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オド (バイユー司教)

11世紀のノルマン人貴族 / ウィリアム征服王の異父弟 / バイユー司教 / ケント伯爵 From Wikipedia, the free encyclopedia

コンテヴィルのオドンOdon de Conteville)、通称バイユーのオドンOdon de Bayeux)またはオドOdo[1]、時にウードEudes[注釈 1](1030年頃/1035年以降[2] - 1097年1月6日[3])とは、11世紀に活躍したノルマン人貴族である。異父兄であるギヨーム2世(征服王)との血縁関係により、バイユー司教フランス語版(在位:1050年 - 1097年)となり、その後、征服されたばかりのイングランド王国において最も富裕で強力な権力者の一人となった。王の不在時には何度もイングランドの摂政(共治者)を務め、ケント伯(在位:1067年 - 1082年、1087年 - 1088年)でもあった[4]

次代 収公
先代 ユーグ2世フランス語版
次代 テュロール・ド・ブレモワ英語版
概要 バイユーのオド, ケント伯 ...
バイユーのオド
バイユー司教フランス語版
ケント伯
イングランド王摂政
バイユーのオド(バイユーのタペストリーの第44場面より)

在位期間
1067年 - 1082年、1087年 - 1088年
先代 レオフウィン・ゴドウィンソン
次代 収公

バイユー司教フランス語版
在位期間
1049年/1050年 - 1097年
先代 ユーグ2世フランス語版
次代 テュロール・ド・ブレモワ英語版

出生 1030年頃、または1035年以降
ノルマンディー公国
死亡 1097年1月6日
シチリアパレルモ
王室 コンテヴィル家英語版
父親 エルラン・ド・コンテヴィルフランス語版
母親 アルレット・ド・ファレーズ
信仰 カトリック教会
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野心、冷酷さ、そして気力に満ちた人物として有名であるが[5]、その評価は賛否両論に分かれている。1082年から1087年にかけての5年間、突如失脚して投獄された。イングランド征服の様子を描いた刺繍作品であるバイユーのタペストリーの注文主であった可能性が極めて高いとされている[5]

生涯

コンクエスト以前

オドはコンテヴィルフランス語版副伯であったエルラン・ド・コンテヴィルフランス語版(1001年頃 - 1066年頃)とアルレット・ド・ファレーズ(1010年頃 - 1050年頃)の息子である[6]。確実なことは不明だが、おそらく長男であったと考えられている[3]。彼の母親は、かつてノルマンディー公ロベール1世(1010年頃 - 1035年)の「フリラ」(デーン人の流儀による妻[注釈 2])であり、のちに「征服王」と呼ばれる庶子のウィリアム(1027年頃 - 1087年)の母親でもあった。オドの弟はモルタン伯ロベール(1090年没)である[6]。オドの正確な生年は不明だが、両親がギヨームの誕生直後の1030年頃に結婚し、オドはそのしばらく後に生まれたということで歴史家の意見は一致している[2][7]

彼は1049年10月から1050年4月末までの間にバイユー司教に任じられた[3]ポワティエのウィリアムフランス語版は、この任命時点でオドが教会法で定められた30歳という年齢を大幅に下回っていたことを認めている[6]。生年に関する仮説に従えば、彼は良くても19歳、最悪の場合は14歳であったことになる[2]。当時の年代記作者の中に、この任命がスキャンダルを引き起こしたと記録している者がいないことから、当時の彼は19歳程度であり、それなりの高等な宗教教育を受けていた可能性が高い[2][6]。公の幼少期にノルマンディーで続いた混乱のため、オドは両親の保護下から離され、他所で学習を受けていた可能性が極めて高い[6]。オドがフェカンにおいて、親族であるリジュー司教ユーグ・デュフランス語版によって執事(助祭)に叙階されたのは1051年のことであり、それまでの数年間は、実質的に「世俗の(叙階されていない)司教」であったとみられる[1]

彼の司教任命と、その数年後になされた弟ロベールのモルタン伯への任命は、ノルマンディー公国の主要ポストに信頼できる身内を配置しようとする兄ウィリアム公の意志によるものであった[6]。実際、1035年に8歳で公国を継承したウィリアムの幼少期は非常に激動していた。彼は何度も暗殺の危機を逃れ、公国は無政府状態に陥っており、多くの諸侯たちが庶子であるウィリアム公の統治を拒んでいた。最終的に1047年、ギヨーム公はヴァル・エ・ドゥーヌの戦いフランス語版で反乱軍に勝利を収め、この混乱期に終止符を打った[8]。その後、彼は下ノルマンディーフランス語版への権力基盤を固めることを決意し、特に重要かつ莫大な利益を生むバイユー司教区を手中に収めてオドに委ねたのである[6]

