オレグ・ルジニー
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| 名前 | ||||||
| 本名 | オレグ・ロマノヴィッチ・ルジニー | |||||
| ラテン文字 | Oleh Romanovych Luzhnyi | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1968年8月5日(57歳) | |||||
| 出身地 | リヴィウ | |||||
| 身長 | 180 cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | DF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1985-1988 |
| 88 | (1) | |||
| 1988 |
| 29 | (0) | |||
| 1989-1999 |
| 253 | (13) | |||
| 1997-1998 |
| 2 | (0) | |||
| 1999-2003 |
| 75 | (0) | |||
| 2003-2004 |
| 6 | (0) | |||
| 2005 |
| 9 | (0) | |||
| 通算 | 462 | (14) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1989-1990 |
| 4 | (0) | |||
| 1991 |
| 3 | (0) | |||
| 1989-1990 |
| 8 | (0) | |||
| 1992-2003 |
| 52 | (0) | |||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
オレグ・ロマノヴィッチ・ルジニー(Oleh Romanovych Luzhny、1968年8月5日 - )はウクライナ・リヴィウ出身の元サッカー選手。サッカー指導者。元ウクライナ代表。ポジションはDF(右サイドバック)。
1999年にアーセナルFCに史上初めて加入したウクライナ人選手であり、ウクライナ国内においてレジェンド的なサッカー選手である。ソ連リーグ、ウクライナリーグ、イングランドプレミアリーグでそれぞれチャンピオンとなった。
経歴
1984年から、リヴィウのリヴィウ国立体育学校に所属した。卒業後スカウトの声はさほどかからず、ルーツィクにある2部リーグのFCヴォリン・ルーツィク(トルペド)へ入団することになる。契約できたのは才能によるものではなく、当時のルールで2部リーグのチームは主力メンバーに必ず19歳未満の選手が含まれていなければならなかった事も大きい[1]。
FCヴォリン・ルーツィク、SKAリヴィウ
FCヴォリン・ルーツィク(当時の名称はトルペド・ルーツィク)では、1985年から1988年までの3シーズン半でリーグ戦88試合に出場し、1得点を記録した。兵役の時期を迎えると、リヴィウを本拠地とするSKAカルパティ・リヴィウに招集された。イシュトヴァーン・セケチ(英語版)監督率いる同クラブは当時ソ連セカンドリーグ(3部相当)に所属していたが、ルジニーは上位リーグへの適応を見せ、29試合に出場した[1]。
FCロストセリマシュとの試合の際、ディナモ・キーウのコーチであったミハイル・コマン(英語版)が、オレグ・マトヴェエフ(英語版)の視察のためにリヴィウを訪れた。その際、コマンはSKAカルパティの選手であったルジニーのプレーにも注目し、監督のヴァレリー・ロバノフスキーに獲得を推薦した。当時、ルジニーはチョルノモレツ・オデッサへの移籍を検討していたが、最終的には母親の助言もあり、ディナモ・キーウへの移籍を決断した[1]。
ディナモ・キーウ
1989年、ディナモ・キーウに移籍。当初はリザーブチームへの加入であったが、短期間で頭角を現し、1、2週間後にはオレグ・プロタソフ、アレクセイ・ミハイリチェンコ、アナトリー・デミヤネンコといった主力メンバーと共にトレーニングを行うようになった。ルジニーは後年のインタビューで、当時の心境を「おとぎ話のようだった」と回想している[1]。
