アーセナルFC
イングランドのサッカークラブ
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ア-セナル・フットボール・クラブ(英: Arsenal Football Club、イギリス英語発音: [ˈɑːsənl ˈfutˌbɔːl klʌb])は、イングランドの首都、ロンドンに本拠地を置くプレミアリーグに所属するサッカークラブ。ガナーズの愛称で知られる[1]。1886年に軍需工場の労働者のクラブとして創設され、チームのエンブレムには大砲が描かれている。
2003-04シーズンに達成した無敗優勝を含める4回のリーグ優勝記録(フットボールリーグ時代を含めると14回)、FAカップにおいては最多となる14回の優勝記録を持つ。ホームスタジアムはロンドンのエミレーツ・スタジアム(収容人数60,432人)。
クラブのモットーは「勝利は調和の中から生まれる(ラテン語: Victoria Concordia Crescit)」。1949年から使用されたクレストに初めて登場する。現行のクレストは2002年から使用されており、大砲の上にサンセリフ体でチーム名が書かれている。
歴史
創成期(1886年-1920年)


1886年、ロンドン南東部ウーリッジ地区にあった王立造兵廠(ロイヤル・アーセナル)の労働者がダイアル・スクエア(Dial Square)のチーム名で結成した。1886年12月11日に初めての試合をイースタン・ワンダラーズと行い、6-0で勝利。しばらくしてロイヤル・アーセナル(Royal Arsenal)と名称を変更した。1891年にプロ化を果たし、1893年にウーリッジ・アーセナル(Woolwich Arsenal)へと改称、フットボールリーグ2部に加盟すると、1904年に1部へ昇格した。地理的要因により集客力が悪かった影響で、1910年に破産状態に陥り、ヘンリー・ノリスに買収された。ノリスは2部に降格後の1913年、チームをロンドン北部のハイベリー地区にあったアーセナル・スタジアムに移転させると、1914年に名称から「ウーリッジ」が外され、現在の名称となった。
1919年に5位でシーズンを終えるも、近隣のライバルであるトッテナム・ホットスパーを差し置いて1部昇格を果たす。これが両チームの激しいライバル関係の端緒となったという見方もある。
ハーバート・チャップマンの時代(1925年-1940年)
1925年、ハーバート・チャップマンが監督に就任する。チャップマンによる革新的な戦術やトレーニング法の導入、アレックス・ジェームスやクリフ・バスティンといったスター選手の獲得が、1930年代にアーセナルがイングランドサッカーを支配する礎となった。チャップマンの下で1929-30シーズンに初のFAカップ優勝、1930-31シーズンに初のフットボールリーグ優勝を果たす。
スタジアム最寄りの地下鉄の駅名を「ギレスピー・ロード」から「アーセナル」へと変更させたのもチャップマンの手腕によるものと言われている[2]。ロンドンの地下鉄の中でサッカークラブのチーム名が駅名となっているのはアーセナルだけである。
夜間の試合のためにハイベリーのウェストスタンドに投光照明器を採用したのもチャップマンがリーグで初めてであったが、イングランドサッカー協会はその使用を50年代まで認めなかった。
リーグにおいて選手の背番号制を初めて導入したのもチャップマンである[2]。アーセナルだけでなくサッカーの近代化に大きな貢献をしたチャップマンは、1934年に肺炎で急逝した。その死後ジョー・ショー、続いてジョージ・アリソンが監督を引き継ぎ、2人の下でアーセナルはチャップマン時代の1932-33、1933-34シーズンを含めたリーグ3連覇、2回のリーグ優勝(1934-35、1937-38シーズン)と2回のFAカップ優勝を果たした。しかし、1939年9月の第二次世界大戦の勃発と共にリーグは中断を余儀なくされた。
戦後初のダブル、フェアーズカップ(1947年-1980年)

第二次世界大戦後、アリソンの後を継いだトム・ウィタカーの下でも1947-48、1952-53の2回のリーグ優勝、1949-50のFAカップ優勝を成し遂げるが、その後チームは、50年代はメジャーなタイトルを獲得することなく終わる。
1966年、クラブのフィジオセラピストだったバーティー・ミーが予想外に監督へ抜擢されると、2度のリーグカップ準優勝を経て、1969-70にクラブ史上初のヨーロッパでのタイトルとなるインターシティーズ・フェアーズカップを獲得。更に1970-71にリーグ優勝とFAカップ優勝のダブルを達成した。ダブルを達成したメンバーが徐々にチームを離れていくと、1970年代はタイトル獲得の一歩手前で足踏みするシーズンが続く。リーグ2位、3度のFAカップ準優勝、UEFAカップウィナーズカップ準優勝がこの間の成績で、獲得したタイトルは1978-79シーズンのFAカップである。マンチェスター・ユナイテッドを終了間際のゴールにより3-2で破ったこの試合は、アーセナルの歴史における名勝負の一つに数えられている。
ジョージ・グラハムの時代(1986年-1995年)
1986年に就任したジョージ・グラハムは元アーセナルの選手であり、クラブに第3の黄金期をもたらした。就任1年目に初のリーグカップ優勝。1988-89シーズン、アラン・スミス がリーグ得点王となる23得点を挙げ、シーズン最終節で優勝を争っていたリヴァプールをその本拠地アンフィールドでロスタイムに下すという劇的なものだった。1990-91シーズンには、アラン・スミスが22得点で得点王に輝く活躍もあり、1敗のみでリーグ優勝を達成している。
1992-93シーズン、1部リーグはFAプレミアリーグとして開幕したが、リーグでは10位と低迷する。このシーズンは「フェイマス4」と呼ばれた4バック(トニー・アダムス、ナイジェル・ウィンターバーン、リー・ディクソン、マーティン・キーオン)とゴールキーパーのデビッド・シーマンを擁して堅固な守備を武器に引いて守る戦術を採ったことが裏目に出たことで、1992年12月から1993年3月までの11試合において、スコアはどちらかのチームが1か0の試合が続き、他チームのサポーターや攻撃的サッカーを好む一般のマスコミからは「1-0のアーセナル」「退屈で守備的サッカーを展開するチーム」などと揶揄された。その一方で、カップ戦ではこの戦術が上手くハマったことで、イアン・ライトらの活躍でFAカップとリーグカップを獲得。
1993-94シーズンは、守備的過ぎた戦術を修正したことでリーグでは4位と復調し、ヨーロッパの舞台ではアラン・スミスのゴールでカップ・ウィナーズ・カップを獲得。
1994-95シーズンはチームの歯車が狂い始め、UEFAスーパーカップではACミランに敗北、リーグ戦でも低迷が続き、キャプテンのアダムスのアルコール中毒などのスキャンダルが露出。さらに、選手獲得の際にリベートを受け取っていたことが明らかとなって、1995年にグラハムは解雇された。
監督の後任人事は難航し、外国人監督の招聘について上層部が難色を示したことにより、英国人監督ということで、1995-96シーズンはブルース・リオッホが後任を務めた。このシーズンはデニス・ベルカンプらを獲得し、リーグ5位と復調したものの、リオッホは選手達の信頼を得るには至らなかった。
1996-97シーズン、監督の後任人事は様々な候補が挙がる中、当時名古屋グランパスエイトを率いていたアーセン・ベンゲルに監督就任を打診し合意に至るが、グランパスとの契約が残っていたため、シーズン途中の1996年10月に就任することとなった。このシーズンはベンゲルの監督就任を見越してパトリック・ヴィエラなどベンゲルが推した選手を中心に選手を獲得しており、シーズン開幕1週間前にはリオッホが獲得を希望した選手を1人も獲得出来なかったことをメディアに愚痴を言ったことでフロント陣と衝突し、リオッホは解任された。
アーセン・ベンゲルの就任と無敗優勝(1996年-2005年)

1990年代後半から2000年代にかけての成功は、1996年に就任したアーセン・ベンゲルの手腕によるところが大きい。
ベンゲルは従来からのトレーニング法の改善、ストレッチの導入、シーズン中の禁酒及び試合前のお菓子の摂取禁止の徹底や食事制限など多岐にわたった。さらに、補強戦略ではイングランド人を補完する形で外国人選手を獲得した。
