アンリ・ブリッソン
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1835年7月31日、ブールジュで生まれた[2]。父と同じく弁護士になり、第二帝政末期に野党の一員として頭角を現した[2]。帝政が崩壊した後、パリ副市長に任命された[2]。
1871年フランス国民議会選挙(英語版)で極左翼の一員としてセーヌ県から国民議会(英語版)議員に当選[1][3]、同年9月13日にパリ・コミューン派の大赦を主張したが、議会で否決された[2]。このほか、初等教育の義務化を強く支持し、反教権主義も支持した[2]。代議院が設立された後は1876年(英語版)、1877年(英語版)、1881年(英語版)、1885年(英語版)、1889年(英語版)、1893年(英語版)、1898年(英語版)、1902年(英語版)、1906年(英語版)、1910年(英語版)の総選挙で再選した(1885年はシェール県、1902年以降はブーシュ=デュ=ローヌ県から選出され、それ以外はセーヌ県から選出)[1]。1881年11月3日にレオン・ガンベッタの後任として代議院議長に就任、ジュール・フェリー内閣が崩壊した後の1885年4月6日に司法大臣および首相に就任し、7日に代議院議長を退任した[1]。同年の議会選挙を経ても、清仏戦争をめぐる信任投票が僅差でしか可決されなかったため、12月29日に首相を辞任した[2][1]。
首相退任後も政治家として活躍し、パナマ運河疑獄の暴露に一役買った[2]。大統領サディ・カルノーが暗殺された後、1894年フランス大統領選挙(フランス語版)に出馬して落選した[2]。1894年12月18日に再び代議院議長に就任、1898年5月31日に退任した後、同年6月28日に組閣した(内務大臣を兼任)[1]。ドレフュス事件が世論を沸かしていた時期であり[2]、ブリッソンは事件の容疑者アルフレド・ドレフュスを熱烈に支持して、閣僚と対立した[3]。同年10月に事件をめぐる採決の1つに敗れ、内閣は崩壊した[2]。その後、ピエール・ワルデック=ルソー内閣、エミール・コンブ内閣を支持し、特に政教分離法の推進に協力した[2]。1904年1月12日から1905年1月10日まで、1906年6月8日から1912年に死去するまで代議院議長を務めた[1]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “Henri, Eugène Brisson”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年10月7日閲覧.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Brisson, Eugène Henri” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 574.
- 1 2 「ブリソン」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3。コトバンクより2025年10月7日閲覧。
外部リンク
- アンリ・ブリッソン - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)

- アンリ・ブリッソンの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library(英語)

| フランス国会 | ||
|---|---|---|
| 先代 レオン・ガンベッタ |
代議院議長 1881年 – 1885年 |
次代 シャルル・フロケ |
| 先代 オーギュスト・ビュルドー(英語版) |
代議院議長 1894年 – 1898年 |
次代 ポール・デシャネル |
| 先代 レオン・ブルジョワ |
代議院議長 1904年 – 1905年 |
次代 ポール・ドゥメール |
| 先代 ポール・ドゥメール |
代議院議長 1906年 – 1912年 |
次代 ポール・デシャネル |
| 公職 | ||
| 先代 ジュール・フェリー |
フランスの首相 1885年 – 1886年 |
次代 シャルル・ド・フレシネ |
| 先代 フェリクス・マルタン=フイエ(英語版) |
司法大臣 1885年 – 1886年 |
次代 シャルル・ドモル(英語版) |
| 先代 ジュール・メリーヌ |
フランスの首相 1898年 |
次代 シャルル・デュピュイ |
| 先代 ルイ・バルトゥー |
内務大臣 1898年 |
次代 シャルル・デュピュイ |