加入直後からレギュラーとして定着し、1990年ワールドカップ以降に主力選手の多くが海外クラブへ移籍すると、若くしてチームの中心的な役割を担うようになった。ソ連リーグでは82試合に出場し、1990年にリーグ優勝とカップ戦優勝の2冠を達成。1989年と1991年には、ソ連の年間ベスト33(3位)に選出された[1]。
1992年からはチームのキャプテンに就任。1999年までの在籍期間中に公式戦348試合(うち欧州カップ戦52試合)に出場し14ゴールを記録。ウクライナ・プレミアリーグでは1993年から7連覇を達成し、ウクライナ・カップでも4度の優勝を経験した。特に1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、アーセナルやレアル・マドリードを破り、クラブ史上最高タイとなる準決勝進出に大きく貢献した[1]。
アーセナル
1999年夏、31歳でイングランド・プレミアリーグのアーセナルFCへ移籍。移籍金は290万ドル、契約期間は3年(後に1年延長)で、背番号は22となった。アーセン・ベンゲル監督は、1998-99シーズンのCLでディナモ・キーウがアーセナルを破った際のルジニーのプレーを高く評価していた[1]。
アーセナル加入以前にも、プレミアリーグの複数クラブが関心を示していた。1996年にはコヴェントリー・シティFCとの交渉が合意に達し、英国ビザの発給まで進んだが、最終段階で移籍は破談となった。1999年2月にはSLベンフィカへの移籍が合意間近と報じられたほか、ミドルズブラ、ウェストハム、ニューカッスルといったクラブとも交渉を行ったが、最終的にアーセナルからのオファーを受け入れた。アーセナルでは当初、元イングランド代表リー・ディクソンの後継者として期待された。完全なレギュラー定着には至らなかったものの、右サイドバックを主軸にセンターバックや左サイドバックもこなす守備のマルチプレイヤーとして重宝され、在籍4年間で公式戦110試合(うちリーグ戦75試合)に出場した。リーグカップの試合ではキャプテンを務めることもあった[1]。
身体能力を活かしたプレースタイルはイングランドのサッカーに適合し、データ分析会社「Opta Index」により2000年のリーグ最優秀ディフェンダーに選出されたほか、月間最優秀ディフェンダーに選ばれるなど現地でも高く評価された[1]。
2001-02シーズンのプレミアリーグ優勝、2度のFAカップ優勝(2002年、2003年)、1999-2000シーズンのUEFAカップ準優勝などに貢献。アーセナルでのラストマッチとなった2003年のFAカップ決勝(サウサンプトン戦)では、勝利に貢献しマン・オブ・ザ・マッチに選出された[1]。
ウルヴァーハンプトン、ヴェンタ
2003年夏、チャールトン・アスレティックやウェストハム・ユナイテッドからのオファーもあった中、プレミアリーグに昇格したばかりのウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCと1年契約を締結した。しかし、コーチ陣との方針の相違もあり出場機会に恵まれず、公式戦10試合(リーグ戦6試合、カップ戦4試合)の出場に留まった。チームはリーグ最下位で降格し、シーズン終了後に退団した[1]。
2005年、ラトビアのFKヴェンタ(英語版)(FKヴェンツピルスの前身クラブ)に選手兼監督として加入。しかし、クラブが財政難に陥ったことも重なり、リーグ戦9試合に出場したものの、シーズン途中でクラブを去ると同時に現役を引退した[1]。
代表経歴
1990年、ソ連ユース代表として欧州U-21選手権で優勝。A代表ではヴァレリー・ロバノフスキーにより招集され、1989年4月26日の東ドイツ戦でデビューした。ソ連代表として計8試合に出場し、1990年FIFAワールドカップのメンバー候補筆頭であったが、膝の負傷と手術により本大会出場は叶わなかった[1]。
ウクライナ代表としては、1992年4月28日のハンガリーとの親善試合でデビュー。2003年9月10日のUEFA EURO 2004予選・スペイン戦まで、通算52試合に出場した。在籍期間中、FIFAワールドカップおよびUEFA欧州選手権において、計3度のプレーオフ敗退を経験したが、本大会出場には至らなかった。代表チームではキャプテンを39回務め、これは当時の歴代最多記録である[1]。