これら一連の改革は、プレミアリーグ全体にもたらしたインパクトは大きく、長らくイングランドサッカー界で蔓延ってたアルコール中毒問題の解決にも貢献することとなった。多くのチームや監督がベンゲルの影響を受けたと言われている。
ベンゲルの就任後、これら一連の改革により選手のパフォーマンス向上に繋がり、「フェイマス4」と呼ばれた4バック(トニー・アダムス、ナイジェル・ウィンターバーン、リー・ディクソン、マーティン・キーオン)とデビッド・シーマンを擁した堅固な守備陣をベースに、海外の選手を積極的に補強し、華麗なパスワークを武器にした圧倒的な攻撃力を誇るチームへと生まれ変わった。このシーズンはリーグ3位となった。
1997-98シーズンには、序盤戦は低迷するも終盤戦に怒涛の追い上げを見せて、クラブ史上2度目のリーグ優勝とFAカップ優勝のダブルを達成。
その後は無冠のシーズンが続いたが、2001-02シーズンにも3度目のダブルを果たす。2001-02シーズンのリーグ優勝は敵地マンチェスター・ユナイテッドの本拠地オールド・トラッフォードで決めたものである。特に、2003-04シーズンはシーズンを通じて一度も負けることなくプレミアリーグ優勝(無敗優勝)を果たし、このチームは「インヴィンシブルズ(The Invincibles、無敵のチーム)」として讃えられた。無敗優勝はイングランドでプレストン・ノースエンド以来115年ぶりであり、優勝は最大のライバルトッテナムの当時の本拠地ホワイト・ハート・レーンで決定づけた。その後も49戦無敗を続け、この記録は未だに破られていない。カップ戦を含めた無敗は2007年4月9日から同年11月24日にかけての28試合である。1999-00シーズンにUEFAカップ準優勝、2002-03、2004-05シーズンにFAカップ優勝。2005-06にはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズリーグ決勝に進出したが、バルセロナに敗れて初優勝を逃した。
アーセナルはベンゲル指揮下の16シーズン中、8シーズンでリーグ優勝及び2位の座を獲得し、チームはフットボールリーグに代わって1993年に設立されたプレミアリーグで優勝を果たした7クラブ(マンチェスター・ユナイテッド、チェルシー、マンチェスター・シティ、ブラックバーン・ローヴァーズ、レスター、リヴァプール)のうちの一つとなった。
エミレーツへの移転と無冠の時代(2000年代後半)
2006年6月、93年間使用したハイベリーに別れを告げ、エミレーツ・スタジアムへ移転した。こけら落しはアヤックスを招いて行われたデニス・ベルカンプの引退試合であった。
この時期のクラブ経営陣はエミレーツ・スタジアム建設に関わる負債の返済のために、チームの主力級の選手に対してチェルシーやマンチェスター・ユナイテッドといった他のビッグクラブで主力級の選手が得ているほどの高額な年俸の支払いを認めなかった上、たとえタイトルに恵まれない状況下でもトップレベルの実力と経験のある選手の獲得のために資金を投入しようとはしなかったため、タイトル獲得やより高い報酬を求めてクラブを去る主力選手が後を絶たなかった。このような理由でクラブを離れた選手には、ロビン・ファン・ペルシ、セスク・ファブレガス、アシュリー・コール、サミル・ナスリ、エマニュエル・アデバヨール、ガエル・クリシー、パトリック・ヴィエラ、アレクサンドル・フレブ、マチュー・フラミニらがいた。
2004-05シーズンにジョゼ・モウリーニョが監督に就任したチェルシーに得失点差で及ばずリーグ優勝を逃して以降、10シーズン以上もの間リーグで優勝できず、チェルシーやマンチェスター・ユナイテッド等の後塵を拝する形で次第に優勝争いから遠ざかる状況が常態化するようになっていった。またFAカップも2004-05の優勝以降、9年間タイトルに恵まれなかったほか、UEFAチャンピオンズリーグでは2005-06大会の決勝でバルセロナに敗れて以来決勝の舞台には立てておらず、中には決勝トーナメント一回戦で敗退する年すらあった。
このように2000年代中頃から2010年代初頭はクラブにおける低迷期とも言える時期であったが、同時に世代交代の時期でもあった。ティエリ・アンリ、ベルカンプ、ヴィエラ、ロベール・ピレス、ソル・キャンベル、フレドリック・ユングベリ、ヌワンコ・カヌ、ローレン・エタメ・マイヤーといった黄金時代を支えた選手達が去る中でクラブは急速に世代交代を進めていき、チームの中心はセスク・ファブレガス、ファン・ペルシー、トマーシュ・ロシツキー、アンドレイ・アルシャビン、トーマス・フェルマーレン、バカリ・サニャ、コロ・トゥーレ、ウィリアム・ギャラス、ナスリ、アデバヨール、フラミニといった選手が占めるようになっていった。若手を中心としたチームはポテンシャルを感じさせるプレーを度々見せたものの、精神面やパフォーマンスに安定を欠いていたためか内紛が多く、主力選手が他のビッグクラブへと去ることも多かった。この間もセオ・ウォルコットやアーロン・ラムジー、ジャック・ウィルシャー、ローラン・コシールニーなどはチームに留まり続け、その後のチームの屋台骨を支える選手として成長していった。
2010年に、当時高校生だった宮市亮が加入した。
2011年以後の補強の成功により、チームの戦力は徐々に充実していった。2011-12シーズンはセスク・ファブレガスが退団したが、ミケル・アルテタ、ヨッシ・ベナユンらを補強した。2011年にブレーメンから移籍して来たペア・メルテザッカーは、1年目は怪我に苦しんだものの、2012-13にはコシールニーとの息の合ったコンビネーションを見せた。2012-13シーズンはファン・ペルシーが退団したものの、マラガから加入したサンティ・カソルラが加入直後からチームにフィットしてチームの躍進を支えたほか、モンペリエからオリヴィエ・ジルーが加入して47試合に出場し17ゴールを記録した。
無冠の終焉とベンゲル退任(2011年-2018年)
エミレーツ・スタジアム建設に関わる負債の減少から緊縮財政が終わると、経済的理由による主力の放出は収まり、高額な移籍金のかかる選手の獲得にも乗り出せるようになる。
2013年9月2日にアーセナルは当時のクラブ史上最高の移籍金5000万ユーロでレアル・マドリードからメスト・エジルを獲得した。エジルはカソルラらと息の合ったコンビネーションを構築し、2年連続でUEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに選出されるほどの卓越したパフォーマンスを披露した。このような補強の成功と戦力の増強が奏功し、チームは5月17日のFAカップ決勝にてハル・シティに逆転勝利を収めて優勝を果たし、アーセナルは9シーズンぶりにタイトル獲得の喜びをファンと分かち合った[3]。
2014-15シーズンはバルセロナからでチリ代表のアレクシス・サンチェスを、ニースから2014 FIFAワールドカップで脚光を浴びたコロンビア代表のダビド・オスピナを、ニューカッスル・ユナイテッドからフランス代表のマテュー・ドゥビュシーなど6名を獲得するなど、積極的な補強を行った。コミュニティーシールドでは前季リーグ王者のマンチェスター・シティと対戦し3-0で勝利を収め、シーズン最初のタイトルを獲得した。リーグも安定した戦績を積み3位となったほか、FAカップで決勝でアストン・ヴィラに4-0で勝利を収め、2年連続でカップを制した。この優勝によりアーセナルのFAカップにおける優勝回数は12回となり、マンチェスター・ユナイテッドを単独で上回る歴代最多優勝チームとなった[4]。
2015年7月30日、同じくロンドンを本拠地とするライバルのチェルシーからペトル・チェフを獲得。8月2日にコミュニティーシールドでそのチェルシーと対戦して1-0で勝利し、同大会の通算タイトル獲得数を14に伸ばした。2015-16シーズンは前半戦(19節)終了時点でリーグ首位に立っていたものの、最終的にレスターに抜かれ、2004-05シーズン以来の2位でシーズンを終えた。
2016-17シーズンは、ボルシアMGからグラニト・ジャカ、バレンシアからシュコドラン・ムスタフィ、デポルティーボ・ラ・コルーニャからルーカス・ペレスを獲得した[5]。開幕戦こそリヴァプールに敗れたものの、チェルシーに勝利するなど調子は上向きであった。エジルが不調に陥り、サンチェスの個の力に依存するようになると徐々に順位を落とし、最終的に5位でシーズンを終え、チャンピオンズリーグ出場権を19シーズンぶりに逃した。同年のチャンピオンズリーグでもベスト16でバイエルンに2戦合計2-10で大敗した。FAカップでは決勝でチェルシーに2-1で勝ち、再び史上最多となる13回目の優勝を飾った。
