イリュリア語
古代の言語または言語群
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イリュリア語(イリュリアご)は、バルカン半島北西部のイリュリア人によって使われていた古代語。インドヨーロッパ語族に属するが、どの語派に属するかは明らかでない。文献資料は残っておらず、地名などの固有名詞がわずかに残っているにすぎない。
| イリュリア語 | |
|---|---|
| 話される国 | バルカン半島西部 |
| 話者数 | — |
| 言語系統 |
インド・ヨーロッパ語族
|
| 言語コード | |
| ISO 639-3 |
xil – Illyrian |
| Linguist List |
xil Illyrian |
| Glottolog |
illy1234 Illyrian[1] |
古代の史料において「イリュリア人」という語は、アルバノイ、アルディアイイ、アウタリアタイ、ダルダニ、デルマタイ、ダッサレティ、エンケレイ、ラベアタイ、パンノニイ、パルティニ、タウランティイなど、南東ヨーロッパの広大な地域に居住する多様な部族に適用されている。これらの部族がどの程度まで同質的な言語集団を構成していたかは不明であるが、確認されている人名の研究から、この領域の南部、すなわち現在のアルバニアおよびモンテネグロ付近に言語的核心地域が存在し、そこにおいて「固有のイリュリア語」が話されていたと考えられている。
イリュリア語と隣接諸言語との関係についてはほとんど知られていない。十分な情報が存在しないため、イリュリア語は通常、インド・ヨーロッパ語族の樹系において独自の一枝を占めると記述される。南イタリアでかつて話されていたメッサピア語との近縁関係が提唱されているが、未だ証明されてはいない。現代語の中では、アルバニア語がイリュリア語の生き残りであるとしばしば推測されるが、これもまた確証を欠いている。
近世初期から19世紀に至るまで、「イリュリア語」という語は、ダルマチア地方における現代南スラヴ語、すなわち今日「セルボ・クロアチア語」と呼ばれる言語にも適用されていた。この言語は古代イリュリア語とは遠縁であり、両者が共有するのは共通祖語であるインド・ヨーロッパ祖語にすぎない。イリュリア語はスラヴ人の南東ヨーロッパへの移住以前にすでに死語となっていたため、両者が接触したことはなく、例外があるとすればアルバニア語の祖形を通じてのみである。
時代
分類と用語
イリュリア語はインド・ヨーロッパ語族に属していた。その他の古代および現代のインド・ヨーロッパ諸語との関係は、資料の乏しさおよび研究途上にあることから十分に理解されていない。今日、イリュリア語に関する権威ある情報源は、古典文献に引用された少数のイリュリア語単語と、数多くの人名・民族名・地名・水名の例に限られる。資料が極めて少ないため、イリュリア語に生じた音韻変化を特定することは困難であるが、最も広く受け入れられているのは、印欧祖語の有声帯気音 /bʰ/, /dʰ/, /ɡʰ/ が有声音 /b/, /d/, /ɡ/ へ変化したというものである[7][8]。
メッサピア語(Messapic)は青銅器時代から鉄器時代への移行期にイリュリアからイタリアへ移住したイアピュギア人(メッサピア人、プエケティア人、ダウニア人)によってアプーリア地方で話されていた鉄器時代の言語である[9]。したがってメッサピア語は独立した言語でありつつも、イリュリア語と同じ「古バルカン語群」に含まれるとされる[10]。エリック・ハンプはこれらを「メッサポ=イリュリア語群(Messapo-Illyrian)」としてまとめ、さらにアルバニア語とともに「アドリア海インド・ヨーロッパ語群(Adriatic Indo-European)」に分類している[11]。他の分類体系では、これら三言語を「一般イリュリア語群(General Illyrian)」や「西古バルカン語群(Western Paleo-Balkan)」にまとめることもある[12]。
