エルフヘルム (ヨーク太守)
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| エルフヘルム Ælfhelm | |
|---|---|
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在位期間 994年頃 – 1006年 | |
| 先代 | ソレッド |
| 次代 | ウトレッド |
| 死亡 |
1006年 シュルーズベリー |
| 父親 | 不詳 |
| 母親 | ウルフラン |
| 配偶者 | ウルフラン |
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子女 ウルフヘア ウフェゲアト エルフギフ王妃 | |
エルフヘルム(Ælfhelm、1006年没)とは、11世紀初頭のアングロサクソン人ヨーク太守(在位994年頃 - 1006年)である。実質的に南部ノーサンブリア(ヨーク周辺地域)を治めた。太守(Ealdorman)(あるいは伯(Earl))とは、国王に代わり州を統治する上級貴族を指す。エルフヘルムはイングランド中部のマーシア出身でありノーサンブリア出身者ではないものの、その地位を築いた。994年頃の勅許状に dux (Ealdorman、太守)として初めて名が記される。
その後の記録は主に勅許状への署名記録に限られるが、兄弟ウルフリック・スポットの遺言状にはその名が記されている。12世紀の伝承によれば、1006年、エゼルレッド無策王の黙認を得たエアドリク・ストリオナによりエルフヘルムは殺害され、その息子らは目を潰されたという。娘のエルフギフはクヌート大王の妃となり、エルフヘルムは後の王ハロルド兎足王の祖父となった[1]。
エルフヘルムはマーシア人であり、バートン修道院を創設した富裕な貴族の女性、ウルフランの息子であった。父親については不明であるが、兄弟のウルフリック・スポットが「ウルフランの息子ウルフリック」と呼ばれていることから、彼らの地位は主に母親に由来するものと考えられ、父はウルフランよりも格下の身分であったと推測されている[2]。ウルフリック・スポットはバートン修道院を創設したが、エルフヘルムの姉妹であるエルフスリスについてはほとんど知られていない[3]。
また、ウルフランはウォルバーハンプトン(「ウルフランの主要な定住地」を意味する)という名の由来となった集落に、聖マリアのミンスターを建立した[4]。彼女に関する最古の記録はタムワースに関連するもので、940年に同地がオラフ・グスフリスソンによって占領された際、唯一の捕虜として彼女の名が挙げられている[4]。彼女の所領は主にスタッフォードシャーにあり、一方、ウルフリック・スポットの所領の大部分はスタッフォードシャー、ダービーシャー、そしてウォリックシャー西部にあったと考えられている[5]。
南部ノーサンブリアの太守
エルフヘルムは994年に dux (すなわちエアルドルマン)として勅許状に連署し始める[6]。歴史学者サイモン・ケインズは、彼が982年から990年にかけて従士(minister)として勅許状に署名しているPASEの「Ælfhelm 15」と同一人物であると考えている[7]。それ以前のエドガー平和王の治世下においても勅許状に登場している可能性はあるが、太守としての称号である dux によってのみ確実に特定できるため、それ以前の「エルフヘルム」という名の従士たちが、後の南部ノーサンブリアの太守と同一人物であると断定することは不可能である[8]。
994年におけるエルフヘルムの明らかな昇進は、993年にノーサンブリアで発生したスカンディナヴィア人による攻撃が原因であったと一部の歴史家(例えばリチャード・フレッチャーなど)は考えている[9]。993年の条において、『アングロサクソン年代記』はヴァイキングがノーサンブリアに侵攻し、バンバラを略奪したこと、その後イングランド南部で軍が組織されたことを記している。
- バンバラは略奪され、多くの戦利品がそこで奪われた。その後、軍はハンバー川の河口に現れ、リンジー王国とノーサンブリアの両地で甚大な被害をもたらした。これに対し、非常に大規模なイングランド軍が集結したが、いざ交戦すべき時になると、指揮官であったフレナ(Fræna)、ゴドウィン(Godwine)、フリゼギスト(Frythegyst)らが真っ先に逃走を始めた[10]。
