エドワード懺悔王
第9代ウェセックス朝イングランド国王 / ウェセックス王家出身の最後の国王となった。
From Wikipedia, the free encyclopedia
エドワード懺悔王[注釈 1](古英語:Ēadƿeard Andettere、ラテン語:Eduardus Confessor、1003年/1005年 – 1066年1月5日)とは、11世紀のイングランド王(在位:1042年 - 1066年)である。彼はウェセックス朝最後のイングランド王となった。
| エドワード懺悔王 英 : Edward the Confessor | |
|---|---|
|
バイユーのタペストリーに描かれたエドワード懺悔王 | |
| 戴冠 |
1043年4月3日 ウィンチェスター大聖堂にて即位。 |
| 先代 | ハーデクヌーズ |
| 次代 | ハロルド・ゴドウィンソン |
| 出生 |
1003年〜1005年頃 イングランド アイスリップ |
| 死亡 |
1066年1月5日 享年60-63歳 イングランド ロンドン |
| 埋葬 | ウェストミンスター寺院 |
| 王室 | ウェセックス家 |
| 父親 | エゼルレッド無策王 |
| 母親 | エマ・オブ・ノーマンディー |
| 配偶者 | エディス・オブ・ウェセックス |
エドワードはエゼルレッド無思慮王とエマ王妃の息子であった。彼はクヌート大王の息子であり、自らの異母弟でもあるハーデクヌーズの跡を継いで王位に就いた。彼は、1016年にクヌートがイングランドを征服して以来のデーン人統治時代の後、ウェセックス家の支配を復興させた。1066年にエドワードが没すると、義弟のハロルド・ゴドウィンソンが跡を継いだが、ハロルドは同年、ヘースティングズの戦いにおいてノルマンディー公ウィリアム率いるノルマン人に敗れ、戦死した。戦後、ウェセックス家の若き大甥エドガー・アシリングが国王として宣言されたが、戴冠することなく、約8週間後に平和的に廃位された。
歴史家たちの間では、24年にわたるエドワードの比較的長い治世について見解が分かれている。彼のあだ名は、世俗離れした敬虔な人物という伝統的なイメージを反映している。「懺悔王(証聖者)」という称号は、叔父のエドワード殉教王とは異なり、殉教することなく聖人としての名声を得たことを示している。ある者たちは、エドワードの死後に後継者がいなかったことで始まった内紛を理由に、彼の治世がイングランドにおける王権の崩壊とゴドウィン家の台頭を招いたと描いている。一方で、伝記作家のフランク・バーロウやピーター・レックスは、エドワードを精力的で機知に富み、時には冷酷さも併せ持った成功した王として描いており、彼の死の直後に起こったノルマン・コンクエストが彼のイメージを損なったと論じている[1][2]。しかし、リチャード・モーティマーは、1052年の亡命先からのゴドウィン一族の帰還が「実質的な彼の権力行使の終焉」を意味したと主張し、それ以降のエドワードの政務活動の減少を「国政からの撤退」を示唆するものとして挙げている[3]。
死後約1世紀経った1161年、教皇アレクサンデル3世は彼を列聖した。エドワードは、1350年頃にエドワード3世が聖ゲオルギウスを国の守護聖人として採用するまで、イングランドの国民的聖人の一人であった。エドワードの聖名祝日は10月13日で、イングランド国教会とカトリック教会の両方で祝われている。
若年期と亡命
エドワードはエゼルレッド無思慮王の第7子であり、彼の2番目の妻であるエマとの間の最初の子であった。エドワードは1003年から1005年の間にアイスリップで生まれ[1]、1005年の2通の勅許状の証人として初めて記録に現れる。彼には一人の実弟アルフレッド・アシリングと、一人の姉妹ゴドギフがいた。勅許状において彼は常に異母兄たちの後ろに列せられており、これは彼らより継承順位が低かったことを示している[4]。
