実証主義
広義には、経験的事実に基づいて理論や仮説、命題を検証し、超越的なものの存在を否定しようとする立場
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実証主義(じっしょうしゅぎ、英: positivism、仏: positivisme、独: Positivismus)とは、狭義には、19世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントが体系化した哲学・社会思想をいう[1][2]。広義には、知識を経験、観察、測定などによって確認可能な事実に基礎付け、第一原因、最終目的、超経験的実体などについての形而上学的思弁を科学的説明から排除しようとする、複数の哲学的・方法論的立場を指す[1][3]。
「実証主義」という名称は、コントの哲学、20世紀の論理実証主義、社会科学における方法論的立場、法実証主義などに用いられてきたが、これらは成立時期、研究対象および中心命題が異なる[4][5]。論理経験主義についても、その参加者は経験主義、検証、確率、科学理論などをめぐって意見を異にしており、実証主義を単一で固定された教義として定義することはできない[4]。
語義
フランス語のpositifは、ラテン語のpositivusおよびponereの完了分詞positumに由来し、「置かれた」「定められた」「確実な」といった意味を経て用いられてきた[6]。positifが「経験および現実の事実の観察に基づく」という意味で用いられた例は18世紀から確認され、philosophie positiveという表現はアンリ・ド・サン=シモンが1813年に、コントが1822年に使用した[6]。
コントにおける「実証的」とは、日常語における「楽観的」または「肯定的」という意味ではなく、現象の第一原因や最終原因を探究する代わりに、観察可能な現象間の法則を明らかにするという意味である[1][7]。
コントの実証主義

コントは『実証哲学講義』を1830年から1842年にかけて全6巻で刊行し、数学、天文学、物理学、化学、生物学および社会学を一つの哲学的体系の中に配置した[1]。同書の目的は、既存の自然科学を整理することに加え、当時「社会物理学」と呼んでいた社会学を実証科学として確立することにあった[1]。
コントの実証主義は、経験的事実を無秩序に収集する立場ではなく、観察、実験、比較などを通じて現象間の関係を法則として組織化することを目指した[1]。コントは科学ごとに適切な方法が異なるとし、天文学では観察、物理学では実験、生物学では比較が重要になると論じた[1]。
三段階の法則
コントは、人間の知識と社会の発展が、神学的段階、形而上学的段階、実証的段階の三段階を順に通過するという「三段階の法則」を提示した[1]。
神学的段階では、自然現象は神や超自然的存在の働きによって説明され、形而上学的段階では、超自然的存在に代わって抽象的な力、性質または実体が説明に用いられるとされた[1]。実証的段階では、現象の第一原因や最終原因を求めることをやめ、観察された現象を支配する法則の発見に研究を限定するとされた[1]。
三段階の法則は、個々の科学の発達だけでなく、人類社会全体の歴史的発展を説明する法則として提示された[1]。一方、同法則のように人類史全体を一つの方向へ進む過程として説明することには問題があり、後世の社会学はコントの社会動学をそのまま継承しなかった[1]。
科学の分類
コントは、科学を、対象が一般的で単純なものから個別的で複雑なものへ進む順序に従い、数学、天文学、物理学、化学、生物学、社会学に分類した[1][8]。この分類では、後に位置する科学は前に位置する科学の成果に依存するが、前の科学へ完全に還元できるわけではないとされた[1]。
社会学は、最も複雑な現象である人間社会を対象とするため、コントの分類では最後に位置付けられた[1]。コントは社会学を、社会秩序を扱う「社会静学」と、社会変動および進歩を扱う「社会動学」に区分した[1]。
政治思想と人類教
コントの実証主義は、認識論または科学方法論だけでなく、社会秩序を再編する政治・道徳思想でもあった[1]。コントは『実証政治体系』を1851年から1854年にかけて刊行し、実証科学を基礎とする道徳、教育および政治秩序を構想した[1]。
コントは1849年に、超自然的な神を持たず、人類そのものを崇敬の対象とする「人類教」を創設した[1]。コントの宗教的・政治的構想は、同時代の支持者の間でも受け入れられず、ジョン・スチュアート・ミルやエミール・リトレは、コントの科学哲学を評価しながら後期の宗教・政治思想から距離を置いた[1]。
論理実証主義と論理経験主義
論理実証主義または論理経験主義は、1920年代から1930年代のヨーロッパで成立し、1940年代から1950年代のアメリカ合衆国で大きな影響力を持った哲学運動である[4]。中心となったのは、モーリッツ・シュリック、ルドルフ・カルナップ、オットー・ノイラートらが参加したウィーン学団と、ハンス・ライヘンバッハらのベルリンの研究者集団であった[9][4]。
論理経験主義者は、近代論理学、数学基礎論、相対性理論、量子力学などの発展を踏まえ、経験主義を論理的・言語的分析によって再構成しようとした[9]。ウィーン学団は、経験的な有意味性の基準と論理主義的な数学観を用いて形而上学を批判し、総合的アプリオリな命題の存在を否定した[9]。
初期の論理実証主義では、命題の意味を、その命題を経験によって検証する方法と結び付ける検証原理が重視された[9]。論理学および数学の命題は、経験的事実を述べる命題ではなく、言語や論理体系の規則によって成立する分析的命題として扱われた[9]。
論理経験主義者は、個別科学の概念と法則を相互に接続し、科学全体を共通の言語または論理体系によって統一する「統一科学」の構想も進めた[4][10]。ただし、物理学への全面的還元を支持した者、複数の科学言語の接続を重視した者、確率や規約の役割を重視した者などがおり、統一科学の意味は参加者間で一致していなかった[4][9]。