フレッチャーは、この時期に記録から姿を消した前任者ソレッドが、スカンディナヴィア人に対する失策の結果として、エゼルレッド2世によって罷免され、エルフヘルムと交代させられたのではないかと推測した[9]。別の歴史家ウィリアム・カペルは、ソレッドが解任されたのはスカンディナヴィア系の血筋であったためだと主張している。この議論は、『ウスター年代記』が『アングロサクソン年代記』からの引用に加えた「フレナ、ゴドウィン、フリゼギストが逃走したのは、彼らが父方でデーン人であったからである」という記述に基づいている[11]。
ウルフリック・スポットの遺言状
エルフヘルムの兄弟であるウルフリック・スポットは、古英語で書かれた遺言状を残しており、そこからエルフヘルムに関する多くの詳細を知ることができる。例えば、この遺言状には彼ら二人の息子、ウルフヘア(Wulfheah)とウフェゲアト(Ufegeat)の名前が記されている[12]。この文書は1002年から1004年の間に作成されたものであり、12世紀の写本が現存している[13]。
ウルフリックは、アロサの漁期ごとにバートン修道院へ3,000尾のアロサを納めるという条件で、「リブル川とマージー川の間、およびウィラル」にある土地をエルフヘルムとその息子ウルフヘアに譲渡した[14]。ウルフリックはエルフヘルムにロールストン(スタッフォードシャー)、ハーラストン(スタッフォードシャー)、およびコニスバラ(ヨークシャー)を遺贈したが、最後の土地については、そこで獲れる魚の3分の1をバートンに寄贈することが条件とされた[14]。ウルフヘアはバーラストン(スタッフォードシャー)、マーチントン(スタッフォードシャー)、およびアルヴァストン(ダービーシャー)を受け取った。一方、もう一人の息子ウフェゲアトには、「(バートン)修道院のより良き友人、支持者となることを期待して」ノートン(ダービーシャー)が与えられた[14]。エルフヘルムは、バートン修道院とウルフリックの娘の所領を保護するよう求められている[15]。
死と遺産
その死に至るまでのエルフヘルム太守の経歴については、他にほとんど記録がない[16]。彼の死と二人の息子の失明に関する記述は『アングロサクソン年代記』にあり、1006年の条に以下のように記されている。
- この年、カンタベリー大司教エルフリックが没し、エルフヘア司教がその後を継いで大司教座に就いた。同年、ウルフゲートは全財産を剥奪され、ウルフヘアとウフェゲアトは目を潰され、エルフヘルム太守は殺害された[17]。
『ウスター年代記』は、この時期の記述として『アングロサクソン年代記』からの引用に補足情報を加えたもので、この出来事をエアドリク・ストリオナの仕業とする、物語(サガ)風に拡張された記述を残している。
- 狡猾で不実なエアドリク・ストリオナは、高潔なエルフヘルム太守を欺こうと画策し、シュルーズベリーで盛大な宴を催した。エルフヘルムが客として訪れると、エアドリクはあたかも親友であるかのように彼を歓迎した。しかし、宴の3日目か4日目、伏兵を用意した上で、彼はエルフヘルムを狩りへと森へ連れ出した。一同が狩りに夢中になっていたとき、シュルーズベリーの肉屋であったゴドウィン・ポルトフンド(Godwine Porthund、「町の犬」を意味する)という男が伏兵の中から突如として飛び出し、エルフヘルム太守を無惨に殺害した。この男は、犯罪を完遂させるために、エアドリクから多額の贈物と多くの約束によってあらかじめ篭絡されていたのである。その直後、クッカムに滞在していた王の命により、息子たちの両眼は抉り取られた[18]。
この『ウスター年代記』の内容は、現存はしていないものの、11世紀および12世紀の様々な史料に利用されたエアドリク・ストリオナに関する失われたサガの一部であったと考えられている[19]。カペルは、エゼルレッド王の不興を買うことなく行われたエルフヘルムの殺害は、スカンディナヴィア人の侵攻を前にして、彼の忠誠心に疑いが持たれた結果であると考えている[20]。
史料によれば、エルフヘルムの後継者はウトレッドであり、彼は数十年ぶりにノーサンブリアの北部と南部を統合して統治した有力者となった[21]。De obsessione Dunelmiとして知られる文書では、スコットランドによる侵攻を退けた後にウトレッドが権力を掌握したと記されている[22]。
エルフヘルムは二人の息子のほかに、ウルフランという名の女性との間に娘であるエルフギフをもうけていた[1]。エルフギフという地域由来の名は、エルフヘルムが東部デーンロウに領地を持っていたことのさらなる証拠とされる[1]。1013年から1016年の間のいずれかの時期に、彼女は後のデーン人イングランド王クヌートと結婚した[1]。二人の息子は、後にイングランド王となったハロルド兎足王である[1]。