彼の幼少期のイングランドは、デンマークの統治者であるスヴェン双叉髭王とその息子クヌートによるヴァイキングの略奪と侵攻の標的であった。1013年にスヴェンがイングランド王位を奪取すると、エマはノルマンディー公国へ逃れ、エドワードとアルフレッド、そしてエゼルレッドがそれに続いた。1014年2月にスヴェンが没すると、イングランドの有力者たちはエゼルレッドに対し、以前よりも「より公正に」統治することを条件に帰還を要請した。エゼルレッドはこれに同意し、エドワードを使節と共に送り返した[5]。1016年4月にエゼルレッドが没すると、エドワードの異母兄であるエドマンド剛勇王が王位を継ぎ、スヴェンの息子クヌートとの戦いを継続した。スカンディナヴィアの伝承によれば、エドワードはエドマンドと共に戦ったとされるが、当時のエドワードはせいぜい13歳であったため、この話には異論がある[6][7]。1016年11月にエドマンドが没し、クヌートが唯一のイングランド王となった。エドワードは再び弟や姉妹と共に亡命し、1017年に母エマはクヌートと再婚した[1]。同年、クヌートはエドワードの異母兄エドウィ・アシリング(この時生存していたエドワードの唯一の兄)を処刑した[8]。
エドワードは25年ほどを亡命生活に費やしたが、おそらく主にノルマンディーに滞在していたと思われる。ただし、1030年代初頭まで彼の所在を示す証拠はない。彼は、1024年頃にヴェクサン伯ドルー・ド・ヴェクサンと結婚した姉妹のゴドギフから支援を受けていた可能性がある。1030年代初頭、エドワードはノルマンディーで4通の勅許状の証人となり、そのうち2通にはイングランド王として署名している。ノルマン人の年代記作者ジュミエージュのウィリアムによれば、ロベール華麗公は1034年頃、エドワードを王位に就けるためにイングランド侵攻を試みたが、嵐によって艦隊がジャージーまで流されたという。彼はまた、大陸の複数の修道院長、特に後にエドワードの治世においてカンタベリー大司教となるジュミエージュのロベール(ノルマンディーのジュミエージュ修道院の院長)からも王位請求への支持を得ていた[9]。エドワードはこの時期に深い個人的敬虔さを育んだと言われているが、現代の歴史家たちはこれを、後世の中世における列聖運動の産物であると考えている。フランク・バーロウの見解では、「彼のライフスタイルは、典型的な地方貴族のそれであったと思われる」[1][10]。この時期、彼がイングランド王位を継承する見込みは薄いように見え、野心的な母エマは、クヌートとの間の息子であるハーデクヌーズを支援することに熱心であった[1][11]。
1035年にクヌートが没し、ハーデクヌーズがデンマーク王として跡を継いだ。彼がイングランドも保持するつもりであったかは不明だが、デンマークでの自らの地位を守るのに手一杯で、王位を主張するためにイングランドへ赴くことができなかった。そのため、異母兄兎足のハロルドが摂政を務め、エマがハーデクヌーズに代わってウェセックスを保持することになった[12]。1036年、エドワードと弟アルフレッドは別々にイングランドへ渡った。エマは後に、ハロルドが自分を装って書いた偽の手紙に誘われて彼らが来たと主張したが、歴史家たちは、彼女がハロルドの人気の高まりに対抗するために、おそらく実際に彼らを招いたのだろうと考えている[1][13]。アルフレッドはウェセックス伯ゴドウィンに捕らえられ、ハロルド兎足王に引き渡された。彼は、アルフレッドが王位に不適格となるよう、熱く焼けた鉄棒を眼に押し当てて盲目にした。アルフレッドはその傷がもとで間もなく没した。この殺害事件は、エドワードのゴドウィンに対する深い憎しみの源であり、1051年秋にゴドウィンを追放した主要な理由の一つと考えられている[10]。エドワードはサウサンプトン近郊で小規模な戦闘に勝利し、その後ノルマンディーへ撤退したと言われている[14][注釈 2]。彼は慎重さを示したが、ノルマンディーやスカンディナヴィアでは戦士としての名声も持っていた[16]。
1037年、ハロルドが王として受け入れられ、翌年、彼はエマを追放した。彼女はブルッヘへ退却し、エドワードを召喚してハーデクヌーズへの助力を求めたが、エドワードは侵攻のための資源がなく、自らも王位に関心がないとしてこれを拒否した[1][16]。ハーデクヌーズはデンマークでの地位を固め、侵攻を計画したが、それ以前の1040年にハロルドが没したため、抵抗を受けることなく母と共にイングランドへ渡り王位に就くことができた[17]。