2017-18シーズンは、夏の移籍市場でセアド・コラシナツ、アレクサンドル・ラカゼットを獲得した[6]ほか、長年に渡って維持してきたCL出場権を逃したことでフロント陣の大刷新が図られ、フィットネスコーチとしてAFLのチームからオーストラリア代表やリヴァプールで働いていたオーストラリア人ダレン・バージェスを引き抜いた。彼はアーセナルでは、メディカル、フィットネス、心理学、そしてパフォーマンス分析を任され、更にスポーツにおける法律関連の業務を取り扱う企業のディレクター職兼自転車ロードレースのチーム「チームスカイ」で法律顧問を務める弁護士ハス・ファミーを契約交渉担当として引き抜いた。2017年11月20日に約10年間ドルトムントに在籍し敏腕スカウトとして注目されていたスヴェン・ミスリンタットをスカウトとしては異例の移籍金を支払う形でスカウト部門の責任者として引き抜いた。同年11月28日、約15年間FCバルセロナのFDを務めていたラウル・サンレヒが2018年2月1日からサッカー部門責任者として就任することを発表した。トップチームのコーチにクラブOBのレーマンが就任した。入れ替わる形で約8年間に渡って交渉責任者を務めていたディック・ロウや約25年間に渡ってチーフスカウトを務めてきたスティーブ・ローリーが退任した。冬の市場ではオーバメヤンやサンチェスとトレードする形でムヒタリアンなど、ミスリンタットが古巣でスカウトした選手を立て続けに獲得した。スタッフ陣の大刷新も実らず、6位でシーズンを終え2季連続でCL出場権を逃したことで、2018年4月20日、22年間指揮したアーセン・ベンゲルの今季限りでの退任が発表された。
ウナイ・エメリ時代(2018年-2019年)
2018年5月23日、ウナイ・エメリがアーセナルの22年ぶりの新監督として就任することが発表された[7][8]。新加入選手はドルトムントからソクラティス・パパスタソプーロス、サンプドリアからルーカス・トレイラなど合わせて5名ほどとなっており刷新と言うほどにはならなかったが、監督交代などもあり昨季に続きスタッフ陣の刷新が行われ、昨季キャプテンを務めシーズン終了後に現役引退したメルテザッカーがアーセナルアカデミーの監督に就任したほか、同じくOBのユングベリが同アカデミーのヘッドコーチに就任した。しかし昨季コーチに就任したOBのレーマンは退団することが決まった。また同年12月1日付けで、約10年に渡りアーセナルのCEOを務めてきたイヴァン・ガジディスがACミランのCEOに就任することが発表された。後任としてラウル・サンレヒがフットボール部門のヘッドに、ヴィナイ・ヴェンカテシャムがマネージングディレクターに就任することになった。また、冬の移籍市場ではセビージャで指揮をとっていた時の教え子であるデニス・スアレスを、バルセロナから買い取りオプション付きでレンタルした[9]。2019年4月1日のプレミアリーグ第32節ニューカッスル戦で2-0と勝利しリーグ戦ホーム10連勝を記録した。ホーム10連勝は21年ぶりのこととなった。だがアウェーでの戦績が昨シーズンよりは改善したものの依然として悪く(7勝4分け8敗でリーグ8位)、エクトル・ベジェリンなど負傷による長期離脱者も例年通り連発し、5位でシーズンを終えた。ELでは監督エメリがセビージャ時代に3連覇を成し遂げており、戦力的にも優勝候補筆頭だったが、決勝でライバル、チェルシーFCに1-4で大敗し準優勝。結果3季連続でCL出場権を逃すことになった。
2019年7月9日、ブラジル代表のジェネラルコーディネーターを務めいたOBのエドゥが新たな役職テクニカルディレクターに就任することが発表された[10]。夏の移籍市場では例年通り厳しい予算制限の中、リールで昨シーズンブレイクしたニコラ・ペペをクラブ史上最高額となる8000万ユーロで獲得し、レアル・マドリードからダニ・セバージョスをレンタルで獲得。さらに、最終日に宿敵チェルシーからダヴィド・ルイスを獲得した他、セルティックからキーラン・ティアニーの獲得に成功した。一方で、ペトル・チェフが引退し、アーロン・ラムジーはユヴェントスに、主将のローラン・コシールニーもボルドーに、アレックス・イウォビはエヴァートンに移籍した。11月29日に、成績不振によりウナイ・エメリが解任され、フレドリック・ユングベリが暫定監督に就任した[11]。
ミケル・アルテタ就任とチーム再建(2019年 - 2022年)
2019-20シーズン
2019年12月20日、マンチェスター・シティでジョゼップ・グアルディオラのアシスタントコーチを務めていたクラブOBのミケル・アルテタが3年半契約で監督として正式就任することが発表された[12]。2020年3月10日、2月27日にELで対戦したオリンピアコスFCのオーナーであるエヴァンゲロス・マリナキスが世界的に流行してた2019新型コロナウイルスに感染していることを自身のSNSで公表した[13]。翌3月11日、この試合後に複数の選手がマリナキスと濃厚接触をしていたことから感染者との接触日から14日間は自宅待機という政府の方針に従い当該選手と近くに座っていた4人のスタッフが3月12日まで自宅待機となり、延期でこの日に組まれていたマンチェスター・シティFC戦が再び延期となった[14]。さらに翌日の3月12日、監督のミケル・アルテタが2019新型コロナウイルスに感染したことが判明し、ファーストチームの選手全員とコーチ陣を含むかなり多くのアーセナル関係者がアルテタとの最後の接触日から14日間の自宅待機となった[15]。プレミアリーグ公式は、数時間前に今後の試合は予定通り試合を行う旨の発表をしていたが、このアルテタの感染の発表を受けて3月13日の午前に緊急のクラブ会議を行った[16]。その後も他のプレミアリーグチームの選手やスタッフから感染者や感染の疑いがある人物が続出し、3月13日にプレミアリーグは4月4日までイングランドのプロチームの試合全てを一時中断する決定をしたことを発表した[17]。結局、2019-20シーズンは、25年ぶりにトップ6入りを逃し[18]欧州カップ戦出場圏外となる8位でリーグ戦を終えた。しかし、シェフィールド・ユナイテッド(対戦時のリーグ順位8位)、マンチェスター・シティ(同2位)などリーグ戦で上位に位置していた難敵を倒して勝ち上がってFA杯決勝でチェルシーをオーバメヤンの2得点で逆転し最多優勝記録を伸ばす14回目の優勝を果たした[19]。これにより2020-21シーズンのEL出場権を獲得した。また、アルテタは、監督として初のタイトル獲得となった。
2020-21シーズン
夏の移籍市場では移籍志願した控えGKエミリアーノ・マルティネスの後釜にルナル・ルナルソンを獲得し、チェルシーを退団したウィリアンがフリーで加入、リーグ・アンからガブリエル・マガリャンイスとウィリアン・サリバという2人のCBを迎え入れ、最終日にアトレティコ・マドリードのトーマス・パーテイを契約解除金満額支払いで獲得した。一方、前述のマルティネスはアストン・ヴィラへ、ルーカス・トレイラがアトレティコ、ヘンリク・ムヒタリアンがローマ、アルテタとの衝突も噂されたマテオ・ゲンドゥージがヘルタ・ベルリンへ移籍。コミュニティーシールドではリヴァプール相手にPK戦の末勝利し、16回目の優勝を果たしたがリーグ戦では不調に陥り、欧州カップ戦圏外の順位に沈んだ。冬の移籍市場ではレアル・マドリードからマルティン・ウーデゴール、ブライトンからマシュー・ライアンをレンタルで獲得した。その一方で、アルテタの構想外となっていたエジルをフェネルバフチェへ、パパスタソプーロスをオリンピアコスへ、ムスタフィをシャルケへそれぞれ放出した。しかしチーム状況は思うように好転せず、最終的に2年連続の8位に終わった。またFAカップ、リーグカップ、ELでも敗退したことで25シーズンぶりに欧州カップ戦への出場権を失うことになった。
2021-22シーズン