古い研究においては、汎イリュリア主義の影響のもと、ヒストリア語、ウェネティ語、リブルニア語がイリュリア語の方言とみなされていた。しかし考古学研究の進展およびそれらの言語に関する固有名詞資料の増加により、これらがイリュリア語と方言的にも系統的にも無関係であることが明らかになった[13][14]。
ケントゥム語かサテム語か
イリュリア語の「ケントゥム性」を支持する説は、十分な語彙資料や文献が存在しないため、主にウェネティ語がケントゥム語であることに基づいてきた。特に Vescleves, Acrabanus, Gentius, Clausal などのイリュリア系とされる地名・人名に依拠している[15]。しかし後にウェネティ語とイリュリア語の関係は否定され、両者は近縁と見なされなくなった[16]。一方、イリュリア語の「サテム性」を支持する学者は、Asamum, Birzinimum, Zanatis といった地名・人名において、印欧祖語の語根のサテム型反映を見出している。また、Osseriates(PIE *h₁éǵʰeros 「湖」)[17]、Birziminium(PIE *bʰergʰ- 「隆起する、突き出す」)[18]、Asamum(PIE *h₂eḱ-mo-s 「鋭い」)[19][20]といった地名にも注目している。
仮に上記のウェネティ系とされる地名・人名がイリュリア起源であると認められたとしても、それがケントゥム語から生じたことは必ずしも明らかではない。たとえば Vescleves は PIE *h₁wesu-ḱléw- 「良き名声の」に由来すると解釈される[8][21]。Acrabanus は古代ギリシア語 ἄκρος(akros)と比較され、口蓋化の痕跡が見られないとされる[7]。また Clausal は PIE *ḱlewH- 「洗う、濯ぐ」と関連づけられている[22]。こうした例において、ケントゥム性を支持する学者は PIE *ḱ > *k または PIE *ǵ > *g が l や r の前で起こることを、イリュリア語のケントゥム的特徴の証拠とみなしている。しかし、アルバニア語やバルト=スラヴ語のようなサテム的性格を持つ言語においても、この音韻環境では口蓋軟口蓋音が非口蓋化する(PIE *ḱ > *k または PIE *ǵ > *g)ことが一般的に見られる[23]。また、人名 Gentius(Genthius)についても、同じくイリュリア名 Zanatis が伝えられているため決定的な証拠とはならない。もし Gentius が PIE *ǵenh₁- 「生まれる」に由来するならケントゥム語を支持することになるが、Zanatis が同じく PIE *ǵneh₃- 「知る」から派生するとするならば、サテム語を示すことになる[19]。さらに、史料に記録された Gentius の頭子音 g が口蓋軟口蓋音であったか円唇軟口蓋音であったかは不明である[24][25]。クレッチマー(Kretschmer)は、印欧祖語 *o が a に変化することからイリュリア語とメッサピア語をサテム語に分類した一方、ウェネティ語については *o を保持することからケントゥム語に分類した[26]。
このように、資料の欠如と解釈の二義性を考慮すると、イリュリア語がケントゥム語かサテム語かについては依然として不確実であり、さらなる証拠を要する[7][8][18]。
方言
ギリシア人は、イリュリア語話者と頻繁に接触することとなった最初の識字民族であった。しかしながら、彼らの「Illyrioi」という概念は、後にローマ人が「Illyricum」と呼んだものとは異なっていた。ギリシア語の用語は、マケドニアおよびエペイロスの境界に住む諸民族のみを包含していた。プリニウス(大プリニウス)はその著作『博物誌』において、ローマ・ダルマティア南部の先住共同体のうち、Illyrii proprie dicti(「厳密な意味でのイリュリア人」)について言及する際、なおも「イリュリイ」という語のより厳格な用法を適用している。