1041年、ハーデクヌーズはエドワードをイングランドへ招き入れた。彼が自らの命が長くないことを悟っていたため、おそらく後継者として招いたのであろう[12]。12世紀の『クアドリパルティトゥス』によれば、彼はウィンチェスターの司教エルフウィンとゴドウィン伯の仲介によって呼び戻された。エドワードはハースト・スピットの近郊と思われるハーストヘヴァーで「全イングランドの従士たち」と面会した。そこでエドワードは、クヌートの法典を継続するという誓約と引き換えに王として迎え入れられた[18]。『アングロサクソン年代記』によれば、エドワードはハーデクヌーズと共に王として宣誓したが、1042年にハーデクヌーズが発行した文書では王の兄弟と記されている[19][20]。
治世初期

1042年6月8日のハーデクヌーズの死後、イングランドの伯爵の中で最も有力であったゴドウィンが、跡を継いだエドワードを支持した[1]。『アングロサクソン年代記』は、即位時に彼が享受した人気を次のように記している。「彼(ハーデクヌーズ)が埋葬される前に、ロンドンの全人民がエドワードを王に選んだ」[21]。エドワードは、西サクソン人の王都であったウィンチェスター大聖堂において、1043年4月3日の復活祭の日曜日に戴冠した[22]。
エドワードは、母親が「自分が王になる前も、なった後も、望んでいたほど力になってくれなかった」と不満を漏らした。1043年11月、彼は3人の主要な伯であるマーシア伯レオフリク、ウェセックス伯ゴドウィン、およびノーサンブリア伯シワードを伴ってウィンチェスターへ向かい、母エマの財産を没収した。これは、彼女が王に属する財宝を保持し続けていたためと考えられる。彼女の助言者であったスティガンドは、イースト・アングリアのエルムハムの司教職を剥奪された。しかし、二人ともすぐに寵愛を取り戻した。エンマは1052年に没した[23]。
即位時のエドワードの地位は脆弱であった。効果的に当地を行うには3人の有力な伯と良好な関係を保つ必要があったが、古のウェセックス家への忠誠はデーン人の支配期間中に侵食されており、以前エゼルレッド王に仕えた家系の出身者はレオフリクだけであった。シワードはおそらくデーン人であり、ゴドウィンはイングランド人であったものの、クヌートによって引き立てられた新参者の一人で、クヌートの以前の義妹と結婚していた。しかし、治世の初期において、エドワードは伝統的な強力な王権を復活させ、フランク・バーロウの見解によれば「激しい気性のエゼルレッドと恐るべきエマの真の息子として、精力的で野心的な人物」であることを示した[1]。
1043年、ゴドウィンの長男スヴェン・ゴドウィンソンが南西ミッドランズの伯領に任命され、1045年1月23日、エドワードはゴドウィンの娘ウェセックスのエディスと結婚した。その後間もなく、彼女の兄弟ハロルド・ゴドウィンソンとデーン人である彼の母方の従兄弟ベオルン・エストリズソンも南イングランドの伯領を与えられた。ゴドウィンとその一族は、この時南イングランドのすべてを支配していたのである。しかし1047年、スヴェンはレオミンスターの尼僧院長を誘拐した罪で追放された。1049年、彼は伯領を取り戻すために帰還したが、ハロルドとベオルンがこれに反対したと言われている。これは、不在の間にスヴェンの土地が彼らに与えられていたためと考えられる。スヴェンは従兄弟のベオルンを殺害し、再び亡命した。エドワードの甥であるラルフ臆病伯がベオルンの伯領を与えられたが、翌年、スヴェンの父は彼の復職を勝ち取ることができた[24]。
