イオアネ (ムフラニ公)

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ムフラニ公イオアネグルジア語: იოანე მუხრანბატონიグルジア語ラテン翻字: Ioane Mukhranbatoni1755年12月12日1801年10月1日)は、カルトリ=カヘティ王国の外交官、軍司令官。 1778年から1801年までムフラニバトニ)、内カルトリサルダリ(司令官)、そしてカルトリ=カヘティ王宮のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)を務めた[1]

イオアネはムフラニ公コンスタンティネ3世と妻バルバレグルジア語版の子として生まれた。1778年、一族のスヴィモンの隠居に伴い、ムフラニ家の家督を継承した。イオアネはカルトリ=カヘティ王エレクレ2世の娘ケテヴァンと結婚し、エレクレ2世の義理の息子となった。イオアネは王国において複数の高位の官職を兼任し、内カルトリサルダリ(司令官)として地方軍を統率し、また王宮のムサフルトゥフツェシ(宮内長官)として宮廷を指揮監督した[1]

1783年、イオアネはガルセヴァン・チャヴチャヴァゼグルジア語版とともに王国の全権代表を務め、ギオルギエフスク条約グルジア語版に署名した。これにより王国はロシアによる保護[2]とバグラティオニ家による王位の維持を約束された[3]。ただし両名は外交経験をほとんど持たず、ロシア語を話すことさえできなかった。そのため両名は、条約のロシア語版に何が書かれているのか知らなかった[4]

イオアネは1786年から1795年まで、カルトリ=カヘティの属国エレヴァン・ハン国グルジア語版の軍政長官を務めた。1786年にはナヒチェヴァン・ハン国グルジア語版がエレクレ2世の覇権に対して起こした反乱を鎮圧した。1795年、イランによるトビリシ侵攻グルジア語版ではジョージア軍の左翼隊を指揮したが、ロシアの支援を受けられず大敗北を喫した[5][6]

イオアネは、カルトリ=カヘティ王国とイメレティ王国との統合案が議論された際、王妃ダレジャングルジア語版とともに強く反対し、他の高官との間で激しく論争した。イオアネは反対理由について、「我々はカルトリ=カヘティさえ面倒を見ることができないのに、どうしてイメレティまで面倒を見ることができようか」と公然と表明したと記録されている[1]

イオアネは1801年に死去した。ムフラニ公は息子コンスタンティネ4世に引き継がれたが、その直後にカルトリ=カヘティ王国はロシアに併合され、ムフラニ公の主権封建領主としての地位も廃止された。以後、子孫はロシア帝国の貴族籍に編入され、バグラチオン=ムフランスキー公爵家として遇された[5]

家族

脚注

外部リンク

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