イヴァン・ツァンカル
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イヴァン・ツァンカルは、当時オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったカルニオラ(現スロヴェニア)でリュブリャナ近郊のヴルフニカに生まれた。たくさんの子供をかかえた貧しい職人の父は、8番目の子であるイヴァンの誕生後まもなくボスニアへ出稼ぎに出た [3] 。 そのため母はひとりで子供たちの養育に心を砕くことになり、そんな母に対して多感な彼は大きな愛情や感謝とともに複雑な負い目を抱くようになった。自己犠牲に富み、従順であることによって抑圧的な母親という人物像は、後のツァンカルの散文にとって最も顕著な特徴のひとつになっている [4] [5] [6] [7] 。
故郷の町で小学校を終えた後はリュブリャナの工業系高等学校(Realka)に進んだ。この高等学校時代に創作を始め、最初はハインリヒ・ハイネやスロヴェニアの国民詩人フランツェ・プレシェーレンなどロマン派の影響の色濃い詩を書いていたが、1893年にアントン・アシュケルツの叙事詩に出会ったことによりロマン派的感傷を離れてリアリズムへ移行し、同時に民族主義や自由主義の政治意識にも目覚めることになった [8][1]。
その後1896年に工学専攻でウィーン大学に進んだが、まもなく文学や哲学に熱中してボヘミアン的な奔放な生活に身を投じ、同時代のヨーロッパ文学、中でもデカダン派や象徴主義の影響を貪欲に吸収した[2]。同時にまた、若きスロヴェニア人作家フラン・ゴヴェカル(Fran Govekar)との交友によって実証主義や自然主義にも親しむようになった[9]。
1897年の春にはいったんヴルフニカに帰郷したものの、同年秋に母が亡くなると、一時イストリア半島のプーラへと赴いた。翌1898年にはウィーンに戻り、1909年まで10年あまり滞在した。再びウィーンで暮らし始めると、1899年から労働者の町オッタークリング地区に移り住んだ。この間に彼の世界観や文学観は大きな変化を経験した。以前傾倒したアントン・アシュケルツの詩に対して厳しい批判を公にし、またフラン・ゴヴェカルとも決裂して実証主義や自然主義に別れを告げた。 新たに唯心論や理想主義に傾倒するとともに、キリスト教的行動主義を唱えるスロヴェニア人の司祭ヤネズ・クレックの思想に触れ、しだいに社会主義と政治活動への傾斜を深めていった[10]。しかしキリスト教的社会主義、特にクレック率いるスロヴェニア人民党の教権主義的で保守的な体質になじむことができなかった。1907年、オーストリア議会の第一回普通選挙において、オーストリア・マルクス主義を支持するユーゴスラヴ社会民主党から立候補したが、スロヴェニア人民党の候補に敗れた[11]。
1909年に最終的にウィーンを離れてからは、弟カルロが司祭を務めるサライェヴォに一時身を寄せた後、リュブリャナのロジュニック地区に落ち着いた。相変わらずユーゴスラヴ社会民主党の党員として活動を続けながらも、ユーゴスラヴ国家建設のため南スラヴ人の言語や文化の漸進的融合を目指す党の方針に対し、スロヴェニア語とスロヴェニア文化の自立を図るツァンカルはしだいに違和感を強めていった。
1907年の選挙戦以来自らの政治的主張を訴える文章を多数発表するようになっていた彼は、これ以後、執筆活動のかたわらスロヴェニア各地を精力的に飛び回って講演活動に奔走するようになった。1907年にトリエステで行った講演「スロヴェニア人とスロヴェニア文化」、1913年にリュブリャナで行った講演「スロヴェニア人とユーゴスラヴ人」などが特に有名で、これらの講演によって、南スラヴ人の政治的融合による連合国家の建設を目指しつつ、同時に文化や言語の面では個々の民族の独立性を維持すべきであるという持論を熱烈に訴え続けた [12] 。だが、そのような訴えは当然のことながらオーストリア=ハンガリー帝国に対する体制批判と見なされ、1913年と1914年の二度にわたって獄中生活を経験することになった。
第一次世界大戦中の1917年にはオーストリア=ハンガリー軍の兵士として徴兵されたが、まもなく健康上の理由により除隊になった[2]。1918年、大戦終結直後にもトリエステで講演を行い、スロヴェニアの政治や文化の活性化を訴えた。ところが、翌12月に肺炎とスペイン風邪の併発によって生涯を終えた。42歳だった。