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ロベール1世 (ノルマンディー公)

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出生 1010年頃
死亡 1035年7月2日
ニカイア(現トルコ・アナトリア)
ロベール1世 華麗公
ノルマンディー公
14世紀の細密画に描かれたノルマンディー公ロベール1世。

先代 リシャール3世
次代 ウィリアム1世

出生 1010年頃
死亡 1035年7月2日
ニカイア(現トルコ・アナトリア)
王室 ノルマン朝
父親 リシャール2世
母親 ジュディット・ド・ブルターニュ
配偶者 アルレット・ド・ファレーズ(内縁)
子女
ウィリアム1世
アデライード
信仰 カトリック
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ロベール1世(Robert I、1010年頃 - 1035年7月2日)とは、11世紀のノルマンディー公(在位:1072年8月 - 1035年7月2日)である。『寛大公(le Libéral)』あるいはより一般的には『華麗公(le Magnifique)』という渾名で知られる[1][注 1]。彼は、ウィリアム征服王とも呼ばれるノルマンディー公ギヨーム2世の父である。

不透明な権力掌握

ファレーズにあるウィリアム征服王の像(英語版)の台座に設置された、ロベール華麗公の像。

歴史家リュシアン・ミュッセ(フランス語版)は、ロベール華麗公を「暴力的で気難しい性格」であると描写している[2]。そのため、彼は時として伝説上の人物である「悪魔ロベール」のモデルになったと考えられている。自身の「フリッラ(英語版)」(「デンマーク流」の妻)となったアルレット・ド・ファレーズ(あるいはエルレーヴ)との出会いや、コンスタンティノープルへの寄港は、多かれ少なかれ伝説的な物語の題材となってきた。彼の悪評は、一つにはノルマンディー公国の公位継承の際の状況に起因している。

ロベールは、ノルマンディー公リシャール2世の次男であった。1026年に父が没すると、長男のリシャール3世が順当に公位を継承したが、一方でロベールにはイエモワ伯領(フランス語版)が与えられ、エム(フランス語版)がその首府とされた[3]。ロベールはエムの木造要塞よりも、ファレーズ城(フランス語版)に居住することを好んだ[4]。同年もしくは翌年、弟であるロベールは兄公に対して反旗を翻した。反乱者が立てこもるファレーズの前に、公の軍勢が姿を現した[3]。ロベールは降伏して兄に服従した。彼はリシャールに対して臣従礼を捧げ、イエモワ伯領の保持を認められた[3]。

しかし1027年、リシャール3世は毒殺された[3]。直ちにロベールは、亡き兄の庶子であったニコラ(フランス語版)を継承順位から排除し、自ら公位に就いた[5]。ジュミエージュのギヨーム(英語版)はその毒殺者の名を明らかにしていないが、ウァースなどの後世の文筆家たちは、躊躇なくロベールをこの犯罪の主犯として告発している。実際、彼はリシャール3世の死によって最も利益を得た人物であった。

反乱の鎮圧

1027年、ロベールはおよそ17歳で公位を継承した。彼は、ノルマンディーを鉄の拳をもって統治する意志があることを速やかに示した。

1027年から1028年頃、ノルマンディー南端の領主であるギヨーム1世・ド・ベレーム(フランス語版)が反旗を翻した。公はアランソンにおいて彼を包囲した。反乱者は降伏を余儀なくされ、その際、ロベール華麗公は彼に対し、自らの肩に馬の鞍を担いで公の前に出頭するという屈辱的な条件を課した[6]。

治世の初期、ロベール華麗公は、バイユー司教ユーグ(フランス語版)がイヴリーの城の防備を強化するためにフランスで兵を募っているとの報に接した。公の評議会から遠ざけられたことに憤慨していた司教は、このノルマンディーの要塞を公に対する抵抗の拠点にしようと目論んでいたのである。ロベールは迅速に反応した。ユーグがフランスから帰還するよりも早く、イヴリーの前に姿を現したのである。司教は、既に城に避難していた自らの忠臣たちの安全な通行権と引き換えに、自らの亡命を交渉せざるを得なかった。彼のノルマンディーへの帰還が許されたのは遅くとも1032年のことであったが、その後も宮廷からは概ね遠ざけられたままであった。公とバイユー司教の間の対立は、おそらくロベール華麗公と叔父ロベール司教の間の抗争と関連していた。