夏の移籍市場ではブライトンからベン・ホワイト、アンデルレヒトからアルベール・サンビ・ロコンガ、ベンフィカからヌーノ・タヴァレス、ボローニャから冨安健洋、シェフィールド・ユナイテッドからアーロン・ラムズデールを獲得。さらにレンタル期限満了となりレアル・マドリードに戻っていたウーデゴールも完全移籍で獲得するなど、大型補強を行った。一方、ウィリアンが契約解除の後コリンチャンスへ、ジョー・ウィロックがニューカッスルへ移籍し、ダヴィド・ルイスが退団した。またセバージョスがレンタル期限満了となったことでレアル・マドリードに戻った。
昇格組ブレントフォードとの対戦に敗れると、チェルシーとのロンドン・ダービーにも敗れ、更にはマンチェスター・シティに5-0で敗れ開幕3連敗、この間無得点9失点と最悪の出だしとなる。しかし、新加入GKのラムズデールやボローニャから加入したDF冨安らを起用すると調子が上向き、ノリッジ、バーンリーに勝利しトッテナム・ホットスパーとのノース・ロンドン・ダービーにも勝利。第3節終了時点では最下位であったがその後11勝2分3敗の好成績を残し、第19節の時点でCL出場権を得られる4位まで順位を上げるまでチーム状態が上向いた。しかし、4位(アーセナル)と5位(トッテナム)のCL権争い直接対決という形になったシーズン2度目のノース・ロンドン・ダービーで退場者を出し3-0で敗戦するなど終盤に失速し、最終的には5位でシーズンを終え、EL出場権を獲得することになった。また、シーズン中の2021年12月14日にはオーバメヤンが規律違反を理由に第16節サウサンプトン戦を前にし主将を剥奪され、後任にはシーズン終了までの暫定としてラカゼットがその座に就いた[20]。
タイトル争いと3年連続のリーグ2位(2022年 - 2025年)
2022-23シーズン
夏の移籍市場でラカゼットがフリーでオリンピック・リヨンに移籍するも、その後釜としてマンチェスター・シティよりガブリエル・ジェズスを獲得。同じくマンチェスター・シティのオレクサンドル・ジンチェンコやFCポルトのファビオ・ヴィエイラ、サンパウロFCのマルキーニョスを獲得、ASサンテティエンヌにレンタルされていたウィリアン・サリバが復帰した。長らく正守護神としてチームを支えたベルント・レノがフラムに移籍したほか、ヌーノ・タヴァレス、メイトランド=ナイルズ、ニコラ・ペペをローンで放出した。オーバメヤンの移籍後空白だったキャプテンには23歳のウーデゴールが就き、若きチームを象徴することとなった。
開幕戦のクリスタル・パレスとの試合に2-0で勝利すると第5節のアストン・ヴィラ戦まで全勝し、8月を首位で終えた。第6節のマンチェスター・ユナイテッドには1-3で敗れ失速するかと思われたものの、トッテナムとのダービーを制するなど第13節のサウサンプトン戦で引き分けるまでリーグ戦全勝、その後の3試合も勝利し2022 FIFAワールドカップによるリーグの中断に入った第16節終了時点で12勝1分1敗の勝ち点37で首位となった[21]。ワールドカップ中断明け以降も好調は続き、同じく復調していたマンチェスター・ユナイテッドとの一戦では、試合終了間近のエディ・エンケティアの勝ち越しゴールにより重要な一戦を制した。19試合を終えた時点で勝ち点50に到達しており、これは無敗優勝したシーズンよりもハイペースで、特に好調ぶりが現れた第20節ノース・ロンドン・ダービーでは、9年ぶりのシーズンダブルを達成した。冬の移籍市場では、セドリック・ソアレス、サンビ・ロコンガ、マルキーニョスがローンに出され、トーマス・パーテイの控えであるモハメド・エルネニーの長期離脱に伴い、チェルシーのジョルジーニョを獲得した。その他にも、ブライトンのレアンドロ・トロサール、スペツィアのヤクブ・キヴィオルが加入した。その後、公式戦4試合勝利無しとマンチェスター・シティに首位を譲り失速したと思われたが、第24節アストン・ヴィラ戦後半アディショナルタイムに新加入のジョルジーニョがマルティネスのオウンゴールを誘い出し勝利して、再度首位に躍り出た。第26節AFCボーンマス戦では、開始直後に先制点をとられるも[22]、後半ATラストプレーにてリース・ネルソンが劇的逆転弾を決め勝利した[23]。ELでは、ラウンド16にてスポルティングCPにPK戦の末敗退するも、リーグ戦は連勝しマンチェスター・シティに8ポイント差をつけた[24]。しかし、2位マンチェスター・シティも勢いは止まらず、第30節リヴァプール戦では、前半で2点リードするも後半リヴァプールペースとなり終了間際に同点弾を決められてしまい引き分けた[25]。その後、不調のウェストハム、サウサンプトンFCに続けて引き分けを許し[26]、1試合消化の少ない2位マンチェスター・Cとの勝ち点差は暫定「5」に縮まってしまう。天王山となったマンチェスター・シティ戦では、アーリング・ハーランドのプレミア歴代最多得点記録を含む4-1という大差の点差での敗北を喫した[27]。これにより、当初の目標だったUEFAチャンピオンズリーグ出場権は達成したものの、自力優勝の可能性は消滅してしまった。優勝に負けられない状況となった第34節ビッグロンドン・ダービーでは前半から3点を奪い、5戦ぶりの白星をあげる[28]。その後は、好調のニューカッスルに敵地で勝利するも次節ブライトン戦にて0-3の完敗を喫してしまい、逆転優勝に向けて痛恨の黒星となってしまった[29]。そして第37節のノッティンガム・フォレスト戦に0-1で敗れ連敗を喫した。この結果、勝ち点差「4」の首位マンチェスターシティを残り1試合で逆転する事が不可能となり、19年ぶりの優勝を逃すこととなった[30]。
2023-24シーズン
夏の移籍市場ではウェストハムからクラブ史上最高額の移籍金となる最大1億500万ポンドでデクラン・ライスを獲得したほか、チェルシーからカイ・ハフェルツ、アヤックスからユリエン・ティンバー、ブレントフォードからダビド・ラヤをローンで獲得するなどの大型補強を敢行した。一方で、長年チームを支え前シーズンの躍進に貢献したグラニト・ジャカがバイエル・レバークーゼンへ移籍し、フォラリン・バログン、マット・ターナー、ロブ・ホールディングらも出場機会を求めてチームを去った。
シーズン最初の公式戦となったコミュニティーシールドでは、マンチェスター・シティ相手に後半アディショナルタイムのレアンドロ・トロサールのゴールで同点に追いつき、PK戦の末に勝利して17回目の優勝を果たした。リーグ戦では開幕節で新加入のティンバーが前十字靭帯断裂の重傷を負うアクシデントに見舞われる。年末にはウェストハムとフラムに痛恨の連敗を喫し一時は4位まで後退したが、ドバイでの冬季キャンプを経て迎えた2024年以降はチーム状態が劇的に好転。ウィリアム・サリバとガブリエウ・マガリャンイスの両センターバックを中心とした強固な守備と、偽9番として覚醒したハフェルツや右サイドのブカヨ・サカを中心とした流動的な攻撃が噛み合い、ウェストハムに6-0、バーンリーに5-0、シェフィールド・ユナイテッドに6-0と大勝を連発して怒涛のリーグ戦8連勝を記録した。最後までマンチェスター・シティとの熾烈な優勝争いを演じ、シーズン最多勝利記録を更新する28勝、リーグ最少失点(29失点)および最多得失点差(+62)を記録して昨季を上回る勝ち点89を獲得したものの、最終節までもつれた末にわずか2ポイント差で及ばず、2年連続の2位に終わった。
7シーズンぶりに出場したCLでは、セビージャやPSVと同居したグループBを首位で突破。ラウンド16ではFCポルトと対戦し、第2戦のPK戦でGKラヤが2本のシュートをセーブする活躍を見せて14年ぶりにベスト8へ進出したが、準々決勝でバイエルン・ミュンヘンに2戦合計2-3で競り負け、大会を後にした。
2024-25シーズン
夏の移籍市場では、前シーズンのゴールデングローブ賞を受賞したダビド・ラヤの買取オプションを行使して完全移籍で獲得したほか、ボローニャからイタリア代表DFリッカルド・カラフィオーリ、レアル・ソシエダからスペイン代表MFミケル・メリーノを獲得し、選手層に厚みを持たせた。さらに移籍期間最終日にはチェルシーからラヒーム・スターリング、ボーンマスからベテランGKのネトをそれぞれローンで加えた。一方で、下部組織出身で背番号10を背負っていたスミス・ロウがフラムへ、エディ・エンケティアがクリスタル・パレスへ移籍し、出場機会が減少していたアーロン・ラムズデールもサウサンプトンへ完全移籍で去った。
