モーリス・ルーヴィエ
From Wikipedia, the free encyclopedia

モーリス・ピエール・ルーヴィエ(Maurice Pierre Rouvier、1842年4月17日 – 1911年6月7日)は、フランス第三共和政の政治家。財政に長け、合計6内閣で財務大臣を務めた[1]。閣僚評議会議長(首相)を2度務めており、1度目(1887年)は大統領ジュール・グレヴィの娘婿ダニエル・ヴィルソン(フランス語版)の勲章収賄事件(フランス語版)のあおりを受けて短期間で辞任し、2度目は外務大臣テオフィル・デルカッセを辞任させて自ら第一次モロッコ事件の対処に取り組んだが、アルヘシラス会議の終結を待たずにジョルジュ・クレマンソーが政教分離法問題を利用して倒閣に成功した[1]。
1842年4月17日、エクス=アン=プロヴァンスで生まれた[2]。青年期にブーシュ=デュ=ローヌ県マルセイユで商売をして[2]、第二帝政末期にはレオン・ガンベッタを支持した[3]。1870年に帝政に反対する新聞『エガリテ』(L'Égalité)を創刊した[2][3]。1870年から1871年にかけてブーシュ=デュ=ローヌ県の事務局長(secrétaire général)を務めたが、県知事(英語版)の就任は辞退した[2]。
1871年フランス国民議会選挙(英語版)でブーシュ=デュ=ローヌ県から立候補して落選したものの[1]、同年7月の補欠選挙でマルセイユから国民議会(英語版)議員に選出された[2]。議会で共和連合(英語版)に属し、財政に精通している人物として知られた[2]。国民議会から代議院に移行すると、1876年(英語版)、1877年(英語版)、1881年(英語版)の選挙で再選した[1]。このうち、1881年の選挙では政教分離、所得税導入を公約した[2]。その後、1881年11月から1882年1月までのレオン・ガンベッタ内閣で植民地大臣および商業大臣(英語版)を務め、第2次ジュール・フェリー内閣で1884年10月から1885年3月まで商業大臣を務めた[1]。
1885年の選挙(英語版)では共和派オポチュニスト党(英語版)の一員として、アルプ=マリティーム県に鞍替えして再選した[1]。1887年5月、閣僚評議会議長(首相)および財務大臣に就任した[2]。第1次ルーヴィエ内閣は穏健共和派(オポチュニスト)から支持されたものの、急進派はジョルジュ・ブーランジェ将軍を支持して、内閣から距離を置いた[2]。大統領ジュール・グレヴィの娘婿ダニエル・ヴィルソン(フランス語版)の勲章収賄事件(フランス語版)が発覚すると、ルーヴィエはグレヴィを擁護しようとして失敗し、11月に辞表を出した[1]。グレヴィは12月1日に辞表の受け取りを拒否したが、自身も辞任を余儀なくされた[1]。同12月にマリー・フランソワ・サディ・カルノーが大統領を就任すると、ルーヴィエは再び辞表を出し、今度は受け入れられた[1]。
シャルル・フロケ内閣期の1888年4月に入閣を打診されたものの拒否し、フロケ内閣の憲法改正案に反対した[1]。財政においても野党の立場にあり、1889年2月にフロケ内閣が倒れる原因の1つとなった[2]。次の第2次ピエール・ティラール内閣に財務大臣として入閣、第4次シャルル・ド・フレシネ内閣、エミール・ルーベ内閣、第1次アレクサンドル・リボー内閣でも留任して、通算で3年10か月ほど務めた[2]。しかしリボー内閣期の1892年12月にパナマ運河疑獄事件が起き、ジャック・ド・レーナック(英語版)男爵、コルネリウス・エルツ(英語版)との関係が露見したルーヴィエは辞任を余儀なくされた[2]。
ルーヴィエは1893年2月の裁判で無罪放免となり、1893年8月(英語版)、1898年(英語版)、1902年(英語版)の選挙で再選したが、長らく閣僚にありつくことはできなかった[1]。1902年の選挙で左翼ブロック(英語版)が勝利し、エミール・コンブ内閣が成立すると、ルーヴィエは財務大臣に就任した[1]。1903年1月4日、元老院議員に選出された[4]。1905年1月にコンブ内閣が倒れると、大統領エミール・ルーベの要請を受けて組閣、財務大臣を兼任した[2]。内閣に実業界の人物が多く、ジョルジュ・クレマンソーは内閣の顔ぶれを知ると「これは内閣ではなく、取締役会だ」と評した[1]。