論理実証主義はコントの実証主義から名称と反形而上学的な志向を受け継いだが、近代論理学、言語分析、数学基礎論および物理学を中心とする点で、社会学と政治的再編を中心に置いたコントの体系とは異なる[4][9]。
批判と変容
検証原理の修正
厳格な検証原理を採用すると、普遍法則、確率的命題、観察できない理論的対象を含む命題など、実際の科学で用いられる多くの命題を有意味と認めにくくなる[3][9]。カルナップは、科学的命題を最終的に完全検証することよりも、証拠によって命題がどの程度確証されるかを扱う方向へ理論を修正した[11]。
論理経験主義者自身も、観察言語、理論語、確率、実在論、形而上学の扱いをめぐって理論を繰り返し変更していた[4][9]。このため、後世に作られた「すべての科学命題を感覚経験へ単純に還元しようとした運動」という理解は、論理経験主義内部の多様性を十分に表していない[9]。
ポパーの反証主義
カール・ポパーは、有限回の観察によって普遍命題を最終的に検証することはできない一方、反例によって普遍命題を反証することは論理上可能であるとして、検証可能性に代えて反証可能性を科学と非科学の境界基準に据えた[12]。ポパーはウィーン学団と交流し、その著作は学団関係者の編集する叢書から刊行されたが、自身をウィーン学団の外部に位置付けていた[4]。
反証可能性も、実際の科学では補助仮説、測定条件、観察上の誤りなどを同時に検討する必要があり、一つの反例だけで理論全体を直ちに放棄できないという問題を持つ[12][13]。
クワイン、デュエムおよびクーン
ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、論理経験主義が依拠していた分析命題と総合命題の明確な区別を批判し、個々の命題ではなく知識体系全体が経験による検証を受けるという認識論的全体論を展開した[14]。ピエール・デュエムとクワインに由来するデュエム=クワイン・テーゼは、観察結果が理論と矛盾した場合でも、理論本体、補助仮説、初期条件、測定方法のいずれを修正すべきかは観察だけでは一意に決まらないとする[13]。
トーマス・クーンは、観察の記述と評価基準が、科学者共同体の共有する理論、模範例、装置および訓練から独立していないと論じた[15][16]。クーンの議論は、理論から中立な観察言語と普遍的な科学的方法によって理論選択を説明する構想に対する批判となった[15][16]。
20世紀後半以降、初期の論理実証主義は独立した研究計画としては維持されなくなったが、科学的説明、確証、確率、理論構造、観察と理論の関係などの研究は、現代の分析的科学哲学に継承された[4][9]。
社会科学における実証主義
コントは、自然現象だけでなく社会現象についても、観察された規則性と因果関係を明らかにする科学が成立すると考え、その学問を当初「社会物理学」、後に「社会学」と呼んだ[1][3]。コントは自然科学と社会科学がともに実証的方法を採用すべきだとしたが、社会学を物理学へ単純に還元しようとしたわけではなく、社会現象の複雑性に応じた固有の方法を認めていた[1]。
後の社会科学方法論では、「実証主義」は、観察可能な証拠を重視する立場、自然科学と社会科学の方法的統一を支持する立場、法則的な因果説明を目指す立場、研究者の価値判断と事実認識を分離しようとする立場などをまとめて指す語として用いられてきた[3]。これらの立場は必ずしも常に一組として採用されるわけではなく、量的研究を用いることだけで研究者をコント的または論理実証主義的な意味での実証主義者とみなすことはできない[3]。
社会科学への実証主義的アプローチに対しては、社会現象には行為者自身が与える意味が含まれているため、外部から観察される規則性だけでは十分に説明できないという批判がある[3]。解釈学、理解社会学、現象学的社会学などは、人間の行為を理解するには、その行為が当事者にとって持つ意味と社会的文脈を解釈する必要があるとする[3]。
批判理論は、研究上の概念、分類および価値中立性の主張も社会的・政治的条件から独立していないとして、社会科学を純粋な観察科学として扱う立場を批判してきた[3]。一方、経験的証拠、測定、統計分析、因果推論を重視すること自体は、コントや論理実証主義の哲学体系を受け入れない社会科学研究でも広く行われている[3]。
歴史学における用法
歴史学では「実証主義的歴史学」という語が、史料批判を行い、文書その他の証拠に基づいて過去についての事実命題を構成しようとする研究態度を指して用いられることがある[17]。しかし、歴史資料は不完全で、相互に矛盾し、作成者の目的や立場に左右されるため、歴史研究には史料の発見だけでなく、概念化、選択、因果説明および意味解釈が必要となる[17]。
レオポルト・フォン・ランケは、史料に基づく近代歴史学の代表者として「実証主義者」と呼ばれることがあるが、ランケは過去を経験的事実の列挙としてのみ記述しようとしたわけではなく、その歴史観には宗教的・哲学的前提も含まれていた[18]。このため、史料批判を重視した歴史家を、コントの歴史法則や論理実証主義を共有する思想家として一括することはできない[17][18]。
法実証主義
法実証主義とは、法の存在と内容は、その法が道徳的に正しいかどうかではなく、立法、判決、慣習、権限の付与などの社会的事実によって決まるとする法哲学上の立場である[5]。近代の法実証主義は、ジェレミ・ベンサムとジョン・オースティンによって体系化され、20世紀にはハンス・ケルゼン、ハーバート・ハート、ジョセフ・ラズらによって異なる形で展開された[5]。
法実証主義は、不正な法律にも道徳的に従わなければならないという立場ではなく、ある規則が現行法であるかという問題と、その規則が正義に適うかという問題を区別する[5]。法実証主義は、論理実証主義の検証原理や、社会科学を自然科学と同じ方法で研究すべきだとする社会学的実証主義とは、名称が類似するものの独立した理論である[5]。