リーグ戦では、キャプテンのマルティン・ウーデゴールが代表戦での負傷により秋季に長期離脱を余儀なくされ、チームは一時的に創造性を欠いて勝ち点を取りこぼす時期が続いた。冬場にかけて復調し、ライスやメリーノの中盤での支配力を武器に勝ち点を積み重ねたものの、アルネ・スロット新監督が就任し序盤から独走状態に入っていたリヴァプールを捕らえることはできず、勝ち点74で3年連続の2位という結果に終わった。
一方で、CLでは欧州の舞台で確かな成長を示した。決勝トーナメントでは堅守速攻とセットプレーの強さを遺憾なく発揮し、準々決勝で大会最多優勝を誇るレアル・マドリードをホームのエミレーツ・スタジアムで撃破する番狂わせを起こして準決勝へ進出。しかし、準決勝のパリ・サンジェルマン戦では、敵地での第1戦を0-1で落とすと、ホームでの第2戦もカウンターから失点を重ねて1-2で敗戦。2戦合計1-3で敗退となり、アルテタ監督が試合後に「我々がこの大会で最も優れたチームだったと信じているが、ボックス内での質が勝敗を分けた」と悔やむ結果となり、主要タイトル無冠でシーズンを終えることとなった。
22年ぶりの悲願達成・プレミアリーグ制覇(2025年 - )
2025-26シーズン
3シーズン連続であと一歩のところで主要タイトルを逃したアーセナルは、悲願のリーグ制覇と欧州制覇に向けて夏の移籍市場で前線の決定力不足を解消すべく大型ストライカーヴィクトル・ギェケレシュの獲得など的確な補強を行った。迎えたシーズンでは、開幕から攻守においてリーグ最高峰の完成度を披露。サリバ、ガブリエウ、カラフィオーリ、ティンバーらで構成される最終ラインは鉄壁を誇り、リーグ最少失点を記録し、ホーム戦でも圧倒的な勝率を残した。守護神ダビド・ラヤはその安定したセービングでゴールデングローブ賞(最少失点GKに贈られる賞)を受賞している[31]。
リーグ戦では、年明け以降に猛追を見せたマンチェスター・シティと熾烈なマッチレースを展開し、シーズン終盤まで緊迫した首位争いが続いたが、アーセナルは通算238日間にわたって首位の座を守り抜いた[32]。迎えた第37節、難敵バーンリーとのホーム戦において、膠着状態が続く中で前半37分にカイ・ハフェルツがコーナーキックから値千金の決勝ゴールを奪い1-0で勝利。これで勝ち点を82に伸ばし首位をキープすると、翌日に行われた試合で2位のマンチェスター・シティがボーンマスの粘り強い守備を崩しきれず1-1で痛恨のドロー。この結果、マンチェスター・シティとの勝ち点差が残り1試合で逆転不可能な差に開き、アーセナルの『インビンシブルズ(無敗優勝)』時代である2003-04シーズン以来、実に22年ぶりとなるプレミアリーグ優勝が確定した。これはプレミアリーグ発足後4度目、フットボールリーグ時代を含めると通算14度目のトップリーグ制覇となる[33][34]。
さらに、リーグ優勝の勢いそのままにCLでも勝負強さを発揮した。準決勝ではアトレティコ・マドリードと対戦し、2試合合計2-1で撃破。無敗のまま2005-06シーズン以来20年ぶり、クラブ史上2度目の決勝進出を果たした。決勝の相手は奇しくも昨シーズンの準決勝で苦杯を舐めさせられたパリ・サンジェルマンとなっており、ハンガリー・ブダペストのプシュカーシュ・アレーナで行われる決勝で、クラブ悲願のビッグイヤー獲得と昨季の雪辱を懸けた大一番に臨むこととなった[35]。前半5分にカイ・ハヴァーツが先制点を挙げるも、後半65分に痛恨のPKを献上し同点とされ、そのまま延長戦へ突入。両者一歩も譲らず勝負はPK戦にもつれ込み、3-4でパリ・サンジェルマンに惜敗した。
この敗北から一夜明けた翌日、北ロンドンではプレミアリーグ優勝パレードが行われた。選手やスタッフはオープンバスでイズリントン地区を巡り、2004年以来のリーグ優勝を祝った。この動員数はイングランドの同種イベントでは史上最多、2025年に約75万人が集まったリヴァプールパレードを超す、150万人のファンが沿道を埋め尽くした。[36]。
なおこのピッチ上での成功は、クラブの財務面にも劇的な変化をもたらした。複数の有力メディアの報道によると、2025-26シーズンのクラブの総収益は、前年度の約6億9100万ポンドから大きく増加し、約7億7000万ポンド(約1500億円)に達する見通しとなった。これは、2023-24シーズンにマンチェスター・シティFCが記録した7億1500万ポンドを塗り替え、プレミアリーグ所属クラブとしての単一シーズン史上最高額の収益記録となる。これにより、アーセナルはレアル・マドリード、バルセロナに次ぐ世界第3位の収益規模を誇るクラブに位置づけられる見込みである[37]。
ユニフォーム
伝統的に赤地に白い袖を特徴としている。ただし、その歴史を通じて常にこの配色だったわけではない。赤色が用いられるようになったのは、クラブが結成された1886年の直後にノッティンガム・フォレストから寄贈を受けたことに由来する[38]。創設メンバーのうちフレッド・ビアズリーとモリス・ベイツはかつてフォレストでプレーした経験を持ち、仕事のためウーリッジへ移っていた。当地で最初のチーム(ダイアル・スクエア)を編成した際に用具を用意できなかったため、2人は故郷へ支援を求める手紙を送り、ユニフォーム一式とボールを受け取った[39]。このシャツはレッドカラント(暗い赤色)で、白いショーツおよび青と白の横縞のソックスと合わせて着用された[40][41]。
| 設立当初のユニフォーム |
| 1933年のユニフォーム |
1933年、選手をより明確に識別できるようにしたいと考えた当時の監督ハーバート・チャップマンは、ユニフォームを刷新して白い袖を加え、色合いもより鮮やかなピラーボックス・レッド(鮮紅色)へと変更した。白い袖が生まれた由来には2つの説がある。1つはチャップマンがスタンドで白いシャツの上に赤い袖なしのセーターを着た観客を見かけたという説、もう1つはゴルフ仲間であった漫画家のトム・ウェブスターの服装に着想を得たという説である[42]。いずれの説が正しいにせよ、この赤と白のシャツはアーセナルを象徴するものとなり、以後は2シーズンを除いてこの組み合わせが着用され続けている。例外の1つは1966-67シーズンで、このとき全身赤のシャツを着用したが[41]、不評だったため翌シーズンには白い袖が復活した。もう1つはハイベリーで戦う最後のシーズンとなった2005-06シーズンであり、同スタジアムでの初年度にあたる1913年に着用したものを模した記念のレッドカラント色のシャツを用い、翌シーズンの開幕時には通常の配色へ戻している[42]。また2008-09シーズンには、従来の白一色の袖に代えて、太い白の縦縞が入った赤い袖を採用した[41]。
アーセナルのホームカラーは、少なくとも3つの他クラブのデザインに影響を与えた。1909年にはスパルタ・プラハが当時のアーセナルと同様の濃い赤のユニフォームを採用し[42]、1938年にはハイバーニアンが自らの緑と白のストリップにアーセナルの袖のデザインを取り入れた[43]。1941年には、イングランドで教育を受けたサンタフェの創設者でアーセナルのファンだったルイス・ロブレドが、新たに創設したチームのメインカラーを選んだ。1920年にはスポルティング・クルーベ・デ・ブラガの監督がハイベリーでの試合から帰国した後、自チームの緑のユニフォームを、アーセナルと同じ赤地に白袖・白ショーツのものへと変更し、これが同クラブのニックネーム「Os Arsenalistas」の由来となった[44]。これらのクラブは現在もこのデザインを採用し続けている。
| 黄色のシャツに青のショーツを合わせた配色は、アーセナルの伝統的なアウェイカラーである。 |
アウェイ用のユニフォームは、長年にわたり白または濃紺(ネイビーブルー)が用いられてきた。しかし1968年、審判の黒い服装と紛らわしいという理由からFAがネイビーのシャツを禁止したため、アーセナルは1969-70シーズンに、青いショーツと組み合わせた黄色のシャツのアウェイキットを導入した。このキットは、リヴァプールを破ってクラブ史上初のリーグとFAカップの2冠(ダブル)を達成した1971年のFAカップ決勝でも着用され、黄と青のストリップは象徴的な赤と白のホームキットに匹敵するほど有名になった[45][46]。翌シーズンにもFAカップ決勝に進出したが、このときは赤と白のホームストリップを着用し、リーズ・ユナイテッドに敗れた。その後、1978年から1980年にかけて3年連続でFAカップ決勝に進出した際には、いずれも「縁起のよい」黄と青のストリップを着用している[45]。この配色は、1982-83シーズンに緑と紺のアウェイキットが発表されるまでクラブのアウェイストリップであり続けた。翌シーズンには、従来より濃い青色を用いつつ、再び黄と青の配色に戻った。