司教区の再組織化は、オドの前任者で有力者であったバイユー司教ユーグ2世フランス語版の時代に始まっていた[6]。ユーグのおかげで、スカンディナヴィア人の入植時に横領されていた司教区の資産が回収され、新しい大聖堂の建設が始まっていた[6]。この大聖堂はオドの手よって完成されることになる[6]ジャン・ヴァレリー=ラドフランス語版によれば、建設の正確な期間は1040年から1080年の間とされる[9]オルデリック・ヴィタルフランス語版は大聖堂の建設功績のすべてをオドに帰しているが、ロベール・ド・トリニ英語版はこれに異議を唱えている[9]。大聖堂は1077年7月14日、ルーアン大司教ジャン・ディヴリーフランス語版によって献堂された[10]

1066年、イングランド王エドワード懺悔王が後継者を残さずに死去すると、ウィリアム公はイングランド王位継承権を主張したが、ハロルド・ゴドウィンソンが王に選出された。ウィリアムは、1050年代初頭にエドワードから後継者に指名されていたと主張して裏切られたと感じ、イングランド侵攻を計画した[8]。オドは、イングランド侵攻計画について公国の諸侯たちの意見を聴取するために開かれたリルボンヌ評議会フランス語版に参加した[11]。この評議会で、彼は海を渡って上陸する艦隊に対し、100隻の船を提供することを約束した[12][注釈 3]。彼は1066年、異父兄ウィリアムのイングランド遠征に同行した。

イングランド征服

こん棒を手に、後方から兵士たちを鼓舞するオド。

イングランド征服の様子を描いたバイユーのタペストリーでは、オドは侵攻における重要な人物、すなわち戦士であり顧問として描かれている。彼はヘースティングズの戦いの場面において、鎖帷子英語版を身にまとった姿で描かれている。このため、一部の歴史家(エドワード・オーガスタス・フリーマン英語版など)は、オドがこの有名な戦いに実際に参加し、教会法に背いて血を流すことを避けるために剣ではなく戦棍(メイス)を振るった、と推測することになった[6]

しかし、タペストリーのこの場面のラテン語の解説文「Hic Odo Eps. Baculum Tenens Confortat Pueros」(「ここに司教オドあり。バクルム(指揮棒)を手に若い兵士たちを鼓舞す」[13])は、むしろ彼が後方から部隊を指揮し、鼓舞していたことを示唆している[6]。彼が手に持っている指揮棒(バクルム)は、ギヨーム公が権威と指揮の象徴として他の3つの場面で手に持っているものと同様のものである[6]。12世紀末に執筆したワースも、この場面をそのように解釈している[6]。しかし、ポワティエのウィリアムは、オドとクータンス司教フランス語版ジョフロワ・ド・モーブレーフランス語版 は祈りによって軍を助けるためにそこにいただけであり、武器は携えていなかったと記述している[6]。この歴史家の記述の方が信頼性が高く、タペストリーやワース(いずれもバイユーに密接に関連する情報源)におけるオドの戦いへの関与の描写は誇張されている可能性が高いことを示唆している[6]

恩賞

彼は1067年の初頭、ドーバーとそのの責任者に任命された際に、おそらくケント伯に叙せられた[4]。彼は、前任者であったレオフウィン・ゴドウィンソンの地位とその領地の大部分を引き継いだ[4]。それにもかかわらず、彼がケント伯として登場する現存する最古の勅許状は1072年のものである[4]。1067年から得ていた伯爵の称号と、ウィリアム・フィッツオズバーンとの共同摂政としての責任は、ウィリアム征服王が自身の異父弟に王国統治において重要な役割を担わせるつもりであったことを示している[6]

彼はイングランド全土に広大な土地を獲得し、1086年のドゥームズデイ・ブックによれば、それらは年間3240ポンド以上の収入をもたらしていた[14]。したがって、彼は王国内の直属封臣英語版の中で最も裕福な封臣であり、富裕さで彼に比肩できたのは弟モルタン伯ロベールロジャー・ド・モンゴメリーだけであった。彼は22の郡に439のマナーを所有していた[注釈 4]

イングランドにおけるバイユーのオドの封臣([注釈 5])の多くは、バイユー地域の出身者であった[6]。しかし、彼らはその地域の高等貴族ではなく、はるかに身分の低い出身であった。特にビゴ家フランス語版レイシー家フランス語版、ポート家などは、オドの庇護を利用して重要な諸侯家を興した[17][18]

