベール・ルブラン |
解放地域大臣(英語版) 1919年 – 1920年 |
次代 エミール・オジェ(英語版) |
| 先代 アンドレ・ヘス(フランス語版) |
公共事業大臣(英語版) 1926年 – 1928年 |
次代 ピエール・フォルジョ(英語版) |
| 先代 アルベール・サロー |
内務大臣 1928年 – 1930年 |
次代 カミーユ・ショータン |
| 先代 アリスティード・ブリアン |
閣僚評議会議長(首相) 1929年 – 1930年 |
次代 カミーユ・ショータン |
| 先代 カミーユ・ショータン |
閣僚評議会議長(首相) 1930年 |
次代 テオドール・ステーグ |
| 先代 カミーユ・ショータン |
内務大臣 1930年 |
次代 ジョルジュ・レイグ |
| 先代 ヴィクトル・ボレ(フランス語版) |
農業大臣 1931年 – 1932年 |
次代 アルマン・アシル=フール(フランス語版) |
| 先代 アンドレ・マジノ |
陸軍大臣 1932年 |
次代 フランソワ・ピエトリ(英語版) |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
閣僚評議会議長(首相) 1932年 |
次代 エドゥアール・エリオ |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
外務大臣 1932年 |
次代 エドゥアール・エリオ |