| 1990年代以降、青はアウェイまたはサードキットで多く用いられている。 |
1994年、ナイキがアディダスに代わってアーセナルのキットサプライヤーになると、アウェイカラーは再び変更され、濃淡2色の青を用いたシャツとショーツとなった。利益率の高いレプリカキット市場が成立して以降、アウェイキットは頻繁に変更されるようになり、アーセナルは通常、アウェイとサードの両方のキットを発表している。この時期のデザインは、全身を青で統一したものか、伝統的な黄と青のバリエーションであり、後者には2001-02シーズンのメタリックゴールドと紺、2005年から2007年にかけての黄と濃いグレー、2010年から2013年にかけての黄とマルーン(えび茶色)などがある[47]。2014年までアウェイキットは毎シーズン変更され、同じ年に新しいホームキットが導入される場合には、それまでのアウェイキットがサードキットへ回された[48]。
2014年にプーマがアーセナルのキット製造を手がけるようになると、毎シーズン新しいホーム・アウェイ・サードの各キットが発表されるようになった。2017-18シーズンには、プーマがアウェイとサードのキットに新たな配色を採用し、アウェイは下部へ向かうほど濃い青になる明るい青、サードは赤を差し色にした黒となった。2018-19シーズンには元の配色に戻している[49]。2019-20シーズンからは、アーセナルのキットはアディダスによって製造されている[50]。
かつては、選手全員が毎試合同じ袖(長袖か半袖のいずれか)のユニフォームを揃って着用するという決まりがあった。どちらを着て試合に出るかを決めるのはキャプテンの役目であり、この習慣は90年代初期のトニー・アダムスに始まったとされる。
ダービーマッチ
同じ北ロンドンに本拠を構えるクラブ同士としてトッテナム・ホットスパーFCとは激しいライバル関係にあり、サポーター同士のいがみ合いが強く両者の間には争いごとが絶えない。それをよく象徴するのがかつて同クラブから移籍してきたソル・キャンベルに対してトッテナムファンがユダと呼んだという出来事である。両チームの対戦はノース・ロンドン・ダービーと呼ばれ、マンチェスター・ダービー、マージーサイド・ダービーと並び、リーグの三大ダービーマッチの一つに数える。アーセナルはトッテナムに通算成績で大きく上回っている。
また同じく長い歴史と伝統を持っているマンチェスター・ユナイテッドFCとも互いに強いライバル意識を持っている。
サポーター
アーセナルのサポーターは「グーナー(Gooners)」と呼ばれており、由来は諸説あるが一般的にはクラブのニックネームの「ガナーズ(Gunners)」からきていると言われている。2022/2023シーズンよりホームゲーム試合前に「The Angel (North London Forever)」が演奏され、クラブのAnthemとして定着している。
世界屈指の人気クラブであるため、海外の著名人にもサポーターが多く存在する。イギリス国内では、俳優のイドリス・エルバ、チャーリー・ヒートン、ロバート・パティンソン、ベネディクト・カンバーバッチなどをはじめ、長距離選手のモハメド・ファラーや司会者・ジャーナリストのピアーズ・モーガン、熱狂的なアーセナルサポーターの日常を描いた自伝的小説『ぼくのプレミア・ライフ(原題:Fever Pitch)』の著者である作家ニック・ホーンビィ、F1世界王者のルイス・ハミルトン、さらにはイギリス首相のキア・スターマーやヘンリー王子などが生粋のグーナーとして知られている。 また、日本でも馴染み深い世界的スターでは、試合中の熱狂ぶりやゴールセレブレーションが話題になったハリウッド女優のアン・ハサウェイのほか、俳優のマット・デイモン、歌手のジャスティン・ビーバー、映画『ぼくのプレミア・ライフ』で主演を務めたコリン・ファース、映画監督のスパイク・リー、世界的ラッパーのジェイ・Z、ザ・ローリング・ストーンズのボーカルであるミック・ジャガー、その他俳優のニコラス・ガリツィン、ダニエル・カルーヤなどもサポーターであることを公言(あるいは試合観戦に頻繁に訪れる姿が目撃)している。また公言はしてなかったもののエリザベス2世もアーセナルファンだったという非常に有名な逸話がある。
日本人の著名人サポーターとして、フリーアナウンサーの西岡明彦、タレントのハリー杉山、笹木かおり、矢倉楓子、女優の松井玲奈、歌手のヒグチアイ、お笑い芸人ミキの亜生 などがいる。
エピソード
- 近隣のアレクサンドラ・パレス送信所に近かったこともあり、アーセナルはメディアにおける数々の「初」に関わってきた。1927年1月22日にハイベリーで行われたシェフィールド・ユナイテッド戦は、イングランドで初めてラジオで生中継されたリーグ戦だった[51][52]。その10年後の1937年9月16日には、ファーストチームとリザーブチームによるエキシビションマッチが、世界で初めてテレビで生中継されたサッカーの試合となった[51][53]。また、1964年8月22日にアンフィールドで行われたリヴァプール戦のハイライトは、BBCの『マッチ・オブ・ザ・デイ』の記念すべき第1回放送で取り上げられた[51][54]。さらに、2010年1月のマンチェスター・ユナイテッド戦のスカイによる中継は、スポーツイベントとして世界で初めて3Dで一般向けに生中継されたものである[51][55]。
- イングランド屈指の名門であることから、英国の芸術作品でサッカーが描かれる際にはたびたびアーセナルが登場してきた。最も初期のサッカーを題材にした小説の一つである『The Arsenal Stadium Mystery』(1939年)はアーセナルを舞台としており、同年に映画化もされた[56]。物語はアーセナルとアマチュアチームの親善試合を中心に展開し、試合中に選手の一人が毒殺されるという筋立てである。映画には多くのアーセナルの選手が本人役で出演し、当時の監督ジョージ・アリソンはセリフのある役を与えられた[57]。
- ニック・ホーンビィの著書『フィーバーピッチ』(1992年)は、著者自身の人生とサッカー、とりわけアーセナルとの関わりを描いた自伝的作品であり、1990年代に英国社会でサッカーの人気が復権する一翼を担った[58]。同書は2度映画化されており、1997年のイギリス映画はアーセナルの1988-89シーズンのリーグ優勝を題材とし、2005年のアメリカ映画版では野球のボストン・レッドソックスのファンが主人公となっている[59]。
- アーセナルは、特に1970年代から1980年代にかけて、守備的で「退屈な」チームというステレオタイプで語られることが多かった[60]。1997年の映画『フル・モンティ』では、主人公たちがストリップショーの振り付けを揃えようとして横一列に並んで手を上げる場面があり、これはアーセナルの守備陣のオフサイドトラップを意図的に模したものである[57]。その15年後、2012年のディズニーのSF映画『ジョン・カーター』(監督・共同脚本は同クラブの著名な海外サポーターであるアンドリュー・スタントン)にもほぼ同じ場面が盛り込まれ、作中には他にもクラブを示唆する映像や台詞が随所に散りばめられている[61]。また映画『プランケット&マクレーン』には、アーセナルで長年プレーした右サイドバックのリー・ディクソンと左サイドバックのナイジェル・ウィンターバーンにちなんで名付けられた、ディクソンとウィンターバーンという2人の登場人物が出てくる[57]。
- アルゼンチンにあるアルセナルのクラブ名の由来にもなっている[62]。提携・傘下クラブではなく尊敬の意味でクラブ名を使用されるこのような例は他にコロンビアのバルセロナ・デ・エクアドル、日本のFCみやぎバルセロナなど世界中に存在する。なお、日本にあるクラブのFC市川ガナーズは元々はアーセナルの日本スクールとして発足したが全世界からのスクール撤退のため、スクール生たちの受け皿として発足したクラブでガナーズはアーセナルの愛称から名づけられている[63]。