エドワードの所領の富は伯たちのそれを上回っていたが、それらは南部の各伯領に散在していた。彼は個人的な権力基盤を持っておらず、それを構築しようとした形跡もない。1050年から1051年にかけて、彼は常備海軍を構成していた14隻の外国船への支払いを済ませて解散させ、そのための税金も廃止した[1][25]。しかし、教会事務や外交においては自らの政策を貫くことができた。ノルウェー王マグヌス善王はイングランド王位を熱望しており、1045年と1046年、侵攻を恐れたエドワードはサンドウィッチで艦隊の指揮を執った。ベオルンの兄であるスヴェン・エストリズセンは、マグヌスとのデンマーク支配権をめぐる戦いでの助力を期待し、「息子としてエドワードに服従」したが、1047年にエドワードは、スヴェンへの援助を送るよう求めるゴドウィンの要求を拒否した。結局、同年10月にマグヌスが崩御したおかげでイングランドはノルウェーの軍事侵攻の恐れから解放され、デンマークではスヴェンが王位に就くことができた[1]。
現代の歴史家たちは、エドワードが主にノルマン人の寵臣を雇用していたという伝統的な見解を否定しているが、彼の家臣団には少数のノルマン人を含む外国人がおり、不評を買っていた。その筆頭がノルマンディーのジュミエージュ修道院長ロベールであった。彼は1030年代からエドワードを知っており、1041年に彼と共にイングランドへ渡り、1043年にロンドン司教となった。『エドワード王の生涯(Vita Edwardi)』によれば、彼は「常に王にとって最も強力で信頼の厚い助言者」となった[26][27][注釈 3]。
1051年–52年の危機
教会の任命において、エドワードとその助言者たちは地元に繋がりのある候補者に対して偏見を示した。1051年、カンタベリーの聖職者と修道士たちがゴドウィンの親族をカンタベリー大司教に選出した際、エドワードはこれを拒否し、代わりにジュミエージュのロベールを任命した。ロベールは、ゴドウィンが大司教のいくつかの領地を不法に占有していると主張した。1051年9月、エドワードは義弟(ゴドギフの2番目の夫)であるブローニュ伯ウスタシュ2世の訪問を受けた。ウスタシュの部下たちがドーバーで騒動を起こすと、エドワードはケント伯でもあったゴドウィンに対し、町の市民を罰するよう命じたが、ゴドウィンは市民の側に立ちこれを拒否した。エドワードはこの機会を捉え、増長した伯を屈服させようとした。ロベール大司教は、ゴドウィンが1036年に兄弟のアルフレッドを殺したように、王の殺害を企てていると告発した。レオフリク伯とシワード伯は王を支持し、自らの家臣を召集した。スヴェン伯とハロルド伯も自らの家臣を召集したが、双方は戦闘を望まず、ゴドウィンとスヴェンはそれぞれ息子一人を人質として出し、彼らはノルマンディーへ送られた。部下たちが王と戦うことを望まなかったため、ゴドウィン一族の地位は崩壊した。仲介役を務めていたスティガンドが、「アルフレッドとその仲間を生き生きとした姿で元通りに返せるなら、ゴドウィンに慈悲を与えてもよい」という王の皮肉を伝えると、ゴドウィンとその息子たちは逃亡し、フランドルとアイルランドへ渡った[1]。エドワードは妻エディスを拒絶し、子供がいなかったことも理由か尼僧院へ送った[29]。ロベール大司教は離婚を強く勧めた[1]。
スヴェンはその後エルサレムへの巡礼に赴いたが(帰路に没した)、ゴドウィンと他の息子たちは1年後に軍勢を伴って帰還し、多大な支持を得た。一方で、レオフリクとシワードは王を支持しなかった。双方は、内戦が外国の侵攻を招くことを懸念していた。王は激怒したが、屈服せざるを得ず、ゴドウィンとハロルドを伯領に復帰させた。一方で、ジュミエージュのロベールや他のフランス人たちは、ゴドウィンの復讐を恐れて逃亡した。エディスは王妃として復帰し、危機の際に両側の仲介役を再び務めたスティガンドが、ロベールの後任としてカンタベリー大司教に任命された。スティガンドはこれまで通りウィンチェスター司教の地位も保持し続け、この兼任(位階兼帯)は教皇との継続的な紛争の種となった[1][30]。

(SIGILLVM EADWARDI ANGLORVM BASILEI)
治世後期