バイユーのタペストリー

オドは右から3番目の人物。
真ん中の背の低い人物がテュロール
騎乗姿で描かれるワダール
騎乗姿で描かれるヴィタル。ウィリアム公にハロルド軍の位置を指さしている。

バイユーのオドは一般に、バイユーのタペストリーの注文主であると同定されている[6]。この推測は、タペストリーにおいてバイユー地域の貢献が確実に誇張されていることを示す一連の状況証拠に基づいている[19]

まず、作品中には主要な歴史的人物(ハロルド・ゴドウィンソン、エドワード懺悔王、ウィリアム征服王など)や謎めいた登場人物「エルフギヴァフランス語版」を除けば、騎士ワダールフランス語版騎士ヴィタルフランス語版テュロールフランス語版という3人の人物しか名前が挙げられていない[19]。しかし、彼らはヘースティングズの戦いに関する他のいかなる同時代の史料にも登場しない[19]。このことから、彼らが歴史的事件に大きな足跡を残さなかったことを推測できる。彼らの名前がタペストリーに刺繍されているという特別な扱いを受けている理由は、一見すると説明がつかない[19]。しかし、これらの男たちはすべて、オドがケントに所有していた土地の封臣であり、彼が戦いに連れてきた配下の人物であったことが判明している[19]。次に、タペストリーは、ハロルド・ゴドウィンソンがウィリアム公に対してイングランド王位獲得の際の忠誠と援助を聖遺物の上で誓う場面を描いているが、タペストリーによれば、この誓いはバイユーで行われたとされる[6][19][注釈 6]。しかし、オルデリック・ヴィタルフランス語版はこの出来事をルーアンポワティエのウィリアムフランス語版ボンヌヴィル=シュル=トゥークフランス語版であったとしている。ここでもまた、タペストリーは同時代の他の記述と矛盾して、バイユーを前面に押し出している。

最後に、ヘースティングズにおけるオドの役割は、バイユーに関係のない史料ではほとんど言及されていない[6]。歴史家によれば、これほど大規模でバイユーを強調する作品に資金を提供できる人物はオドをおいて他になかった。したがって、彼がバイユーのタペストリーを注文し、それによって自身の司教区のヘースティングズの勝利への貢献を誇張する機会を得た、と考えるのが妥当である[19]

政治活動

歴史的史料は、彼が1066年から1071年にかけてのイングランド征服の完了期において、何らかの役割を果たしたとは示していない。イングランド王国の摂政(または共同摂政)の任務は、ウィリアム征服王がノルマンディーに滞在している間、定期的に彼に委ねられていた[5]。特に新しい王がノルマンディーに帰国した1067年2月以降がその例である[3][6]。1075年、彼はクータンス司教フランス語版であったジョフロワ・ド・モーブレーフランス語版と共に軍を率い、ノーフォーク伯サフォーク伯を兼任したラルフ・ド・ガエル英語版の進軍を阻んだ。ラルフは、のちに「諸伯の乱フランス語版」と呼ばれる征服王に対する反乱において、共犯者である第2代ヘレフォード伯ロジャー・ド・ブレトゥイユと共にイングランド王位の奪取を企てていたのである。二人の司教は彼を敗走させた[21]。オルデリックは、反乱の際に捕らえられた者たちはのちに識別できるように右足を切断されたと記述している[22]。しかし、この事件において、防衛と王国の行政の調整役を務めたのはカンタベリー大司教ランフランクスであったようである[3]。オドは同時代の史料で、イングランドにおける兄の定期的な代理人としてしばしば言及されているが、彼自身も頻繁にノルマンディーに滞在していた[3]。デヴィッド・ベイツの解釈によれば、ウィリアム征服王は不在中の王国の責任者を指名していたものの、オドはいつでも王権と同等の権限をもって独自の判断で行動することができたとされる[3]

1080年秋、彼は王国の北部で軍を率い、前年にダラム司教英語版ウィリアム・ウォルチャー英語版が殺害されたことへの報復としてノーサンブリアを荒廃させた[3]

オドは王国内を頻繁に移動したことで知られており、表向きは王の名において、小規模な土地の保有権をめぐる数多くの紛争を解決した[5]。しかし、彼は王に対して完全な独立性を持っていたわけではなく、ウェールズ国境のパルティン伯のような特別な権力も持っていなかった。また、異父兄から特別に贔屓されていたわけでもなかった。例えば、1072年頃に行われたペニンデン野の裁判英語版において、サクソン王朝時代に横領されたケントの土地に対する彼の要求は、王の代理人によって退けられ、カンタベリー大司教区とその宿敵である大司教ランフランクスに有利な裁定が下された[23][24]

