ピエール・ワルデック=ルソー内閣を支持し、内閣が倒れた後はコンブが組閣して、内務大臣を兼任した[1]。コンブ内閣は教権主義との闘争に精力的に活動して、議会で左派の支持を受けて1901年の結社法(ワルデック=ルソー法)を宗教法人にも適用させた[1]。1904年には修道会教育に関する新法を制定して、フランスにおける政教分離を進めた[1]。右翼は学校の世俗化を宗教への迫害とみなして激しく批判したが、コンブの政策は世論の支持を受け、コンブは「おやじ」(le petit père)という親し気なあだ名をつけられた[1]。1905年1月17日に左翼の離反により内閣が倒れたが、政教分離政策はその後も推進され、政教分離法が可決されたときには急進左翼政党の指導者がコンブを政教分離法の発案者とみなして晩餐会に招待した[1]。