1050年代半ばまで、エドワードは伯領を再編し、ゴドウィン家が支配的になるのを阻止することができていた。1053年にゴドウィンが没し、ハロルドがウェセックス伯領を継承したが、この時点では彼の兄弟の誰も伯ではなかった。この時期のゴドウィン家は、エドワード即位以来最も弱体化していたが、1055年から1057年にかけて相次いだ死が伯領の支配権を完全に変えてしまった。1055年にノーサンブリア伯シワードが没したが、その息子はノーサンブリアを指揮するには若すぎると見なされ、ハロルドの兄弟であるトスティ・ゴドウィンソンが任命された。1057年にはレオフリクとラルフが没し、レオフリクの息子エルフガ―がマーシア伯を継承した。一方で、ハロルドの兄弟であるギルス・ゴドウィンソンはエルフガーの後を継いでイースト・アングリア伯となった。4番目の兄弟であるレオフウィン・ゴドウィンソンには、ハロルドの領地から分割された南東部の伯領が与えられ、ハロルドはその補填としてラルフ臆病伯の領地を受け取った。こうして1057年までに、ゴドウィン兄弟はマーシアを除く全イングランドを支配することとなった。エドワードがこの変容を承認したのか、あるいは受け入れざるを得なかったのかは不明だが、この時期から彼は積極的な政治から身を引き始め、教会へ通った後の毎日の日課として狩猟に没頭するようになった[1][31]。
1050年代、エドワードはスコットランドおよびウェールズに対して攻撃的で概ね成功した政策を追求した。スコットランド王マルカム・カンモアは、1040年に父ダンカン1世が合戦で殺害され、スコットランド王位を奪ったマクベスの勢力に敗れた後、エドワードの宮廷に亡命していた。1054年、エドワードはシワードを派遣してスコットランドへ侵攻させた。シワードはマクベスを破り、遠征に同行していたマルカムが南スコットランドの支配権を得た。1058年までにマルカムは合戦でマクベスを殺害し、スコットランド王位に就いた。1059年に彼はエドワードを訪問したが、1061年には自領の拡大を目的としてノーサンブリアへの略奪を開始した[1][32]。
1053年、エドワードはイングランドへの略奪に対する報復として、南ウェールズの王子リース・アプ・リゼルホの暗殺を命じ、リースの首が彼のもとに届けられた[1]。1055年、グリフィズ・アプ・ルウェリンがウェールズの統治者としての地位を確立し、反逆罪で法外放置(追放)されていたマーシアのエルフガーと結託した。彼らはヘレフォードでラルフ伯を破り、ハロルドは侵略者をウェールズへ追い返すためにイングランド全土から軍勢を集めなければならなかった。1057年に父の死を受けてマーシア伯を継承したエルフガーの復職をもって和平が結ばれた。グリフィズは、エドワードの忠実な「下位の王(従属王)」となることを宣誓した。エルフガーはおそらく1062年に没し、その幼い息子エドウィンがマーシア伯の継承を許されたが、ハロルドはその直後にグリフィズへの奇襲を開始した。グリフィズは逃亡したが、翌年ハロルドとトスティが再び攻撃を仕掛けると撤退を余儀なくされ、ウェールズ内の敵対勢力によって殺害された。その後、エドワードとハロルドは一部のウェールズ人王子を臣下として従わせることができた[33][34]。

1065年10月、ハロルドの兄弟でノーサンブリア伯であったトスティが王と狩猟をしていた際、ノーサンブリアの従士たちがトスティの統治を圧政であるとして大規模な反乱を起こし、彼の従者約200人を殺害した。彼らはマーシア伯のエドウィンの兄弟であるモーカーを新たなノーサンブリア伯に指名し、マーシア兄弟と共に南進を呼びかけた。彼らはノーサンプトンでハロルドと面会し、トスティは王の前でハロルドが反乱者と共謀していると告発した。トスティは王と王妃のお気に入りであったらしく、彼らは反乱の鎮圧を要求したが、ハロルドも他の誰もトスティのために戦おうとはしなかった。エドワードはトスティの追放を受け入れざるを得ず、その屈辱が死を招く一連の脳卒中を引き起こした可能性がある[1][35]。彼はあまりに衰弱していたため、1065年12月28日に、ほぼ完成していたウェストミンスターの新しい教会の成聖式に出席することができなかった[36][37]。
