イバカ・ベキ
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概要
『集史』ケレイト部族志によると、ケレイト部族のカンであったオン・カン(トグリル)の実弟のジャカ・ガンボには四人の娘がおり、長女がイバカ・ベキ、二女がベクトゥトミシュ・フジン、三女がソルコクタニ・ベキであったという[1]。
チンギス・カンとオン・カンは長らく同盟関係にあったが次第に対立するようになり、最終的に1203年のカラ・カルジトの戦いにおいてチンギス・カンが勝利を収めるに至った[2]。オン・カンを討ち取ったモンゴル軍はケレイト・ウルスを併合していったが、その過程で自らはイバカ・ベキを、長子のジョチはベクトゥトミシュ・フジンを、末子のトルイはソルコクタニ・ベキを娶るようジャルリク(聖旨)を出した[3]。その上で、「ジャカ・ガンボをも、彼に隷属する私有の民をも、ひとまとめのままで、第二の轅となれ」と述べ、ジャカ・ガンボの有する部族民のみは分割併合しないことを宣言したという[3]。
ケレイトを併合したモンゴルは高原で最大の勢力となり、1206年には全モンゴリアを統一してモンゴル帝国が建国されるに至った。『元朝秘史』では建国後に功臣の論功行賞が行われ、その中でもウルウト部のジュルチェデイがケレイトとの決戦で先鋒を務めたこと、その戦いでイルカ・セングンを負傷させたこと、ケレイトへの復讐戦で再び先鋒を務めたこと、ジャカ・ガンボを捕らえたことといったジュルチェデイの功績を数え上げ、恩賞として一度自らの妃としたジャカ・ガンボの娘イバカ・ベキを与えたとされる[4]。イバカ・ベキをジュルチェデイに与える際には、「我は汝を厭い/汝が胸元の乏しくて/見たる容姿の良からざるを/口にはせざりしぞ/ふところに/足元に入れて、后妃の列に連ね来たった汝をジュルチェデイに恩賜するには、おおいなる道理を思って(のことだ)」と述べ、数々の武功を立てたジュルチェデイだからこそイバカ・ベキを与えるのだと語ったという[4]。また、遡ってイバカ・ベキがチンギス・カンの下に嫁ぐ際にはジャカ・ガンボの下よりアシク・テムル・バウルチとアルチク・バウルチが200名の従者を率いて随行してきたが、ジュルチェデイの下に嫁ぐ際にはアシク・テムル率いる100人の従者を連れて行くよう指示したとされる[4]。
一方、『集史』ウルウト部族志では『元朝秘史』の記述とやや異なった逸話を伝えており、ある時チンギス・カンが悪夢によって目を覚ますとオルドに同室していたイバカ・ベキに「汝を他の者に賜るべしとのお告げがあった」と語り、たまたまその近くに居たケシク(宿衛)のケフテイ(ジュルチェデイの息子)に賜ることにした、という筋書きとなっている[5]。また、『集史』ではジュルチェデイとその子供ケフテイの事跡を混同しているが、あるいはレビラト婚によってケフテイがジュルチェデイよりイバカ・ベキを継承したのではないか、とする説もある[6]。