失脚

1082年の終わりか1083年の初め[3]、理由は定かではないが、ウィリアム征服王は彼の排除を取り決めた[5]。彼は逮捕され、説明もないままルーアンの塔フランス語版に幽閉され、イングランドの領地は没収された[5]

1108年頃、年代記作者ノジャンのギベールフランス語版は、オドが異父兄の死後にイングランド王国を乗っ取る計画を立てていたと記している[3]

しかし、オルデリックは、オドがローマへの軍事遠征を企て、ワイト島に軍隊を集めていたと伝えている[3]。彼は当時のローマ教皇グレゴリウス7世の苦境を利用して、教皇の座を奪おうと目論んでいた。この教皇に対する陰謀の仮説は、いくつかの異なる史料によって現代に伝わっている[25][6]

歴史家のフランソワ・ヌヴーフランス語版は、この計画がなぜウィリアム王を激怒させたのか疑問視している[26]。さらに、教皇側の史料にはこの話に関する言及は一切ない[3]。オルデリックはその後、王の口を借りて真の非難の言葉を述べている。すなわち、オドは数々の悪行を重ね、貧しい人々から略奪してイングランドを抑圧したという罪である。歴史家のフランソワ・ヌヴーは、これらの不満は当時すでに古いものであったため、この説明に疑問を呈している[26]。また、デヴィッド・R・ベイツによれば、この説明の弱さはその不条理さにある[6]。オルデリックはその記述の中で、チェスター伯ヒュー・ダヴランシュがオドの主要な軍事的な支持者であったと言及しているが、この言及は驚くべきものである。なぜなら、ヒューは、イングランドで義務付けられていた軍役から騎士を無断で引き抜いたこと(オドの罪状とされる行為)について、オドとは異なり一切処罰されていなかったからである[6]。したがって、この巧妙に作り上げられた説明は真実である可能性もあるが、理解しがたい出来事に対して後からもっともらしい説明を与えるために、完全に捏造されたものである可能性もある[6]

晩年

彼は異父兄の治世の最後の5年間を牢で過ごした。彼の弟ロベール伯は、1087年に臨臨を迎えた征服王からオドの釈放をやっとのことで勝ち取った[3]。1087年の末までに、甥のイングランド王ウィリアム2世(赤顔王)によってかつての領地を回復されたものの[27]、彼は1088年に勃発した王に対する反乱英語版で宗教的指導者となった。この反乱は、ノルマンディー公国とイングランド王国を、征服王の長男ロベールの単一の統治下に再統合することを目的としていた[28][注釈 7]

オドは、城も支配していた要塞都市ロチェスターに拠点を構えた。ロンドンカンタベリーの中間に位置するこの場所は、二つの重要な都市を脅かすことを可能にした。1088年4月、彼はカンタベリー大司教区の領地に対する壊滅的な略奪を開始した。その後、ペヴェンジーにいる弟ロベール伯のもとに合流した。ロベール伯がロベール公から援軍を受け取ったという知らせを受けたためである[28]

ウィリアム2世はオドがロチェスターを離れたという報告を受け、彼が最大の敵であることを自覚して、ペヴェンジーで彼を包囲した。城は6週間の間持ちこたえたが、最終的に降伏した。オドは二つの条件と引き換えに自由を提示された。すなわち、何人かのノルマン人およびフラマン人の男爵たちが立てこもるロチェスター城の降伏交渉を行うこと、そしてその後イングランドから追放されることであった。ウィリアム王はオドを部隊とともに本隊に先んじて派遣したが、オドとその護衛はロチェスターの守備隊によって捕らえられ、反乱はさらに数週間続くことになった[28]

反乱が失敗に終わった後、ウィリアム王が反乱者のほぼ全員に対して恩赦を与えることを決定した一方で、オドはイングランドから追放され、イングランドのすべての土地を失った[28]

彼は晩年をバイユー司教区で過ごした。彼が投獄されていた間に荒廃していた司教区を修復するためであったとみられる。また、彼は征服王の長男である甥のロベール・クルトゥーズに対し、公国の統治をしっかりと引き締めるよう促したようである。彼は1088年と1094年にロベール公に同行してメーヌへ赴き、1089年にはウーにおいてウィリアム2世と戦った。彼は1095年、第1回十字軍派遣を決定したクレルモン公会議に出席した[6]。翌年9月、彼は甥のロベール公に同行して聖地へと出発した[1]。イタリアではローマを訪れ、教皇ウルバヌス2世と面会した。1097年1月、聖地への途上、シチリアのノルマン人領主であるシチリア伯英語版ルッジェーロのもとを訪問していた際、パレルモで急病により亡くなった[5][1]。彼はパレルモ大聖堂イタリア語版に埋葬された[6]。彼は最後の遺産を、1112年から1118年までラテン・エルサレム総主教フランス語版を務めることになるショックのアルヌールフランス語版に遺贈した[6]