エドワードはおそらく、1066年1月5日にウェストミンスターで没する直前、王国をハロルドとエディスに託したと思われる。1月6日、彼はウェストミンスター修道院に埋葬され、同じ日にハロルドが戴冠した[1]。
継承問題
12世紀初頭のマームズベリのウィリアムに始まって以来、歴史家たちはエドワードの継承に関する意図について頭を悩ませてきた。一つの学派はノルマン側の主張を支持し、エドワードが結婚前から独身(禁欲)を貫くことを決めていたという中世の説を受け入れ、当初からノルマンディーのウィリアム庶子公を後継者に定めていたと考えている。しかし、ほとんどの歴史家は、少なくとも1051年にゴドウィンと仲違いするまでは、エディスとの間に跡継ぎが生まれることを期待していたと考えている。庶子公の曾祖父リシャール1世は、エドワード懺悔王の祖父(エマの父)にあたり、二人はいとこ(正確には一代違いの従兄弟)であった。ウィリアムはゴドウィンの追放中にエドワードのもとを訪問した可能性があり、その際にエドワードが継承を約束したと考えられているが、その約束をどの程度真剣に意図していたのか、また後に心変わりしたのかについては歴史家の間で意見が分かれている[注釈 4]。
エドマンド剛勇王の息子であるエドワード・アシリングは、エドワードの後継者と見なされるにふさわしい最も正当な権利を持っていた。彼は幼少期にハンガリーへ連れ去られていたが、1054年にウスター司教エルドレッドが、エドワードの後継者として彼を呼び戻すために神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世を訪問した。エドワード・アシリングは1057年に家族と共にイングランドへ帰還したが、その直後に急死した[38]。当時約6歳であった彼の息子エドガー・アシリングは、イングランド宮廷で育てられた。彼には「王位にふさわしい者」を意味する「アシリング」の称号が与えられており、これはエドワードが彼を後継者にすることを検討していた可能性を示唆している。実際に1066年のハロルド・ゴドウィンソンの死後、彼は短期間ながら国王として宣言された[39]。しかし、エドガーはエドワードの外交文書(勅許状)の証人リストに名を連ねておらず、ドゥームズデイ・ブックにも彼が相当な土地所有者であったという証拠がないことから、エドワードの治世の末期には疎外されていたことが示唆されている[40]。
1050年代半ば以降、エドワードがますますゴドウィン一族に依存するようになるにつれ、彼は国政から身を引き、彼らの一人が跡を継ぐという考えに妥協していったのかもしれない。ノルマン側の主張によれば、エドワードは1064年頃、ウィリアムへの継承の約束を確認させるためにハロルドをノルマンディーへ送ったという。最も有力な証拠は、ノルマン側の擁護者であったポワティエのウィリアムの記録に現れる。彼の記述によれば、ヘースティングズの戦いの直前、ハロルドはウィリアムに使者を送り、「エドワードがウィリアムに王位を約束したことは認めるが、死の間際になされたハロルドへの約束がそれを上書きした」と主張させたという。これに対しウィリアムは、死に際の約束を否定こそしなかったものの、エドワードによる以前の自分への約束が優先されると反論した[41]。歴史家ステファン・バクスターの見解によれば、エドワードの「継承問題への対応は極めて優柔不断であり、イングランドがかつて経験したことのない最大級の惨劇を招く一因となった」[42]。
ウェストミンスター修道院

エドワードのノルマンディーへの親近感は、彼の治世の最大の建設計画であったウエストミンスター修道院建設計画に最も明確に現れている。これはイングランド初のノルマン・ロマネスクの教会であった。1042年から1052年の間に王家の埋葬教会として建設が開始され、1065年12月28日に成聖された。建設は彼の死後の1090年頃に完了したが、1245年にヘンリー3世による新しい建物(現在残っているもの)を建てるために取り壊された。それは同時期に建設されたジュミエージュ修道院と酷似していた。ジュミエージュのロベールが両方の建設に深く関わっていたに違いないが、どちらが原型でどちらが模倣であったかは定かではない[37]。エドワードは書物や関連する芸術には関心がなかったようだが、彼の修道院はイングランドにおけるロマネスク建築の発展において不可欠な役割を果たし、彼が革新的で寛大な教会のパトロンであったことを示している[43]。

