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ウィルトンの戦い

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ウィルトンの戦い(ウィルトンのたたかい、英語: Battle of Wilton)とは、無政府時代として知られるイングランドの内戦中に勃発した戦闘である。1143年7月1日[1][note 1]、ウィルトシャーのウィルトン(英語版)で起きた。この戦いは、ウィルトン修道院(英語版)に駐屯していたスティーブン王率いる軍勢がグロスター伯ロバート率いる軍勢による襲撃を受けたことで勃発した。スティーブン王の軍勢は敗北したものの、王自身は捕らえられることなく逃亡に成功した。

概要 ウィルトンの戦い, 交戦勢力 ...
ウィルトンの戦い
無政府時代中

カーディフ城(英語版)の大宴会場にある壁画。ウィルトン修道院(英語版)に攻めかかるグロスター伯ロバートが描かれている。
戦争:無政府時代
年月日:1143年7月1日
場所:イングランド
ウィルトシャー
ウィルトン(英語版)
結果:アンジュー軍の勝利
交戦勢力
ノルマンディー家 アンジュー家(英語版)
指導者・指揮官
スティーブン王
ウィリアム・マーテル(英語版) (捕虜)
ロバート伯
イングランドの無政府時代


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背景

1127年1月1日、イングランド王ヘンリー1世は、娘のマティルダ皇后を王位継承者に指名した[2]。しかし、1135年にヘンリー1世が死去すると、彼の甥であったスティーブン王がブローニュから海峡を渡ってイングランドへ入り、王位を主張した[3]。スティーブンはロンドンの有力者や教会からの支持を素早く取り付け、ウィンチェスターの国庫を掌握した[4]。彼は1135年12月22日に国王として戴冠した[5]。

1138年までに、マティルダはスティーブンの王位に対抗するのに十分な支持を集めていた[6]。彼女の支持者たちは、彼女の異母兄であるグロスター伯ロバートによって率いられていた[7]。 その後に続いた内戦は1153年11月6日まで続き[8]、ウォリングフォード条約によってスティーブンがマティルダの息子ヘンリーを王位継承者として承認したことで終結した[9]。

会戦前

1142年までに、双方とも開けた場所での野戦に打って出るリスクを警戒するようになり[10]、内戦は互いの拠点を占領しようと試みる攻城戦の様相を呈していた[11]。マティルダの拠点は主にイングランド南西部に限られていたため、攻城戦の大部分はその周辺地域で発生した[12]。

1143年、スティーブンは西部地方(英語版)における自身の立場を強化するために新たな軍事行動を開始した[13]。彼はマティルダ派がノルマンディーとの連絡を維持するために使用していた港街ウェアハム(英語版)へ向けて進軍した[14]。しかしウェアハムの防御は堅く、王の手で攻略することは不可能であったため、彼は代わりにソールズベリーへと転進した[15]。その途上、彼はウィンチェスターからの援軍を待つ間、ウィルトン修道院を占領して駐屯した[15]。

戦闘

スティーブン王がウィルトンに陣を取り、ソールズベリーへの攻撃に向けて軍勢を招集していたところ[15]、1143年7月1日の日没時にグロスター伯ロバートが奇襲を仕掛けた[16][note 1]。スティーブンは包囲網からの突破を試みたが、彼の軍勢はロバート伯の軍勢による騎兵突撃を受けて押し戻され、散り散りになった[17]。暗闇に乗じてスティーブンは炎上する修道院から脱出し[16]、その間、彼の家令であったウィリアム・マーテル(英語版)が殿として戦い、追手の足止めを図った[18]。戦闘の後、ロバート伯の軍勢はウィルトンの町家を略奪し、放火した[19]。

影響

スティーブン王は、捕らえられたウィルトン・マーテルの身代金として、シャーボーン城(英語版)をロバート伯に引き渡した[20]。シャーボーンは、西部地域における王の重要な戦略的拠点であった[21][note 2]。この城の引き渡しにより、ロバート伯の勢力はブリストル海峡からドーセットの南海岸にまで拡大することとなった[22]。内戦は再び膠着状態に陥り、スティーブンは西部へ権力を拡大することができず、一方でマティルダもまた同地域から外へ勢力を広げることができなくなった[23]。

注釈

  1. 日付はカンタベリーのジェルヴァーズ(英語版)による記述に基づくが(Davis, p.72n; Crouch, p.207)、彼が年代記を書き始めたのは1188年頃からである(Davis, p.148)。同時代の年代記『ゲスタ・ステファニ(英語版)』では、この戦闘を1142年12月に終結した(Davis, p.69; Crouch, p.203; Bradbury, p.123)オックスフォード包囲戦の後のこととして位置づけている(Davis, p.72n)。
  2. R・H・C・デイヴィス(英語版)は、スティーブンがこれほど高額な身代金を支払うことに応じた理由として、かつて第1回十字軍に参加していた父エティエンヌが遠征中に自身の友人たちを見捨てたという悪評と同様のものを、自身が被るのを極端に恐れていたためではないかと示唆している(Davis, p.73)。

関連項目

スティーブン王の父。第1回十字軍に参加したものの、長期戦となったアンティオキアでの城攻めの最中に脱走したことで知られる。後に1101年の十字軍遠征に参加し、その翌年に華々しく討ち死にした(英語版)。


脚注

参考文献

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