エルネスト・モニ From Wikipedia, the free encyclopedia ムーリス通信社(フランス語版)による肖像写真、1918年。 アントワーヌ・エマニュエル・エルネスト・モニ(Antoine Emmanuel Ernest Monis、1846年5月23日 – 1929年5月25日)は、フランス第三共和政の政治家、弁護士。代議院議員、元老院議員を務め、ピエール・ワルデック=ルソーの知遇を得て司法大臣を務めた[1]。1911年に短期間閣僚評議会議長(首相)を務めたが、在任中の1911年のパリ・マドリード間レースで飛行機事故に遭って大怪我した[2]。1920年に政界を引退した後、弁護士業を再開したもののほとんど収入が得られず、1927年に議会で年金支給が可決された[2]。 1846年5月23日、シャラント県シャトーヌフ=シュル=シャラント(英語版)で生まれた[1]。弁護士となるべく教育を受け、コニャックで弁護士資格免許を取得した[2]。1879年にボルドー出身の女性と結婚してボルドーに引っ越し[1]、そこで弁護士業を開業して成功を収め、1885年フランス代議院選挙(英語版)でジロンド県から選出されて代議院議員に就任した[2]。選挙に出馬したときは共和派オポチュニスト党(英語版)に属し、議会では共和連合(英語版)に属した[1]。 代議院では1886年亡命法(フランス語版)(フランス旧王族を海外追放する法律)に賛成し、1887年から1888年にかけて第1次モーリス・ルーヴィエ内閣と第1次ピエール・ティラール内閣(いずれも共和派オポチュニスト内閣)を支持し、急進派の支持した憲法改正には無期限延期を支持した[1]。ブーランジェ将軍事件ではジョルジュ・ブーランジェ将軍の起訴に棄権票を投じた[1]。1889年フランス代議院選挙(英語版)でブーランジェ派候補に敗れて落選した後、ボルドーで弁護士業を再開した[1]。 1891年10月にジロンド県で元老院議員に当選、以降1897年と1906年に再選した[3]。元老院でフランスワインからフランス領アルジェリア、軍事問題まであらゆる分野に取り掛かり、名声を高めた[1]。有力な政治家ピエール・ワルデック=ルソーの友人にもなり、1899年にワルデック=ルソーが組閣するとモニは司法大臣として入閣した[2]。モニは政府を代表して答弁することが多く、代議院では『ラ・ランタン(フランス語版)』紙やボナパルティストに属するギュスターヴ・クーネオ・ドルナノ(英語版)からの攻撃に反論した[1]。1902年6月にワルデック=ルソー内閣が倒れ、モニは平議員に戻ったが[1]、同年に弁護士業やボルドーではじめた蒸留酒事業を廃業して、政治に専念した[2]。 1906年から1910年まで元老院副議長を務めた後、1911年3月に組閣した[1]。この内閣にはジョゼフ・カイヨー、モーリス・ベルトー(英語版)、ジャン・クリュッピ(英語版)が入閣しており[2]、モニ自身は内務大臣および宗教大臣(英語版)を兼任した[1]。モニ内閣は第2次アリスティード・ブリアン内閣とジョゼフ・カイヨー内閣の橋渡しという性質であり、モニは6月末に辞任した[1]。在任中の1911年5月21日、1911年のパリ・マドリード間レースで飛行機事故が起こり、ベルトーが死亡したほか、モニ自身も重傷を負った[1][2]。 1913年12月の第1次ガストン・ドゥメルグ内閣で海軍大臣(英語版)を務めたが、閣内不一致により1914年3月に辞任した[1]。 1920年の選挙で再選せず(不出馬とする文献と[1]、落選したとする文献が存在する[2])、政界を引退した[1]。このとき、モニは1911年の飛行機事故での怪我から完全には回復していなかったが、収入が元元老院議員としての年金(月額200フラン)しかなく、弁護士業を再開することとなった[2]。しかしモニはすでに74歳で仕事がなかなか取れず、違警罪裁判所(英語版)での弁護といった収入の少ない仕事にも取り掛かるしかなかった[2]。最終的にはモニの窮状が政府の知るところになり、1927年1月に議会でモニへの年金24,000フランが可決された[2]。このとき、モニには自身の貯金がなく、貯まったお金をすべて息子の教育につぎ込んだことが明らかになった[2]。そして、1927年に可決された年金により、モニの息子は法学の学位を修得できた[2]。 最晩年にシャトーヌフ市議会議員を務めた[2]。1929年5月25日、シャトーヌフ=シュル=シャラントで死去した[1]。 出典 ウィキメディア・コモンズには、エルネスト・モニに関連するカテゴリがあります。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 “Antoine, Emmanuel, Ernest Monis”. Assemblée nationale (フランス語). 2025年11月18日閲覧. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 “Obit of Ernest Monis”. The Guardian (英語). London. 27 May 1929. p. 12. Newspapers.comより2025年11月18日閲覧. ↑ “MONIS Ernest”. Le Sénat (フランス語). 2025年11月18日閲覧. 公職 先代ジョルジュ・ルブレ(英語版) 司法大臣1899年 – 1902年 次代エルネスト・ヴァレ(英語版) 先代アリスティード・ブリアン 閣僚評議会議長(首相)1911年 次代ジョゼフ・カイヨー 内務大臣および宗教大臣(英語版)1911年 先代ピエール・ボーダン(英語版) 海軍大臣(英語版)1913年 – 1914年 次代アルマン・ゴーティエ(英語版) 典拠管理データベース 全般ISNIVIAFFAST国立図書館ドイツアメリカフランスBnF data人物Sycomoreその他IdRef Related Articles