崇敬
| エドワード懺悔王 | |
|---|---|
|
| |
| 証聖者 | |
| 崇敬する教派 |
カトリック教会 イングランド国教会 |
| 列聖日 | 1161年2月7日 |
| 列聖決定者 | ローマ教皇アレクサンデル3世 |
| 主要聖地 | ウエストミンスター修道院(ロンドン) |
| 記念日 | 10月13日、1月5日 |
| 守護対象 | イングランド、イギリスの君主、困難な結婚生活 |
エドワード懺悔王は教皇によって列聖された唯一のイングランド王であったが、彼は(公式に列聖されていない)アングロ・サクソン王族の聖人たちの伝統の一部でもあった。例えば、エドワード長兄王の娘であるウィンチェスターのエドブルフ、平和王エドガーの娘であるウィルトンのエディス、そして少年王エドワード殉教王などが挙げられる[44]。激昂しやすい性格や狩猟への愛を考えると、ほとんどの歴史家はエドワード懺悔王を聖人らしくない人物と見なしており、彼の列聖は政治的なものであったと考えている。しかし、彼の崇拝(聖人崇拝)が非常に早くから始まったため、何か信頼に足る根拠に基づいていたに違いないと論じる者もいる[45]。
エドワードは教会の任命において世俗的な態度を示した。1051年にジュミエージュのロベールをカンタベリー大司教に任命した際、彼はロベールの後任として著名な職人であったスペアハフォックをロンドン司教に選んだ。ロベールは教皇が禁じているとして彼の成聖を拒否したが、スペアハフォックはエドワードの支持を得て数ヶ月間、司教職を占拠した。ゴドウィン一族が国外へ逃亡した後、エドワードはスペアハフォックを追放したが、彼はエドワードの王冠を作るために与えられていた大量の金と宝石を持って逃走した[46]。スティガンドは、約100年ぶりに修道士ではない身でカンタベリー大司教となった人物であり、カンタベリーとウィンチェスターの司教職を兼任していたため、複数の教皇から破門されたと言われている。スティガンドの地位が不正規であったため、何人かの司教は国外で成聖を受けた[47]。エドワードは通常、最も重要で豊かな司教区には修道士よりも書記を好んで配し、司教や修道院長の候補者からの贈り物もおそらく受け取っていた。しかし、彼の任命は概ねまともなものであった[1]。1056年にディアハーストのオッダが後継者なく没した際、エドワードはオッダがパーショア修道院に寄進していた土地を没収し、自らのウェストミンスター財団に与えた。歴史家のアン・ウィリアムズは、「懺悔王は11世紀当時、後に享受することになる聖人としての名声を持っていたわけではなく、それは主にウェストミンスターの修道士たちの努力によって築かれたものである」と指摘している[48]。
1066年以降、当初はウェストミンスターの初期のノルマン人修道院長たちに抑えられていた可能性もあるが、エドワードを聖人とするささやかな崇拝が存在し、12世紀初頭には徐々に高まっていった[49]。ウェストミンスター修道院の副院長であったクリアのオズバートは、修道院の富と権力を増大させることを目的に、エドワードの列聖運動を開始した。1138年までに、彼はエドワードの未亡人の依頼で書かれた『エドワード王の生涯』を、型通りの聖人伝へと作り変えた[50]。彼は、エディスに子がなかったのは彼女のせいではないと思わせるためか、二人の結婚生活が純潔(清廉)であったことを示唆する曖昧な一節を利用し、エドワードが独身(禁欲)を貫いていたと主張した[51]。1139年、オズバートはスティーブン王の支持を得てエドワードの列聖を請願するためにローマへ赴いたが、イングランドの聖職者階層の完全な支持を欠いており、スティーブンも教会と対立していたため、教皇インノケンティウス2世は、エドワードの聖性を示す十分な証言が欠けているとして決定を延期した[52]。
