エルジュビェタ・ミェシュクヴナ
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| エルジュビェタ・ミェシュクヴナ Elżbieta Mieszkówna | |
|---|---|
| ボヘミア公妃 | |
| 在位 | 1173年ごろ - 1178年 |
| 出生 |
1152年ごろ |
| 死去 |
1209年4月2日 |
| 結婚 | 1173年ごろ |
| 配偶者 | ソビェスラフ2世 |
| ラウジッツ辺境伯コンラート2世 | |
| 子女 |
コンラート マティルデ アグネス |
| 家名 | ヴィエルコポルスカ・ピャスト家 |
| 父親 | ポーランド大公ミェシュコ3世 |
| 母親 | マジャロルサーギ・エルジェーベト |
エルジュビェタ・ミェシュクヴナ(Elżbieta Mieszkówna, 1152年ごろ - 1209年4月2日)は、ピャスト家のポーランド大公女で、二度の結婚によりボヘミア公妃およびラウジッツ辺境伯妃となった。チェコ語ではエリシュカ・ポルスカー(Eliška Polská)。
エルジュビェタは、ポーランド大公ミェシュコ3世と、その最初の妻であるハンガリー王ベーラ2世の娘エルジェーベトの娘である[1][注釈 1]。
エルジュビェタの生年月日は不明である。中世の史料には、ハンガリー王女が母親であったかどうかさえ記されていない。エルジュビェタがハンガリー王女エルジェーベトの娘であったと考えられているのは、両者の名前が同じであることからである[2]。一部の学者は、エルジュビェタが1152年頃[3]または1154年頃[4]に生まれたとしている。
ボヘミア公妃
1173年頃、エルジュビェタはボヘミア公ソビェスラフ2世と結婚した。この婚姻は、父ミェシュコ3世による様々な諸侯間の取り決めの一環であった。この取り決めの結果、1176年、ポーランド軍はオーストリアの支配者であるバーベンベルク家との戦いにおいてソビェスラフ2世を支援した。1178年、ソビェスラフ2世の従兄弟の子であるベドジフはプラハを包囲した。当時プラハにいたエルジュビェタはベドジフに捕らえられたが、すぐに解放された。1179年1月27日、ソビェスラフ2世はプラハ郊外での戦闘で完全に敗れ、スカーラ城に避難した。長い包囲戦の末、1179年末にベドジフが戦争に勝利し、ボヘミアの新たな支配者となった[5]。エルジュビェタと夫はハンガリーに亡命し[6]、ソビェスラフ2世は1180年1月29日に死去した。二人には子供がいなかった。
ラウジッツ辺境伯妃
エルジュビェタはポーランドに二度と戻ることはなかった。夫の死後まもなく(1180年1月末か2月初旬)、エルジュビェタはラウジッツ辺境伯デド3世の五男コンラート2世と結婚した。二人の間には三人の子供が生まれた。息子コンラートと娘マティルデ、アグネスである[注釈 2]。
1190年8月16日、辺境伯デド3世は崩御し、その領地は二人の息子に分割された。長男ディートリヒは母よりゾンマーシェンブルク伯領とグロイッチュ伯領を相続し、次男コンラートはラウジッツ辺境伯領(父の主要な領地)とアイレンブルク伯領を相続した。結果として、エルジュビェタはラウジッツ辺境伯妃およびアイレンブルク伯妃となった。ラウジッツ宮廷におけるエルジュビェタの役割については記録が残っていない。
死
1209年初頭、コンラート2世はルブシュの戦いでエルジュビェタの異母弟ヴワディスワフ3世ラスコノギの軍を破った。この経験が、1209年4月のエルジュビェタの死につながったと考えられている[7]。エルジュビェタの死の1年後の1210年5月6日、コンラート2世は死去した。
子女
- コンラート(1207年以降1210年5月6日までに没)
- マティルデ(1185年 - 1225年) - 1205年8月にブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世と結婚
- アグネス(1266年没) - ヴィーンハウゼン修道院を創建し、同修道院に埋葬された。1211年にライン宮中伯ハインリヒ5世と結婚。