エルネスト・クルトー・ド・シセ From Wikipedia, the free encyclopedia エルネスト・クルトー・ド・シセ エルネスト・ルイ・オクターヴ・クルトー・ド・シセ(Ernest Louis Octave Courtot de Cissey、1810年12月23日 – 1882年6月15日)は、フランス陸軍の軍人、フランス第三共和政の政治家。第三共和政初期に陸軍大臣を務め、閣僚評議会副議長(首相)を兼任したこともあった[1]。 1810年12月23日[1]、パリで生まれた[2]。サン・シール陸軍士官学校を卒業した後、1832年にフランス陸軍に入り、1839年に大尉に昇進した[2]。フランス領アルジェリアでの軍務に従事し、1849年に少佐(シェフ・デスカドロン(英語版))、1850年に中佐に昇進した[2]。大佐への昇進を経てクリミア戦争に参戦、1854年のインケルマンの戦い(英語版)の後旅団将軍に昇進、1863年に師団将軍に昇進した[2]。 1870年の普仏戦争ではライン軍(英語版)で1個師団を指揮し、メス攻囲戦で降伏した[2]。戦後に解放されると、ヴェルサイユ政府にパリ・コミューン鎮圧軍の指揮を委ねられた[2]。1871年6月5日に陸軍大臣に任命され、7月2月の補欠選挙でイル=エ=ヴィレーヌ県とセーヌ県から国民議会(英語版)議員に選出され、前者の代表として議員を務めた[1]。1873年5月に大統領アドルフ・ティエールが辞任すると、クルトー・ド・シセはティエールの辞任反対を表明し、同年5月27日に大臣職を追われた[1]。1874年5月にアルベール・ド・ブロイ内閣が倒れると、再び陸軍大臣に就任し、今度は閣僚評議会副議長(首相)を兼任した[1]。1875年の憲法的法律の成立にあたり内閣総辞職したが、1875年3月10日に陸軍大臣に復帰した(首相職にはルイ・ビュフェが就任した)[1]。1875年12月17日、元老院議員に選出された[1]。1876年3月にジュール・デュフォールが組閣したときも留任したが、兵役を3年間に短縮する法案に反対したことで左右から攻撃され、同年8月に陸軍大臣を辞任した[1]。 1878年3月31日に第11軍団(英語版)司令官に任命されたが、1880年10月にドイツ帝国のスパイと親しい関係にあるとの疑いをもたれ、司令官を解任されて予備役に編入された[1]。同年12月に調査委員会が設立され、委員会はクルトー・ド・シセを無罪とする報告書を提出した[1]。 1882年6月15日、パリで死去した[2]。 出典 ウィキメディア・コモンズには、エルネスト・クルトー・ド・シセに関連するカテゴリがあります。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 “de CISSEY Ernest COURTOT”. Sénat (フランス語). 2025年10月5日閲覧. 1 2 3 4 5 6 7 Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Cissey, Ernest Louis Octave Courtot de” . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 6 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 392–393. 公職 先代アドルフ・ル・フロ(英語版) 陸軍大臣1871年 – 1873年 次代フランソワ・クロード・デュ・バライユ(英語版) 先代フランソワ・クロード・デュ・バライユ(英語版) 陸軍大臣1874年 – 1876年 次代ジャン・オーギュスト・ベルトー(英語版) 先代アルベール・ド・ブロイ 閣僚評議会副議長(首相)1874年 – 1875年 次代ルイ・ビュフェ Related Articles