1159年に教皇選挙で争いが起こると、ヘンリー2世の支持が教皇アレクサンデル3世の承認を確実にする助けとなった。1160年、ウェストミンスターの新しい修道院長ローレンスは、この機会を捉えてエドワードの列聖請求を再開した。今回は王とイングランドの聖職者階層の全面的な支持を得ており、感謝した教皇は1161年2月7日に列聖の教皇勅書を発行した[1]。これはウェストミンスター修道院、ヘンリー2世、そして教皇アレクサンデル3世の利害が一致した結果であった[53]。彼は聖人として生きたが殉教はしなかった人物を指す「証聖者(コンフェッサー)」と呼ばれた[54]。1230年代、ヘンリー3世は聖エドワード崇拝に心酔するようになり、マシュー・パリスに新しい聖人伝の執筆を依頼した[55]。ヘンリーはまた、1269年に再建されたウェストミンスター修道院の中に、エドワードのための壮大な新しい墓を建設した[36]。さらにヘンリー3世は、長男(後のエドワード1世)にエドワードの名を冠した[56]。
1350年頃まで、エドマンド殉教王、偉大なる教皇グレゴリウス、そしてエドワード懺悔王がイングランドの国民的聖人と見なされていたが、エドワード3世はより戦士らしい姿の聖ゲオルギウスを好み、1348年に聖ゲオルギウスを守護聖人とするガーター勲章を創設した。ウィンザー城の聖エドワード懺悔王礼拝堂は聖ゲオルギウスに再献堂され、1351年に彼はイングランド民族の守護聖人として喝采を浴びた[57]。エドワードは多くの人々にとって以前ほどポピュラーな聖人ではなくなったが、最後の正当なアングロ・サクソン王としてのエドワードの後継者を自称していたノルマン王朝にとっては重要な存在であり続けた[58]。
ウェストミンスター修道院にある聖エドワード懺悔王の聖堂(遺骨安置所)は、1269年10月13日にヘンリー3世によって内陣の東側の礼拝堂へと最終的な改葬が行われて以来、現在も同じ場所に留まっている[59]。彼の移葬の日である10月13日(最初の改葬も1163年の同日であった)は、イングランドのカトリック教区においてのみ任意記念日となっている[60]。聖エドワードは、ローマ殉教録に記載されている命日の1月5日にも記念されることがある。イングランド国教会の聖人歴では、10月13日を「小祭日」(en:Lesser Festival (Anglicanism))に指定している[61][62]。毎年10月、修道院では彼を記念して1週間にわたる祭典と祈りが捧げられる[63]。また、エドワードは「困難な結婚生活」の守護聖人と見なされている[64]。
- ウェストミンスター修道院長ジョン・ホール (司祭)による、エドワード懺悔王の聖堂の音声解説
- ほとんどの教会の祭日に修道院の頂上に掲げられる、ウェストミンスター修道院の聖ペトロの旗。金の指輪は、修道院の創設者としてのエドワードを認める、聖エドワードの指輪を表している。
外見と性格
『エドワード王の生涯』はエドワードについて次のように記している。「彼はまさに立派な体格の男であった。並外れた背の高さ、乳白色の髪と髭、ふっくらとした顔とバラ色の頬、細く白い手と長く透き通った指が際立っており、体の他の部分は非の打ち所のない王者の風格を備えていた。快活だが常に威厳があり、伏し目がちに歩き、あらゆる人々に対してこの上なく優雅で親しみやすかった。もし何らかの理由で怒りが引き起こされたなら、彼はライオンのように恐ろしく見えたが、罵り散らして怒りを露わにすることは決してなかった」[65]。歴史家のリチャード・モーティマーが指摘するように、これには「背が高く際立っており、親しみやすく威厳があり公正であるという、理想的な王の要素が賛辞として明らかに盛り込まれている」[66]。
エドワードは、伝えられるところによれば賄賂を受け取ることにも抵抗がなかったという。ラムジーの『恩人録(Liber Benefactorum)』によれば、ラムジー修道院の院長は、「ある有力な男」による訴えを公に争うのは危険であると判断したが、エドワードに金で20マルク、彼の妻に5マルクを贈ることで、有利な判決を得ることができたと主張している[67]。