エルヴィン・ブムケ
From Wikipedia, the free encyclopedia
| エルヴィン・ブムケ Erwin Bumke | |
|---|---|
|
ナチス時代のブムケの肖像 | |
| 生年月日 | 1874年7月7日 |
| 出生地 |
シュトルプ |
| 没年月日 | 1945年4月20日(70歳没) |
| 死没地 |
ライプツィヒ |
| 出身校 |
フライブルク大学 ライプツィヒ大学 ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン フンボルト大学ベルリン グライフスヴァルト大学 |
| 前職 | 陸軍軍人(陸軍大尉) |
| 所属政党 |
(1919年 - 1929年) (1937年 - 1945年) |
| 内閣 |
第2次ミュラー内閣 第1次ブリューニング内閣 第2次ブリューニング内閣 パーペン内閣 シュライヒャー内閣 ヒトラー内閣 |
| 在任期間 | 1929年4月1日 - 1945年4月20日 |
| 大統領 総統 |
パウル・フォン・ヒンデンブルク アドルフ・ヒトラー |
| 軍歴 | |
|---|---|
| 所属組織 |
|
| 軍歴 |
1897年 - 1899年 1914年 - 1919年 (ドイツ帝国陸軍) 1933年 - 1945年 (親衛隊) |
| 最終階級 |
|
| 除隊後 | 裁判官、法務官僚 |
エルヴィン・コンラート・エドゥアルト・ブムケ(Erwin Konrad Eduard Bumke, 1874年7月7日‐1945年4月20日)は、ドイツの法曹、法務官僚、裁判官。ヴァイマル共和政時代からナチス時代にかけて、最高裁判所(ライヒ裁判所)長官を務めた。
初期の経歴
1874年7月7日にプロイセン王国ポンメルン州の小さな町シュトルプ(現在のポーランドのスウプスク)に中産階級の家庭に生まれた。彼の父は医者であり、母は工場主の娘である。兄のジークフリートはブムケと同じ裁判官になり、弟のオズワルドは著名な精神科医となった。ブムケはフライブルク、ライプツィヒ、ミュンヘン、ベルリン、グライスヴァルトで法学を学んだ後[1]、1896年にグライフスヴァルト王立大学で博士号を取得した。
1897年3月末から翌年9月末まで、ブムケは故郷の地方裁判所に勤務した。その後2年間、トルンにある第2ポメラニア野戦砲兵連隊附属第17連隊に 一年志願兵として兵役を務め、1899年末に予備役中尉に昇進した。兵役を終えた後、地方裁判所に研修生として戻り、1902年に司法試験に合格した。その後シュテティーン地方裁判所で短期間、補助職に就いたが、職を辞した後は旅に出た。1905年にドイツに戻り、エッセンで裁判官としてデビューした[2]。1907年には、後の帝国司法省の前身である帝国司法庁で働き始め、1909年に、政府秘密顧問官に任命された[3]。同年、彼は後の法務大臣ハンス・ヨアヒム・フォン・メルカッツの叔母であるエヴァ・フォン・メルカッツ(1873-1947)と結婚した。夫婦には2人の息子がいて、どちらも第二次世界大戦で亡くなった。ブムケ自身は、第一次世界大戦が勃発した際に陸軍予備役中尉として野戦砲兵隊に所属し、後に幕僚任務を任された。大尉の階級で帰還し、司法庁に戻った。
ヴァイマル共和国時代

戦後の1919年にブムケは、民族主義的保守政党ドイツ国家人民党(DNVP)に入党し、翌年には司法省の刑法に関係する新設の第2部長及び次官に昇進した。1929年に、第6代最高裁判所長官が辞任すると、ブムケは後任として、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領によって最高裁判所長官に任命された。同時にベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学から名誉博士号を授与された[4]。
1930年にはベルンに置かれた国際刑事法および刑務所委員会の委員長に就任した。1932年10月25日のフランツ・フォン・パーペン率いる中央政府によるオットー・ブラウン率いるドイツ社会民主党(SPD)プロイセン自由州政府転覆事件(プロイセン・クーデター)の際には、ブムケは最高裁判所長官として、帝国首相をプロイセンの国家弁務官に任命し、同州の各大臣から一時的に職務権限を剥奪し、その権限を自らが引き継ぐ権限、あるいは他の国家弁務官に委譲する権限は、憲法に適合すると判断し、クーデターに正当性を与え、パーペン中央政府を支持した。
1932年12月に可決されたヴァイマル憲法の改正により、ドイツ国大統領が在任中に死亡した場合、もしくは急病により職務不能になった場合に、帝国首相ではなく、最高裁判所長官がドイツ国大統領の代理を務めることになった。憲法第51条第2項では、新たな選挙が実施されるまでに、大統領の任期が早期に終了した場合についても同様と規定されていた。しかし、ヒンデンブルクが2年後に亡くなった際にこの規定は無視され、首相のアドルフ・ヒトラーが大統領の職務を引き継ぎ、それを承認するドイツ国の国家元首法を公布した[5]。
ナチス時代
1933年1月のナチ党の権力掌握後も、法務大臣フランツ・ギュルトナーや次官フランツ・シュレーゲルベルガーのように職を維持し、第三帝国の法学を調整する責任を任され、犯罪国家確立に向けてナチ党と幅広く協力した。同年7月、ブムケはナチス親衛隊の名誉隊員となり、1937年にナチ党に入党し、翌年には黄金ナチ党員バッジを授与された。ブムケはいくつかの人種差別的な評決の責任を負うようになり、第3刑事部門の部長として、ニュルンベルク法の人種恥辱に基づいて統制した。また、彼は1939年から1941年にかけて行われたT4作戦にも関与し、生きる価値のない生命とされた患者への安楽死計画の法的根拠を与えた。1942年にブムケの指揮のもと行われたエヴァルト・シュリットに対して下した死刑判決は、司法殺人以外の何ものでもなかったという[6]。1939年、彼の最高裁判所長官としての任期は、ヒトラーの個人的な法令によって延長されることとなり、最終的に第二次世界大戦の終戦まで務めた。また同時に、芸術と科学の分野におけるゲーテ勲章を授与された。