2000年12月、週刊誌『ウクライナ・サッカー』による20世紀のウクライナ代表オールタイム・ベスト11の投票において、オレグ・ブロヒン、アンドリー・シェフチェンコ、アナトリー・デミヤネンコに次ぐ第4位の得票数で選出された[1]。
指導者経歴
FKヴェンタ
2006年4月、独立国家共同体(CIS)諸国で初となるUEFAプロ・ライセンスを取得したウクライナ人指導者22名のうちの一人となった。直後にラトビアのFKヴェンタ(英語版)の選手兼監督に就任。元チームメイトのアリャクサンドル・ハツケヴィッチらを獲得し、UEFAチャンピオンズリーグ出場を目指す野心的なプロジェクトに着手した。しかし、数週間後には経営陣の財政難による給与未払いが発生し、プロジェクトは短期間で破綻。ルジニーはクラブを去ることとなった[1]。
ディナモ・キーウ(アシスタント、暫定監督)
2006年5月、ディナモ・キーウの監督アナトリー・デミヤネンコのアシスタントコーチに就任。2007年11月、デミヤネンコの後を継いだヨージェフ・サボ(英語版)が健康上の理由で辞任した際、暫定監督に任命された。暫定監督としての初陣は、UEFAチャンピオンズリーグのマンチェスター・ユナイテッド戦(オールド・トラッフォード)であったが、0-4で敗れた。その4日後には、国内のライバルであるシャフタール・ドネツクを2-1で破るなど立て直しを図った。イゴール・スルキス会長は、冬季休暇までの全試合に勝利すれば正式に監督へ昇格させる条件を提示したが、これを達成できず、2008年1月にユーリ・ショミンが監督に就任すると再びアシスタントコーチに戻った[1]。
2009年にヴァレリー・ガザエフが監督に就任した後もコーチ職に留まり、2010年10月にガザエフが辞任すると、2度目の暫定監督に就任。この期間、UEFAヨーロッパリーグ 2010-11では低迷していたチームを立て直しグループ首位通過に導いたが、国内リーグ戦では首位シャフタールとの勝ち点差が拡大し、同年12月のショミン監督再就任に伴い退任した[1]。
タフリヤ・シンフェロポリ
2012年、ディナモ・キーウを退団し、SCタフリヤ・シンフェロポリの監督に就任した。当時のチームにはウラジーミル・エゼルスキーやマクシム・カリニチェンコら経験豊富な選手が在籍していた。就任1年目の序盤10試合を4勝2分4敗の成績で発進したが、クラブ経営陣と代理人ドミトリー・セリウクとの紛争に巻き込まれ、複数の所属選手が契約解除を求める事態となった。さらにクラブはFIFAから補強禁止処分を受け、戦力が低下。最終的に同シーズンを過去9年間で最低の11位で終えた。2013年7月15日、クラブとの契約を前倒しで解消し退任した[1]。
カルパティ・リヴィウ
タフリヤ退団後、約2年半の空白期間を経て、2016年1月にリヴィウのFCカルパティ・リヴィウへ加入した。当初は監督就任と報じられたが、実際にはクラブ全体の「ヘッドコーチ(統括責任者)」という役割であり、トップチームの指揮はウラジミール・ベズズビャクが執る変則的な体制であった。ルジニーは各カテゴリーの視察や評価を担当していたが、この協力体制は短期間で終了した[1]。
ディナモ・キーウ復帰とその後
2017年夏、再びディナモ・キーウのアシスタントコーチに就任し、かつての教え子であるアリャクサンドル・ハツケヴィッチ監督を支えた。2019年にハツケヴィッチが解任されるまで同職を務めた。その後、ポーランドや、イスラエルのマッカビ・ハイファなど複数のクラブから監督就任の打診があったと報じられたが、いずれも合意には至らなかった。また、古巣アーセナルからのユースコーチ就任の打旨も、フル代表やトップチームでの指導を希望したため辞退したとされる[1]。
近年の活動
2022年のロシアによるウクライナ侵攻の際には、ウクライナ領土防衛軍に参加した。2025年には、自身のキャリアやウクライナサッカー界について綴った自伝『妥協なし。ウクライナサッカーの正直な歴史(No Compromises: An Honest History of Ukrainian Football)』を出版した。現在はウクライナサッカー協会において、プロサッカー委員会委員長を務めている[1]。