- 2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのアーセナルのクラブ収入は2億8430万ユーロであり、世界第8位である。プレミアリーグではマンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティ、チェルシーに次ぐ第4位である[64]。
- ワールドカップ・ドイツ大会に、当時17歳の若さで、セオ・ウォルコットが選出された。イングランド国内外でサプライズ招集として注目を浴びたが、試合出場の機会は無かった。
- 就任当初は足りないところを外国人で補強するという方針を公言していたベンゲル監督だったが、その後はフランスやアフリカなどフランス語圏系の選手が大半を占めるようになり、彼らはベンゲルを含めて「フレンチ・コネクション」と呼ばれた。結果的にイングランド人選手の活躍の場が少ない状況が続き、特に2006-07シーズン開始時に、ピッチ上にイングランド人選手が全くいない試合が多くあったため、イングランド国内において外国人偏重チームと批判されることが多かった。この理由についてベンゲルはアーセナルが若手有望株を多く登用する方針であることを指摘した上で、「だがイングランドの若手選手を獲得しようとすると、他の国の選手に比べて値段が高い。そうなれば法律的に15歳から17歳の移籍金のかからない国の有望な若手選手に目を向けることが多くなるのは自然なことだ」とコメントしている。その後は、ホームグロウン制度[65]を満たす外国人選手の獲得は続いているものの、アカデミー出身のジャック・ウィルシャー、キーラン・ギブス、アレックス・イウォビに加えて、アーロン・ラムジーやオックスレイド=チェンバレンなどの国内選手の台頭も見られるようになった。彼らは先述の「フレンチ・コネクション」に代わって「ブリティッシュ・コア」と呼ばれた。
- 国家による労働法・雇用法の違いを利用し、18歳未満の選手を無償で獲得する手法には各方面から批判が上がるが、法律上は問題はないのでむしろ各クラブのモラルの問題と見る声もある。その例として、2003年、16歳にしてFIFA U-17ワールドカップで得点王とMVPを獲得したセスク・ファブレガスは、アーセナルに17歳で移籍した[66]。
- バッキンガム宮殿におけるエリザベス2世主催のお茶会にサッカークラブとして初めて招待された。エミレーツ・スタジアムの落成式には女王が臨席する予定であったが、体調を崩していたため、夫のエディンバラ公フィリップが代理出席した。
- 1968年5月に来日し、当時のサッカー日本代表と3試合を行ったことがある[67]。結果はアーセナルの3勝[67]。釜本邦茂が出場している。
- 地元密着のための方策の一つとして、毎年ロンドン市と共同で子供向けに外国語学習教材を製作し配布している。教材には現役選手も多数登場するのが恒例。ちなみに2009年から川崎フロンターレが毎年製作している算数ドリルは、この教材に範を取って作られた[68]。
- 審判のマイク・ディーンとの相性の悪さは有名である。2015年時点で、2005年以降で他の審判員が担当した場合のアーセナルの勝率が62.31%なの対し、ディーン主審の場合は25.37%まで下がるというデータがある。ディーンは度々、アーセナルに不利な不可解なジャッジを行い物議を醸している。2012年2月のノース・ロンドン・ダービーにおいて、ディーンはトッテナムのゴールに喜ぶような仕草を見せ話題となった。2015年にはチェルシーとのダービーマッチにおいて一連の乱闘騒ぎがあったが、チェルシーのジエゴ・コスタの挑発行為や暴力行為が引き金となったにも関わらずアーセナルのガブリエウのみが退場となった。これに激怒したアーセナルサポーターは、同氏が二度とアーセナル戦で笛を吹かないよう署名運動を行った。また2017年12月のウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦において、ディーンはカラム・チェンバースのハンドを取り相手にPKを与えた。この判定に激怒したベンゲルは、審判団の控室に乗り込んで主審を罵倒するなどした。FAは、この行為についてベンゲルに3試合のベンチ入り禁止と4万ポンドの罰金の処分を科した。しかし後日、ディーンはこの判定が誤りであったことを認めた。
- 日本人選手との縁も深く、冨安健洋は2021年夏にボローニャから加入したクラブ史上4人目の日本人選手である。それ以前には稲本潤一、宮市亮、浅野拓磨がクラブに在籍していたが、いずれも主にレンタル移籍などでファーストチームでの出場機会は限られており、レギュラーとして定着した日本人選手は冨安が初めてとなった[69]。両サイドバックとセンターバックをこなすユーティリティ性をミケル・アルテタ監督に評価されたが、たびたび負傷に悩まされ、最終的に2025年7月4日、4シーズンで公式戦84試合に出場した後、双方合意のうえで契約を終了した[70]。
- 2025-26シーズン、相手にPK(ペナルティーキック)を与えず、かつ自チームから退場者を一人も出すことなくプレミアリーグを制した史上初のチームとなった[71]。
タイトル
国内タイトル
- プレミアリーグ:4回




- フットボールリーグ:10回










- FAカップ:14回














- 1929-30, 1935-36, 1949-50, 1970-71, 1978-79, 1992-93, 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2004-05, 2013-14, 2014-15, 2016-17, 2019-20
- EFLカップ:2回


- 1986-87, 1992-93
- FAコミュニティ・シールド:17回

















- 1930, 1931, 1933, 1934, 1938, 1948, 1953, 1991, 1998, 1999, 2002, 2004, 2014, 2015, 2017, 2020, 2023
国際タイトル
- 1993-94
- 1969-70
過去の成績
| シーズン | リーグ戦 | カップ戦 | リーグ杯 | CS | UEFA | 最多得点者 | ||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ディビジョン | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 順位 | CL | CWC | EL | USC | 選手 | 得点数 | ||||
| 1992-93 | プレミアリーグ | 42 | 15 | 11 | 16 | 40 | 38 | 56 | 10位 | 優勝 | 優勝 | 30 | ||||||
| 1993-94 | 42 | 18 | 17 | 7 | 53 | 28 | 71 | 4位 | 4回戦敗退 | 4回戦敗退 | 準優勝 | 優勝 | 35 | |||||
| 1994-95 | 42 | 13 | 12 | 17 | 52 | 49 | 51 | 12位 | 3回戦敗退 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | 準優勝 | 30 | |||||
| 1995-96 | 38 | 17 | 12 | 9 | 49 | 32 | 63 | 5位 | 3回戦敗退 | 準決勝敗退 | 22 | |||||||
| 1996-97 | 38 | 19 | 11 | 8 | 62 | 32 | 68 | 3位 | 4回戦敗退 | 4回戦敗退 | 1回戦敗退 | 30 | ||||||
| 1997-98 | 38 | 23 | 9 | 6 | 68 | 33 | 78 | 1位 | 優勝 | 準決勝敗退 | 1回戦敗退 | 22 | ||||||
| 1998-99 | 38 | 22 | 12 | 4 | 59 | 17 | 78 | 2位 | 準々決勝敗退 | 4回戦敗退 | 優勝 | グループリーグ敗退 | 19 | |||||
| 1999-00 | 38 | 22 | 7 | 9 | 73 | 43 | 73 | 2位 | 4回戦敗退 | 4回戦敗退 | 優勝 | グループリーグ敗退 | 大会廃止 | 準優勝 | 26 | |||