ローマによる征服(紀元前1世紀後期)の前後数世紀にわたり、「イリュリクム」という概念は西方および北方へと拡大した。最終的にそれは、民族的・文化的差異を問わず、アドリア海からドナウ川に至る先住民族すべてを包含するに至り、彼らはローマの属州ダルマティア、パンノニア、モエシアに居住していた。
イリュリアの名称および領域に関する広範な研究は、20世紀初頭の数十年間にハンス・クラーヘによって実施された。彼および他の学者は、イリュリア人がバルカン半島をはるかに超えて広く分布していたと主張したが[27]、クラーヘは後の研究において、イリュリア人の定住範囲についての見解を抑制した[28]。
後にローマ属州に編入されたイリュリア地域におけるイリュリア人の固有名的(onomastic)区分にさらなる精緻化を施したのは、ゲーザ・アルフォルディであった[29]。彼は五つの主要な群を識別した。すなわち、(1) ネレトヴァ川以南からマケドニアとの属州境界であるドリン川以南に及び、北および中部アルバニアのイリュリスを含む「真のイリュリア人」;(2) 「真のイリュリア人」とリブルニ人との間、中部アドリア海沿岸に居住したデルマタイ人;(3) 北東アドリア海のヴェネティ系リブルニ人;(4) デルマタイ人の北およびリブルニ人の彼方に居住し、その名称がヴェネティ語・ケルト語・イリュリア語の混合を示すヤポデス人;(5) ボスニア、北モンテネグロ、西セルビアに住むパンノニア人である。
これらの同定は後にラドスラフ・カティチッチによって異議が唱えられた[30][31]。彼は、イリュリクムにおいて一般的に見られる人名に基づき、三つの固有名的領域を区別した。すなわち、(1) 南東イリュリアで、モンテネグロ南部から南に延び、ドリン川以西のアルバニアの大部分を含むが、その南方の境界は不確定である地域;(2) 中央イリュリアで、古代リブルニアを除き、モンテネグロ南部以北からモラヴァ川以西に至る旧ユーゴスラヴィアの大部分を含み、おそらくは北方のパンノニアにまで拡張していた地域;(3) 名称が北東のヴェネティ領域のそれと類似するリブルニア地域である。
南東地域と中央地域との固有名的差異は、これらの地域で明確に区別された二つのイリュリア方言が使用されていたことを示すには十分ではない[18]。しかしながら、カティチッチが論じたように、イリュリア本来の中核的固有名的領域は、伝統的にイリュリア人と結びつけられてきたバルカン地域南東部(現代アルバニアを中心とする)に位置づけられるべきである[32][33]。
伝統的にイリュリア語は、この地域の非ケルト系言語を指してきた。1960年代以降の近年の研究では、イリュリア諸部族が居住した地域は三つの異なる言語的・文化的領域に分けられ、そのうち一つのみが厳密な意味で「イリュリア語」と称しうることに一致が見られる[14]。イリュリア人による自己同定に関する文書資料は存在せず[34]、またイリュリア語による碑文も存在しない。残存する言語資料は、一部の人名や地名、若干の語彙注解に限られている[14]。
語彙
イリュリア語の文献は存在しないため、イリュリア語の語彙を特定するための資料は、ハンス・クラーヘによって四種類に分類されている[28]。すなわち、碑文、古典文献中のイリュリア語の語注、固有名(主として墓碑に刻まれた人名)、地名および河川名、そして他言語におけるイリュリア語からの借用語である。最後の類型は特に論争の的となってきた。これらの名称は千年以上にわたる諸資料に現れ、貨幣学的証拠や、地名の原初形とされる再構形をも含んでいる[28]。イリュリア語の碑文は存在しない(メッサピア語の碑文は別個に扱われ、それらをイリュリア語に数えるべきかどうかについての合意は存在しない)。コヴェルで発見され、ある者たちによってイリュリア語のものと考えられた槍先[35]は、ルーン文字学者の大多数によって東ゲルマン語、より正確にはゴート語のものであるとされている。また、シュコドラ近郊で発見され、当初イリュリア語と解釈された指輪の奉納碑文は、実際にはビザンティン・ギリシア語であることが示された[36]。