賛否分かれる評価

修道士で年代記作者のオルデリック・ヴィタルフランス語版は、オドを並外れた個性、飽くなき野心、そして抑えきれない色欲への執着を持つ、ノルマン人の冷酷さの典型のような人物として描写している[6]。彼はオドを「民衆の最大の抑圧者であり、修道院の破壊者」と表現して、その肖像を非難した[6]。タイアマンによれば、オドは当時からすでに、残虐、冷酷、そして不道徳な人物という悪名を獲得していた[5]。教会権力もまた彼を好まなかった。なぜなら、彼は改革派の教皇たちが嫌悪したすべてを体現していたからである。すなわち、教会によって任命されていない世俗の人間であり、世俗の職務を遂行し、自身の司教区が生み出す資源を私物化し、権力と富に飢えている人物であった[5]。同時代のジョフロワ・ド・モーブレーフランス語版イヴ3世・ド・ベレームフランス語版と同様に、大世俗領主としての特徴の前に、宗教的な性質は急速にかき消されてしまっていた。

しかし、彼は自身の司教区のために見事に働き、それを再組織化し、大聖堂の聖職参事会フランス語版を拡大した[注釈 8]。彼は1077年に献堂されたバイユー大聖堂の再建と、バイユー司教宮殿フランス語版の建設に資金を提供した。彼は司教区のために多くの土地を購入してその世俗資産を増やし、12世紀の初めには、司教区に帰属する封臣の数は他のどのノルマン司教区よりも3倍多くなっていた。当時のノルマンの聖職者で、これほど多くの騎士を自由に扱えた者はいなかった[6]。1082年頃、彼は自身や将来のバイユー司教たちの埋葬地とするために、バイユーの近くにサン=ヴィゴール=ル=グラン修道院フランス語版を創建した[3]

オドはまた、大聖堂学校で部分的に教育を受けた多くの聖職者を庇護した。彼らの何人かはのちに非常に重要な地位に就いた。その中には[5]ヨーク大司教となった者たち、すなわちトマ1世英語版トマ2世英語版サースタンフランス語版達が含まれる。他には、ウースター司教サムソン英語版ダラム司教英語版であり、ウィリアム2世の顧問も務め、ドゥームズデイ・ブックの監督・編纂者であったとも考えられているセント=カライスのウィリアム英語版サヴィニー修道会英語版の創設者であるサヴィニーのヴィタル英語版[注釈 9]、およびフェカン修道院フランス語版の修道院長であったロのギヨームフランス語版がいる[29]。ウィリアム2世の主要な顧問でありダラム司教となったラヌルフ・フラムバード英語版もその一人であった[3]。また、リジュー司教フランス語版ジルベール・マミノフランス語版バイユー司教フランス語版リシャール1世フランス語版エヴルー司教フランス語版バイユーのオーダンフランス語版アングレーム司教フランス語版およびボルドー大司教フランス語版となったジェラール2世・ダングレームフランス語版エルサレム総大主教フランス語版となったアルヌール・ド・ショック英語版(1099年、1112年 - 1118年)も同様である[30]。オドはまた、当時の詩人たち、例えばレンヌ司教フランス語版となったマルボード・ド・レンヌ英語版[30]ル・マン司教フランス語版のちにトゥール大司教フランス語版となったラヴァルダンのイルデベール[30]、さらには文法学者ロスケリヌスのような物議を醸した神学者をも庇護した[3]。デヴィッド・ベイツが支持するR・H・C・デイヴィスの仮説によれば、オドは年代記作者ポワティエのウィリアム英語版の後援者でもあったと考えられる[30]

オルデリックは、この対照的な肖像を「この男において、悪徳は美徳と混ざり合っていた」という言葉でまとめている[31]

子孫

彼には、ヘンリー1世(碩学王)の司祭となった私生児ジャン・ド・バイユー(1131年没)がいた[3]。オルデリック・ヴィタルによれば、ジャンはヘンリー1世の宮廷に住み、その雄弁さと誠実さで高く評価されていた[32]

出典

関連項目

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