教会との対立

ルーアン大司教とエヴルー伯を兼任した叔父ロベール・ル・ダノワ

ノルマンディー公リシャール1世の息子であるロベール・ル・ダノワは、エヴルー伯領(英語版)を保持するとともにルーアン大司教(英語版)でもあり、公国内で最も強力な人物の一人であった。ジュミエージュのギヨーム(英語版)の説明によれば、ロベール華麗公は突如として彼に対し敵意を露わにしたが、その原因は定かではない。おそらく大司教は、教会に対する公の政策を快く思っていなかったのであろう。実際、歴史家たちは、ロベール華麗公が治世の初期において、修道院や大規模な教会の所領を没収し、それをロジャー1世・ド・モントゴメリー(英語版)のような若き貴族たちに分配していたことを指摘している。これは、最小限の費用で彼らの忠誠を繋ぎ止め、報いるための手段であった。しかし、これにより公は、教会に対して寛大であったリシャール2世ら先代たちの態度とは決別することとなった。

ロベール・ル・ダノワは、これらの領地剥奪に対して抗議を行ったのであろうか。いずれにせよ、公は彼に対して激昂し、1027年から1028年にかけてエヴルーを包囲した。都市を防御態勢に置いた後、大司教は交渉の道を選んだ。彼は亡命を選択し、フランス王ロベール2世のもとへと赴いた。しかし、彼は敗北を認めたわけではなかった。甥を屈服させるため、彼はノルマンディーに対して破門を宣告したのである。教会による制裁は効果を発揮した。ロベール華麗公はロベール・ル・ダノワを呼び戻し、彼を伯位および大司教位へと復帰させた[7]。

態度の一変

セリジー・ラ・フォレ修道院(フランス語版)。

大司教と公の間のこの対立は、ロベール華麗公の宗教政策における転換点となったようである。ロベール・ル・ダノワは宮廷における高い地位を回復し、教会との良好な関係が不可欠であることを甥に説いたようである。この一変を裏付ける事実はいくつか存在する。リュシアン・ミュッセ(フランス語版)によれば、両者の和解は早くも1028年には成立していたという[8]。

まず第一に、両者はルーアン大聖堂の所領が悲惨な状態にあることを確認した。これにより、多くの土地が返還されることとなった[8]。ロベール華麗公は、いくつかの修道院に対して、その所領を確認し、あるいは返還するための勅許状に署名した。フェカン(英語版)、サン=ヴァンドリユ(英語版)、そしてルーアン大聖堂が、これらの受益者として名を連ねている。公は、自らの封臣たちの数名に対しても、この動きに従うよう促した。

モンティヴィリエ修道院(英語版)。

父リシャール2世の事績に倣い、ロベールは二つの修道院を創設した[9]。第一に、セリジー修道院である。1032年11月12日のこの創設は、モン・サン=ミシェル(英語版)を除いて修道院のなかったノルマンディー西部における先駆的な試みであった[10]。次いで、1035年1月13日、ロベール華麗公は、叔母ベアトリス・ド・ノルマンディーの勧めにより、修道士を修道女に入れ替える形でモンティヴィリエ修道院(フランス語版)を再興した。これは、ノルマンディーにおける最初の女性用宗教施設となった。684年に創設された同修道院は、スカンディナヴィア人の度重なる襲撃(フランス語版)によって消滅していたのである[10]。この事業においても、彼は再び公国の領主たちを伴っていた。例えば、アルク副伯(フランス語版)ゴスラン・ダルク(フランス語版)とその妻エムリーヌは、1030年にサント=カトリーヌ・デュ・モン修道院(フランス語版)を創設し[11]、後に1042年にはルーアンのサン=タマン修道院(フランス語版)を再興している。彼らの寄進はロベールによって承認され、公は修道院を自身の司法管轄から免除した[11]。オンフロワ・ド・ヴィエイユ(英語版)はプレオー(英語版)に修道士を配置し、一方で一介の騎士であったエルルアン(英語版)は、リスル川(英語版)のほとりに、後に偉大なる未来を約束されたル・ベック修道院(フランス語版)という名の修道院の基礎を築いた。

