アンブラン
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| Embrun | |
|---|---|
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| 行政 | |
| 国 |
|
| 地域圏 (Région) | プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 |
| 県 (département) | オート=アルプ県 |
| 郡 (arrondissement) | ギャップ郡 |
| 小郡 (canton) | アンブラン小郡 |
| INSEEコード | 05046 |
| 郵便番号 | 05200 |
| 市長(任期) |
シャンタル・エメウ (2008年-2014年) |
| 自治体間連合 (fr) | fr:Communauté des communes de l'Embrunais |
| 人口動態 | |
| 人口 |
6,267人 (2008年) |
| 人口密度 | 172人/km2 |
| 住民の呼称 | Embrunais[1] |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯44度33分57秒 東経6度29分46秒 / 北緯44.5658333333度 東経6.49611111111度座標: 北緯44度33分57秒 東経6度29分46秒 / 北緯44.5658333333度 東経6.49611111111度 |
| 標高 |
平均:m 最低:778 m 最高:2,800 m |
| 面積 | 36.39km2 |
| 公式サイト | Site officiel de la ville d'Embrun |
アンブラン (フランス語:Embrun、オック語:Ambrun)は、フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、オート=アルプ県のコミューン。
歴史
アンブランは、アルプス地方にいたケルト人のカトゥリゲス族(fr)の中心地だった。カトゥリゲスとは『戦いの王たち』を意味する名称で、ローヌ川東岸にいたガリア人ウォコンティイ族とつながりがあった。
ローマによるアルプス征服後、オッピドゥムであるガロ=ローマのまちエブロドゥヌム(Eburodunum)が、コッティア街道が経由する位置にできた。エブロドゥヌムは総司教座とカテドラルが置かれており、ローマ属州アルペス・マリティマエに属するエブロドゥネシウム(Ebrodunensium)という名のキウィタス(civitas)の中心地だった[2]。
4世紀、この地にアンブランの聖マルケリヌス(北アフリカ出身のベルベル人)によって司教座がつくられ[3]、ディオクレティアヌス帝時代にアンブランがアルペス・マリティマエの首都となったとき大司教座に昇格した。
古くは、アンブランの大司教公がまち唯一の支配者だった。1160年にプロヴァンス伯が、1210年と1247年にドーファンが、アンブラン伯領を継承した。
ブルジョワの支配的なコミューンで、税問題では平等主義の慣習が生きていた(税の前では第三身分も貴族も平等であった)。砦は、アンブラン伯の代官であり、住民の自由を承認した、古くの聖職者たちの支援で建てられたものである。テンプル騎士団はアンブランに館を所有し、コマンドリーに属する学校を持っていた。
アンブランがフランスに併合されたのは1589年である。まちは1692年8月6日、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世軍に包囲され略奪された[4][5]。
1872年、アンブランのシタデルはその役目を終えた[6]。司教都市の最高部を覆っていた城壁は、1882年に鉄道が敷かれた際に取り除かれた[7]。
