エルビング条約

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エルビング条約(エルビングじょうやく、英語: Treaty of Elbing)は、北方戦争中の1656年9月1日(ユリウス暦)/9月11日グレゴリオ暦)に、当時スウェーデンに占領されていたエルビングポーランド語名エルブロンク)で締結された、ネーデルラント連邦共和国スウェーデン帝国の間の条約。

条約はオランダのバルト海における権益、オランダのダンツィヒ包囲戦英語版への介入を停止させ、オランダとスウェーデンの間の脆弱な和平を継続させた。

オランダ国内では条約への不満が巻き起こって釈明を求める声が上がり、ようやく合意されるのは1659年11月29日(ユリウス暦)/12月9日(グレゴリオ暦)のヘルシンゲル協定(ヘルシンゲルきょうてい、英語: Convention of Helsingör)だった。

また同1659年にはハーグ条約によりイングランド共和国フランス王国とオランダがエルビング条約に基づく共同歩調をとることで合意した。

コンラート・ファン・ビューニンゲン英語版の肖像画、1673年作。

北方戦争中、スウェーデン王カール10世ポーランド=リトアニア共和国の一部である王領プルシスウェーデン属領英語版を樹立しようとして、1655年12月の戦役でそのほとんどを占領した[1]ネーデルラント連邦共和国バルト海からの穀物の輸入を大きく頼っており、そのうち輸入源は主に王領プルシのダンツィヒ(ポーランド語名グダニスク)となっている[2][注 1]。スウェーデン軍が1656年1月初にダンツィヒ包囲戦英語版を始めると、当時のオランダ政治の重鎮であったヨハン・デ・ウィットコンラート・ファン・ビューニンゲン英語版はオランダのバルト海貿易が脅かされていると感じ、またオランダのライバルであった海洋国家イングランド共和国と強大化したスウェーデンが同盟する可能性を恐れた[2]

ファン・ビューニンゲンは当時、スウェーデンの敵国でオランダの味方であったデンマーク王フレデリク3世の宮廷があるコペンハーゲンに住んでおり、彼は対スウェーデン宣戦を主張した[2]。デ・ウィットは宣戦がイングランドとフランス王国の対オランダ宣戦につながると恐れてより穏健な政策を主張した[2]。彼は救援軍を組織してダンツィヒを直接助けると提案、7月にはホラント州の外交官のデン・ハーグにおける外交努力により[4]スターテン・ヘネラールから艦隊と上陸軍を派遣する許可を受けた[5]

7月下旬、オランダ船42隻とデンマーク船9隻はダンツィヒに到着[6][注 2]、兵士1万と大砲2千を連れてきた[4]。救援軍が上陸した後、オランダの指揮官がダンツィヒの守備を指揮した[6]。スウェーデン駐ロンドン大使クリステル・ボンデスウェーデン語版護国卿オリバー・クロムウェルにそれを告知、クロムウェルはスウェーデンとオランダに手紙を書いて講和を訴えた[8]

内容

ヨハン・デ・ウィット

条約は1656年9月11日(グレゴリオ暦)[9]/9月1日(ユリウス暦)[10]に締結された。

1640年と1645年に締結されたオランダ・スウェーデン間の貿易条約は再確認された[6]。スウェーデンはオランダ商人のダンツィヒへの自由通行[10]バルト海における自由貿易と航行を許可した[11]。ダンツィヒやピラウ(現ロシア領バルチースク)などの入港税は増額されないとした[12]

スウェーデンはさらに北方戦争におけるダンツィヒの中立を尊重すると承諾[13]、オランダには最恵国待遇を与えた[14]。また両国の友好を約束した[11]

条約の履行

脚注

参考文献

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