最後に、その直後、公はエルサレムへの巡礼に出発する準備を整えていた。多くの歴史家は、この旅の背後に、兄リシャール3世を毒殺したことに対するロベールの悔恨の証拠を見て取った。しかし、これも推測の域を出ない。ノルマンディーが主が不在となるため、公の出発は公国運営においてリスクを伴うものであった。さらに、この遠い旅路から常に生きて帰れるとは限らなかった。出発を前に、この困難を自覚していた公は、フェカンに公国の大貴族たちを集めた[注 2]。

1035年1月13日にフェカンで開催され、モンティヴィリエの再興によって特徴づけられたこの集会において、彼は列席したルーアン大司教ロベール、管区内の司教たち、そして大貴族たちに対し、当時およそ7歳であった幼い息子、ギヨームを後継者として認めるよう求めた[12]。全員が忠誠の誓いを立てた[13]。諸侯たちはその場では公の決定を受け入れたようだが、おそらくは渋々であった。彼らは、ギヨームが非嫡出子であること非難していたのである。しかし、ロベールには選択の余地がなかった。彼にとって唯一の男子だったのである。ウァースによれば、ギヨームはフランス王アンリ1世の保護下に置かれた。また、彼はアルレット・ド・ファレーズ(エルレーヴ)と、リスル川流域の領主であるエルルアン・ド・コンテヴィル(英語版)との結婚を整えた[14]。

公は1035年の初めに巡礼へと出発した[13]。これには、侍従トルテイン・ゴッツ(フランス語版)(995年 - 1041年)[15]、オドン・スティガン(フランス語版)、ドルー・ド・ヴェクサンといった数名の貴族が同行し、ローマへ向かう陸路をとった。その後、ビザンツ皇帝ミカエル4世がコンスタンティノープルにおいて彼を歓迎した。ノルマンディー公はエルサレムに到達したが、帰路の途上、1035年7月2日、25歳で客死した[16]。場所はニカイアであった[13]。

ロベール華麗公とその隣諸国

先代たちと同様に、ノルマンディー公は近隣諸侯にとって、貴重な同盟者であると同時に恐るべき敵であることを示した。

フランス王およびフランドル伯への援護

フランス王アンリ1世。

1031年、フランス王ロベール敬虔王が没すると、長男で後継者のアンリ1世は、母コンスタンス・ダルルに支持された弟ロベールの反乱に直面した。ブロワ伯ウード2世も新王への反対勢力に加わった。こうした連合勢力を前に、アンリ1世は王領地を離れ、ノルマンディー公を頼ってフェカンへと亡命せざるを得なかった[17]。公は王の領土奪還を全面的に支援した。具体的には、叔父であるコルベイユ伯モージェに対し、王の側について軍事介入するよう命じている[17]。反乱を起こした弟ロベールはヴィルヌーヴ=サン=ジョルジュの戦いで敗北して和平を乞い、これによりアンリ1世はフランス王として君臨することができた。この支援の対価として、ノルマンディー公はエプト川(フランス語版)とオワーズ川に挟まれたヴェクサンの一部、すなわちフレンチ・ヴェクサン(フランス語版)の宗主権を譲り受けたとされる[17]。少なくともオルデリック・ヴィタリスはそのように記しているが[18]、この譲渡について言及している中世の記録家は彼一人である。デイヴィッド・ベイツ(英語版)、ジャン=フランソワ・ルマリニエ(フランス語版)、そして近年ではピエール・ボダン(フランス語版)といった歴史家は、このアングロ・ノルマン人記録家の主張に疑問を呈している[注 3]。

