アルベール・サロー
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アルベール・ピエール・サロー(Albert Pierre Sarraut、1872年7月28日 – 1962年11月26日)は、フランス第三共和政の政治家。20以上の内閣で公共教育大臣、植民地大臣(英語版)、海軍大臣(英語版)、内務大臣などを歴任し、閣僚評議会議長(首相)を2期務めた[1]。1933年の第1次内閣は1か月で崩壊し、1936年の第2次内閣はラインラント進駐をめぐりイギリスの支援が得られず、有効な対応策がとれなかった[1]。このほか、1910年代にフランス領インドシナ総督、1920年代に在トルコフランス大使(英語版)を務めた経歴を持つ[1]。
ジャーナリストのオメール・サロー(フランス語版)の息子として、1872年7月28日にジロンド県ボルドーで生まれた[1]。大学で法学を学んだ[1]。兄モーリス(英語版)とともに『ラ・デペシュ・デュ・ミディ(英語版)』紙に関わり、2人の努力により同紙はフランスにおける有力な新聞紙になった[1]。ただし、政治家になったアルベールと違い、モーリスは政界に入らず、ジャーナリスト業に専念した[1]。
1902年フランス代議院選挙(英語版)でオード県から出馬して、代議院議員に当選した[1]。以降1924年の選挙(英語版)まで再選を繰り返し[1]、1926年7月に元老院議員に選出されて移籍した[2]。その後、1930年、1939年に元老院選挙で再選した[2]。しばしば決闘事件で報じられ、1906年にボナパルティストの議員アントワーヌ・プリエージ=コンティ(英語版)との決闘で負傷した[1]。
1906年にフェルディナン・サリアン内閣の内務省政務次官(sous-secrétaire d'Etat)になり、第1次ジョルジュ・クレマンソー内閣で留任した後、1909年の第1次アリスティード・ブリアン内閣で陸軍省政務次官に転じた[1]。
1911年7月にフランス領インドシナ総督に任命され、1914年まで務めた[1]。インドシナでは反乱が勃発しており、サローは暗殺されかけたものの反乱の鎮圧に成功し、インドシナの経済改革に取り組んだ[1]。
1914年から1915年までの第1次、第2次ルネ・ヴィヴィアニ内閣で公共教育大臣を務め、在任中に第一次世界大戦が勃発した[1]。1915年に内閣が倒れると、43歳になったサローは従軍し、さらに前線への派遣を自ら申し出た[1]。これによりサローは歩兵少尉として第367歩兵連隊(フランス語版)に配属され、1915年12月から1916年7月までムルト=エ=モゼル県ボワ・ル・プレートル(Bois le Prêtre)の塹壕で守備に努め、1916年8月から10月までヴェルダンの戦いに参戦した[1]。後に予備役に編入され、1927年にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを受章した[1]。
1916年12月、植民地大臣(英語版)ガストン・ドゥメルグはサローを再びフランス領インドシナ総督に任命した(1919年6月まで在任)[1]。2度目の総督期ではインドシナで兵士20万人を招集して、フランス軍に編入した[1]。帰国後、1920年から1922年までの国民ブロック諸内閣(第1次、第2次アレクサンドル・ミルラン内閣、第1次ジョルジュ・レイグ内閣、第7次アリスティード・ブリアン内閣、第2次レイモン・ポアンカレ内閣)で植民地大臣を務めた[1]。サローは1931年の著書で2度の総督就任の経歴を綴った[1]。
1925年から1926年まで在トルコフランス大使(英語版)を務め、後年になってトルコ大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1938年没)の国葬(英語版)にフランス代表として出席した[1]。1926年7月に内務大臣として第4次ポアンカレ内閣に入閣、在任中に「共産主義こそ敵だ!」と述べたことで知られる[1]。第4次ポアンカレ内閣は挙国一致内閣だったが、1928年11月にアンジェ会議での採決[注釈 1]を受けて辞任した[1]。その後、1930年の第1次カミーユ・ショータン内閣、1930年から1931年までのテオドール・ステーグ内閣で海軍大臣(英語版)を務め、1932年から1933年にかけて第3次エドゥアール・エリオ内閣、ジョゼフ・ポール=ボンクール内閣、第1次エドゥアール・ダラディエ内閣で植民地大臣を務めた[1]。
第1次ダラディエ内閣が倒れると、サローは閣僚評議会議長(首相)に就任して、海軍大臣を兼任したが、内閣はわずか1か月で崩壊した[1]。もっとも、その後を継いだ第2次ショータン内閣において、サローは海軍大臣を続投した[1]。