第2次ルーヴィエ内閣は政教分離、老齢年金、所得税導入を主な政策とし、3月に兵役を2年に短縮する法案が、7月に政教分離法案が可決されたが、世論は外交政策に注目した[2][1](ただし、ルーヴィエ自身は政教分離に興味がなかったとされる[1])。外相テオフィル・デルカッセは1898年より多くの内閣で続投しており、露仏同盟の強化、イタリア王国との関係改善、スペインとの協定締結、英仏協商の締結などフランス大衆の望む復讐(デルカッセは「復讐」を不可避とした)への準備を進めた[1]。ルーヴィエ内閣期に第一次モロッコ事件が起こっており、デルカッセはモロッコ問題についてスペインと秘密裏に調整し、イギリスとも調整に成功したが、ドイツ帝国とは関係が悪化した[2]。そして、ルーヴィエはドイツとの戦争に勝てないと判断して、デルカッセを犠牲にすることを選び、1905年6月5日の閣議で白熱した議論を経てデルカッセが辞任することとなった(後任はルーヴィエが兼任し、代わりに蔵相を退任した)[2][1]。その後、交渉を経て7月8日にドイツと協議し、国際会議による解決に同意した[2]。しかし、アルヘシラス会議の終結を待たずに、クレマンソーが政教分離問題を利用して倒閣に成功した[2][1]。会議がフランス優位で終結するのはその1か月後のこととなった[1]。
第2次内閣の崩壊とともにルーヴィエは影響力を失い、次のフェルディナン・サリアン内閣はクレマンソーが実質的に主導し、さらにその後を2年9か月間の第1次クレマンソー内閣期が続いた[1]。1911年6月7日、ヌイイ=シュル=セーヌで死去した[5]。
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 “Maurice, Pierre Rouvier”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月23日閲覧.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Rouvier, Maurice” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 781.
- 1 2 「ルービエ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』。https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%A8。コトバンクより2025年11月23日閲覧。
- ↑ “ROUVIER Maurice”. Sénat (フランス語). 2025年11月23日閲覧.
- ↑ Chisholm, Hugh, ed. (1922). “Rouvier, Maurice” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 32 (12th ed.). London & New York: The Encyclopædia Britannica Company. p. 296.
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ジョルジュ・クルエ(英語版) |
植民地大臣 1881年 – 1882年 |
次代 ベルナール・ジョーレギベリ(英語版) |
| 先代 ピエール・ティラール |
商業大臣(英語版) 1881年 – 1882年 |
次代 ピエール・ティラール |
| 先代 アンヌ=シャルル・エリソン(英語版) |
商業大臣(英語版) 1884年 – 1885年 |
次代 ピエール・ルグラン(英語版) |
| 先代 ルネ・ゴブレ |
閣僚評議会議長(首相) 1887年 |
次代 ピエール・ティラール |
| 先代 アルベール・ドーファン(英語版) |
財務大臣 1887年 |
次代 ピエール・ティラール |
| 先代 ポール・ペイトラル(英語版) |
財務大臣 1889年 – 1892年 |
次代 ピエール・ティラール |
| 先代 ジョゼフ・カイヨー |
財務大臣 1902年 – 1905年 |
次代 ピエール・メルロー(フランス語版) |
| 先代 エミール・コンブ |
閣僚評議会議長(首相) 1905年 – 1906年 |
次代 フェルディナン・サリアン |
| 先代 テオフィル・デルカッセ |
外務大臣 1905年 – 1906年 |
次代 レオン・ブルジョワ |