コンラート2世 (ラウジッツ辺境伯)

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在位 1190年 - 1210年
出生 1159年以前
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ヴェクセルブルク修道院
コンラート2世
Konrad II.
ラウジッツ辺境伯
在位 1190年 - 1210年

出生 1159年以前
死去 1210年5月6日
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ヴェクセルブルク修道院
配偶者 エルジュビェタ・ミェシュクヴナ
子女 コンラート
マティルデ
アグネス
家名 ヴェッティン家
父親 ラウジッツ辺境伯デド3世
母親 メヒティルト・フォン・ハインスベルク
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コンラート2世(Konrad II., 1159年以前 - 1210年5月6日)は、ヴェッティン家の一員で、アイレンブルク伯、ラウジッツ辺境伯(在位:1190年 - 1210年)となった。1207年からはグロイチュ伯、ゾンマーシェンブルク伯も兼任した。ラウジッツ辺境伯デド3世とその妻でゾンマーシェンブルクの相続人であったメヒティルト・フォン・ハインスベルクの息子[1]

1190年に父が崩御すると、コンラートはラウジッツ辺境伯領とアイレンブルク伯領を相続した。1207年には、兄ディートリヒからグロイチュ伯領およびゾンマーシェンブルク伯領を相続した。

1195年、マイセン辺境伯アルブレヒト1世の死後、皇帝ハインリヒ6世はマイセン辺境伯領を廃止した。これにより、コンラートはこの地方で最高位の貴族となり、ヴェッティン家では最年長者となった[2]

1196年、コンラートはハインリヒ6世の十字軍に参加するため、イタリア経由で聖地へ旅立った。1198年、再びイタリア経由で帰国した。1207年、デーリッチュ城で議会を組織した。

コンラートは1210年5月6日に亡くなり、ヴェクゼルブルク修道院に埋葬された。妻エルジュビェタはドブリリューク修道院に埋葬された。コンラートには男子の継承者がいなかったため、領地は従兄弟のディートリヒに継承された。ディートリヒは、1198年にオットー4世によってマイセン辺境伯領が復活した際にマイセン辺境伯に任命されていた。1210年以降、ラウジッツ辺境伯はもはや存在しなくなった。ラウジッツはマイセン辺境伯領、ランツベルク辺境伯領、そしてボヘミアとブランデンブルクに分割された。

結婚と子女

コンラートは、ポーランド大公ミェシュコ3世の娘で、ボヘミア公ソビェスラフ2世の未亡人であったエルジュビェタと結婚し[1][3]、3子をもうけた[注釈 1]

注釈

脚注

参考文献

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