ウンフレード・ダルタヴィッラ
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| ウンフレード Umfredo | |
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| 第3代プッリャ伯 | |
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クタンス大聖堂にあるウンフレードの像 | |
| 在位 | 1051年 - 1057年 |
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| 出生 |
1010年ごろ ノルマンディー、コタンタン半島 |
| 死去 |
1057年8月 プッリャ伯領、ヴェノーザ |
| 埋葬 | ヴェノーザ、サンティッシマ・トリニタ修道院 |
| 配偶者 | ガイテルグリマ・ディ・ソレント |
| 子女 |
アベラルド エルマンノ |
| 家名 | オートヴィル家 |
| 父親 | タンクレード・ド・オートヴィル |
| 母親 | ミュリエル |
ウンフレード・ダルタヴィッラ(Umfredo d'Altavilla, 1010年ごろ - 1057年8月)は、第3代プッリャ伯。兄ドロゴーネの跡を継いだ。アベラルド(Abelardo)ともいわれる[1]。
南イタリアでの最初の数年間
ウンフレードは、タンクレード・ド・オートヴィルの最初の妻ミュリエルとの間に生まれた息子である。ゴッフレド・マラテッラは、ウンフレードを鉄腕グリエルモとドロゴーネに次ぐ三男と記している。一方、ロムアルド・グアルナは、セルロン、ゴドフロワ(ゴッフレード)、ドロゴーネ、鉄腕グリエルモに次ぐ五男と記している。いずれにせよ、セルロンは父の領地を相続するためにノルマンディーに留まり、ウンフレードは南イタリアに移住したため、ウンフレードがセルロンより年上であった可能性は低い[2][3]。
タンクレードには多くの息子がおり、その領地は彼ら全員を養うには十分ではなかったため、ウンフレードと多くの兄弟はすぐに他の場所で財産を築かざるを得なくなった[4]。
ゴッフレド・マラテッラとモンテカッシーノのアマトゥスは、ハンフリーが1035年から1037年頃、兄の鉄腕グリエルモやドロゴーネと共に南イタリアへ旅立ち、アヴェルサ伯ライヌルフ・ドレンゴトの配下に加わったとしている。しかし、シャランドンは、1042年に鉄腕グリエルモを選出したノルマン人の中にウンフレードの名前が記録されていないことから、ウンフレードは兄弟たちを追って1043年から1045年の間に南イタリアに向かったと考えている[1][3][4]。
いずれにせよ、1042年、ウンフレードの兄グリエルモはプーリア伯に選出された。1046年にはドロゴーネが跡を継ぎ、同年末にウンフレードにラヴェッロの領主権を与えた。1048年、ノルマン人とビザンツ人の間で戦闘が続いていたとき、ウンフレードはトローイアとヴァッカリッツォも征服し、南イタリアに到着したばかりの若い異母弟ロベルト・イル・グイスカルドが定住するのを助けた[1][3]。
プッリャ伯
ウンフレードは、兄ドロゴーネが暗殺された混乱のさなかに伯位を継承した。ウンフレードは兄暗殺の扇動者、特に主犯を厳しく処罰した。多くのノルマン騎士が反乱を起こし、教皇領を略奪していた。サレルノ公グアイマーリオ4世はウンフレードの継承を支持したが、間もなく暗殺された。教皇レオ9世はノルマン人に対する同盟軍を組織し、南へ進軍した。教皇軍とノルマン人の軍は、1053年6月18日にチヴィターテ・スル・フォルトーレ近郊でチヴィターテの戦いを繰り広げた。ウンフレードは、オートヴィル家(異母弟ロベルト・イル・グイスカルドの支援を受ける)とドレンゴト家(リッカルド・ドレンゴトの支援を受ける)の軍を率いて、教皇と神聖ローマ帝国の連合軍と戦った。ノルマン人は教皇軍を壊滅させ、教皇を捕らえてベネヴェントに幽閉した。これは1047年に皇帝から捕らえる許可を得ていたためである。彼らは最終的に1054年3月12日に教皇を解放した。レオ9世はその後まもなく亡くなった。1053年、ウンフレードはイタリアに到着した3人の兄弟、ゴッフレードと異母弟のマルジェーロおよびグリエルモを迎え入れた。ウンフレードはマルジェーロにカピタナータを、グリエルモにプリンチパートを与えた。
チヴィターテの戦いの後、ウンフレード率いるノルマン人は、著しく弱体化した教皇権につけ込み、征服を進めた。1055年末までに、ウンフレードはオーリア、ナルド、レッチェを占領した。一方、チヴィターテの英雄ロベルト・イル・グイスカルドはミネルヴィーノ・ムルジェ、オトラント、ガッリーポリを征服したが、ウンフレードはロベルトの勢力と影響力の拡大を恐れてロベルトをカラブリアに送り返した。1057年(史料によっては1056年)にウンフレードが死去すると、ロベルト・イル・グイスカルドが伯位を継承した。ウンフレードは幼い息子たちの後見権をロベルトに委ねていたが、ロベルトは彼らの遺産を没収した。