またノルマンディー公は、フランドル伯ボードゥアン4世に対しても決定的な支援を行った。1030年頃、ボードゥアン4世は息子ボードゥアンの反乱に直面していた。彼は、伯領を再び掌握するために必要な軍事的援助をロベールに求めた。ロベール華麗公はフランドル(フランス語版)へと侵攻し、ショックの城を占領した。これに恐れをなした大貴族たちは息子ボードゥアンを見限り、息子の方も父への権力返還に同意した[17]。

イングランド遠征

ノルマンディーの宮廷は、リシャール2世の治世以来、アングロ・サクソン人の王エゼルレッド2世の二人の息子の亡命を受け入れていた。エゼルレッド2世は1013年のデンマーク人の侵攻によりイングランド王国を追われていた。1014年に領土を奪還したものの、その2年後に死去した。1016年以降は、デーン人王朝のクヌート大王がイングランドを支配していた。リシャール2世は、対岸の隣国に対して中立的な態度を示していた。クヌートが、リシャールの妹・ロベールの叔母にあたるエマと結婚していたためである。しかし、エゼルレッド2世の未亡人であったこの女性は、ノルマンディーに亡命していたエゼルレッドの二人の子供、アルフレッドとエドワードの母親でもあった。

父とは対照的に、ロベール華麗公は亡命中の二人の従兄弟を支持することを明確にした。彼はクヌートのもとへ使節を送り、エゼルレッドの子供たちに王国を返還するよう要求した。拒絶されると、ノルマンディー公は公国内の大貴族を召集し、イングランド侵攻のための艦隊建造を命じた。食糧、武器、兵員を積み込んだ船団はフェカンに集結して出帆したが、嵐によって船団はジャージーへと流されてしまった[20]。結局、ノルマン人はイングランドに上陸することはなかった。

ブルターニュに対する宗主権の維持

ノルマンディーのアヴォワーズと二人の息子:アラン3世およびエウド・ド・パンティエーヴル(英語版)。

ノルマンディー公国の創始ロロ以来、ノルマンディー公は定期的にブルターニュ公国への介入を行っていた。1008年、ブルターニュ公ジョフロワ1世の死により、その妻でリシャール2世の姉妹であるアヴォワーズ・ド・ノルマンディーが権力を握った。これにより、ブルターニュ公国はノルマンディー公の保護下に置かれることとなった[21]。当時、ノルマンディーとブルターニュの関係は極めて緊密なものであった。しかし、アヴォワーズとジョフロワの息子であるアランは、成人するとノルマンディーによる保護から脱することを望んだ[21]。ジュミエージュのギヨーム(英語版)によれば、ブルターニュ公がロベール華麗公への忠誠を拒否したことが、両公国間の戦争の契機となった[22]。

権力基盤を固めたロベールは国境線上に要塞を建設したが、ギヨーム・ド・ジュミエージュによればそれはクエノン川(英語版)の近くに位置していた。翻訳の解釈によって、その場所はシェルエ(フランス語版)(イル=エ=ヴィレーヌ県)とも、あるいはシャトー・ド・シェルエル(フランス語版)(マンシュ県)ともされる。彼はその後、沿岸部を蹂躙する艦隊の支援を受けた陸上攻撃を開始した[21]。アランはアヴランシュに侵攻してこれに応戦したが、ノルマン人のアルフレッド・ル・ジェアンとネール2世・ド・サン=ソヴール(英語版)が戦闘でブルターニュ軍を粉砕した。

アランは屈服し、共通の親族である大司教ロベール・ル・ダノワに仲裁を求めた。彼はモン・サン=ミシェルでの会談において、自身がロベールの封臣であることを認めた[21]。

家族と子孫

両親

配偶者

正妃は存在しないが、少なくとも二人の愛妾がいた。

時としてクヌート大王(デンマーク王クヌート2世)の姉妹であるエストリズを正妃に迎えたとされることもあるが、その可能性は極めて低い[23]。

子女

注釈・出典

参考文献

外部リンク

関連項目

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