政界を引退したガストン・ドゥメルグが1934年2月6日の危機を受けて、復帰して組閣すると、サローはドゥメルグの打診に応じて内務大臣に就任した[1]。1934年2月6日の危機により不安定になった国内情勢をなんとか鎮めようとしたが、同年10月に来仏したユーゴスラビア国王アレクサンダル1世と外相ルイ・バルトゥーが暗殺される事件が起き、サローは責任を取って辞任した[1]。
1936年1月に第2次内閣を組閣し、今度は内相を兼任した[1]。在任中にナチス・ドイツによるラインラント進駐が起きたが、イギリスの支援を得られず、大した行動ができなかった[1]。第2次内閣は同年5月の選挙(英語版)をなんとか乗り切ったが、選挙直後にゼネラル・ストライキが起き、6月にレオン・ブルムが人民戦線内閣を組閣することとなった[1]。
1937年から1938年までの第3次ショータン内閣で無任所大臣、1938年1月から3月までの第4次ショータン内閣で内務大臣、1938年3月から4月までの第2次ブルム内閣で無任所大臣、1938年4月から1940年3月までの第3次、第4次、第5次ダラディエ内閣で内務大臣、1940年3月から6月までのポール・レノー内閣で国民教育大臣を務めた[1]。第3次ダラディエ内閣期にミュンヘン会談でミュンヘン協定が成立したことを歓迎した[1]。
第二次世界大戦中にヴィシー政権が成立すると、1940年7月10日にヴィシーで開催された議会でフィリップ・ペタンに全権を委任する法律に賛成票を投じた[1]。1943年に兄モーリスが暗殺されると、『ラ・デペシュ・デュ・ミディ』紙の経営を引き継いだ[2]。
戦後、1947年にフランス連合議会議員になり、1951年に議長に就任し、1958年に連合がフランス共同体に改編されるまで務めた[2]。
注釈
- ↑ 1928年11月、急進社会党がアンジェで党会議を開催した。党内左翼に属するエドゥアール・ダラディエが内閣の政策を批判し、兵役の短縮などの改革を要求した。この要求が正式に採択されるに至り、サローやエドゥアール・エリオなど急進社会党の閣僚4名が辞任した。
出典
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ヴィクトル・オーガニュール(英語版) |
公共教育大臣 1914年 – 1915年 |
次代 ポール・パンルヴェ |
| 先代 アンリ・シモン(英語版) |
植民地大臣(英語版) 1920年 – 1924年 |
次代 ジャン・ファブリー(英語版) |
| 先代 カミーユ・ショータン |
内務大臣 1926年 – 1928年 |
次代 アンドレ・タルデュー |
| 先代 ジョルジュ・レイグ |
海軍大臣(英語版) 1930年 |
次代 ジャック=ルイ・デュメニル(英語版) |
| 先代 ジャック=ルイ・デュメニル(英語版) |
海軍大臣(英語版) 1930年 – 1931年 |
次代 シャルル・デュモン(英語版) |
| 先代 ルイ・ド・シャプドレーヌ(英語版) |
植民地大臣(英語版) 1932年 – 1933年 |
次代 アルベール・ダリミエ(英語版) |
| 先代 エドゥアール・ダラディエ |
閣僚評議会議長(首相) 1933年 |
次代 カミーユ・ショータン |
| 先代 ジョルジュ・レイグ |
海軍大臣(英語版) 1933年 – 1934年 |
次代 ルイ・ド・シャプドレーヌ(英語版) |
| 先代 ウジェーヌ・フロ(英語版) |
内務大臣 1934年 |
次代 ポール・マルシャンドゥ(英語版) |
| 先代 ピエール・ラヴァル |
閣僚評議会議長(首相) 1936年 |
次代 レオン・ブルム |
| 先代 ジョゼフ・パガノン(英語版) |
内務大臣 1936年 |
次代 ロジェ・サラングロ(英語版) |
| 先代 マルクス・ドルモワ(英語版) |
内務大臣 1938年 |
次代 マルクス・ドルモワ(英語版) |
| 先代 マルクス・ドルモワ(英語版) |
内務大臣 1938年 – 1940年 |
次代 アンリ・ロワ(英語版) |
| 先代 イヴォン・デルボス(英語版) |
国民教育大臣 1940年 |
次代 イヴォン・デルボス(英語版) |
| 官職 | ||
| 先代 ポール・ルイ・ルース |
フランス領インドシナ総督 1911年 – 1914年 |
次代 ヨースト・ヴァン・ヴァレンホーヴェン(フランス語版、英語版) |
| 先代 ジャン・ウジェーヌ・シャルル |
フランス領インドシナ総督 1917年 – 1919年 |
次代 モーリス・アントワーヌ・フランソワ・モンテジュイロ |
| 外交職 | ||
| 空位 最後の在位者 モーリス・ボンパール(英語版) |
在トルコフランス大使(英語版) 1925年 – 1926年 |
次代 エミール・デシュネル(英語版) |