| 2000-01 | 38 | 20 | 10 | 8 | 63 | 38 | 70 | 2位 | 準優勝 | 3回戦敗退 | 準々決勝敗退 | 22 | ||||||
| 2001-02 | 38 | 26 | 9 | 3 | 79 | 36 | 87 | 1位 | 優勝 | 準々決勝敗退 | 2次グループリーグ敗退 | 32 | ||||||
| 2002-03 | 38 | 23 | 9 | 6 | 85 | 42 | 78 | 2位 | 優勝 | 3回戦敗退 | 優勝 | 2次グループリーグ敗退 | 32 | |||||
| 2003-04 | 38 | 26 | 12 | 0 | 73 | 26 | 90 | 1位 | 準決勝敗退 | 準決勝敗退 | 準優勝 | 準々決勝敗退 | 39 | |||||
| 2004-05 | 38 | 25 | 8 | 5 | 87 | 36 | 83 | 2位 | 優勝 | 準々決勝敗退 | 優勝 | ベスト16 | 30 | |||||
| 2005-06 | 38 | 20 | 7 | 11 | 68 | 31 | 67 | 4位 | 4回戦敗退 | 準決勝敗退 | 準優勝 | 準優勝 | 33 | |||||
| 2006-07 | 38 | 19 | 11 | 8 | 63 | 35 | 68 | 4位 | 5回戦敗退 | 準優勝 | 準優勝 | ベスト16 | 13 | |||||
| 2007-08 | 38 | 24 | 11 | 3 | 74 | 31 | 83 | 3位 | 5回戦敗退 | 準決勝敗退 | 準々決勝敗退 | 30 | ||||||
| 2008-09 | 38 | 20 | 12 | 6 | 68 | 37 | 72 | 4位 | 準決勝敗退 | 準々決勝敗退 | 準決勝敗退 | 20 | ||||||
| 2009-10 | 38 | 23 | 6 | 9 | 83 | 41 | 75 | 3位 | 4回戦敗退 | 準々決勝敗退 | 準々決勝敗退 | 19 | ||||||
| 2010-11 | 38 | 19 | 11 | 8 | 72 | 43 | 68 | 4位 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | ベスト16 | 22 | ||||||
| 2011-12 | 38 | 21 | 7 | 10 | 74 | 49 | 70 | 3位 | 5回戦敗退 | 準々決勝敗退 | ベスト16 | 37 | ||||||
| 2012-13 | 38 | 21 | 10 | 7 | 72 | 37 | 73 | 4位 | 5回戦敗退 | 準々決勝敗退 | ベスト16 | 21 | ||||||
| 2013-14 | 38 | 24 | 7 | 7 | 68 | 41 | 79 | 4位 | 優勝 | 4回戦敗退 | ベスト16 | 22 | ||||||
| 2014-15 | 38 | 22 | 9 | 7 | 71 | 36 | 75 | 3位 | 優勝 | 3回戦敗退 | 優勝 | ベスト16 | 25 | |||||
| 2015-16 | 38 | 20 | 11 | 7 | 65 | 36 | 71 | 2位 | 準々決勝敗退 | 3回戦敗退 | 優勝 | ベスト16 | 24 | |||||
| 2016-17 | 38 | 23 | 6 | 9 | 77 | 44 | 75 | 5位 | 優勝 | 準々決勝敗退 | ベスト16 | 30 | ||||||
| 2017-18 | 38 | 19 | 6 | 13 | 74 | 51 | 63 | 6位 | 3回戦敗退 | 準優勝 | 優勝 | 準決勝敗退 | 17 | |||||
| 2018-19 | 38 | 21 | 7 | 10 | 73 | 51 | 70 | 5位 | 4回戦敗退 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | 31 | ||||||
| 2019-20 | 38 | 14 | 14 | 10 | 56 | 48 | 56 | 8位 | 優勝 | 4回戦敗退 | ベスト32 | 29 | ||||||
| 2020-21 | 38 | 18 | 7 | 13 | 55 | 39 | 61 | 8位 | 4回戦敗退 | 準々決勝敗退 | 優勝 | 準決勝敗退 | 17 | |||||
| 2021-22 | 38 | 22 | 3 | 13 | 61 | 48 | 69 | 5位 | 3回戦敗退 | 準決勝敗退 | 12 | |||||||
| 2022-23 | 38 | 26 | 6 | 6 | 88 | 43 | 84 | 2位 | 4回戦敗退 | 3回戦敗退 | ベスト16 | 15 | ||||||
| 2023-24 | 38 | 28 | 5 | 5 | 91 | 29 | 89 | 2位 | 3回戦敗退 | 4回戦敗退 | 優勝 | 準々決勝敗退 | 20 | |||||
| 2024-25 | 38 | 20 | 14 | 4 | 69 | 34 | 74 | 2位 | 3回戦敗退 | 準決勝敗退 | 準決勝敗退 | 15 | ||||||
| 2025-26 | 38 | 26 | 7 | 5 | 71 | 27 | 85 | 1位 | 準々決勝敗退 | 準優勝 | 準優勝 | 21 | ||||||
記録と統計
アーセナルが獲得した14回のリーグ優勝は、リヴァプール(20回)とマンチェスター・ユナイテッド(20回)に次いでイングランドで3番目に多い記録であり[72]、リーグ優勝7回目および8回目に最初に到達したクラブでもある。また、1992年のプレミアリーグ創設以降に同リーグを制したことのある7クラブ(他はマンチェスター・ユナイテッド、ブラックバーン・ローヴァーズ、チェルシー、マンチェスター・シティ、レスター・シティ、リヴァプール)の一つである[72]。
FAカップの優勝回数は14回で、これは歴代最多である[73]。アーセナルはFAカップを2連覇した数少ない6クラブの一つで、2002年・2003年と2014年・2015年にこれを達成している[73]。さらに、リーグとFAカップの「2冠(ダブル)」を1971年、1998年、2002年の3度達成しており、これは当時マンチェスター・ユナイテッド(1994年、1996年、1999年)のみが成し遂げていた偉業だった[74]。また、1993年にはイングランドのクラブとして初めてFAカップとリーグカップの2冠を達成した[75]。加えて、ロンドンのクラブとして初めてUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出したクラブでもあり、2006年の決勝でバルセロナに1-2で敗れた[76]。
アーセナルは1部リーグにおいて歴史上屈指の成績を残しており、14位以下に終わったのはわずか7回のみである。1部リーグ通算勝利数はイングランドで2番目に多く、勝ち点(1勝2点で計算した場合、現行の勝ち点制で計算した場合[77]のいずれでも)も2番目に多い。1部リーグに連続して在籍したシーズン数は最多であり、2023-24シーズン時点で98シーズン連続を記録している[78]。また、20世紀を通じての平均リーグ順位は8.5位で、これも最も高い。
アーセナルは、リーグ戦における最長無敗記録(2003年5月から2004年10月までの49試合)を保持している。この記録には、リーグ優勝を果たした2003-04シーズンの全38試合が含まれており、このときアーセナルは、1888-89シーズンのプレストン・ノースエンド(22試合のみ)に次いで、1部リーグのシーズンを無敗で終えた史上2クラブ目となった[79]。1部リーグにおける最長連勝記録も保持している。さらに2005-06シーズンには、チャンピオンズリーグで10試合連続無失点という記録を打ち立て、それまでのACミランによる7試合の記録を更新した。この間、合計995分間にわたって相手の得点を許さなかったが、この連続記録は決勝でサミュエル・エトオが76分に同点ゴールを決めたことで途切れた[80]。
クラブの最多出場記録はデヴィッド・オレアリーが保持しており、1975年から1993年にかけてファーストチームで722試合に出場した。同じセンターハーフで元キャプテンのトニー・アダムスが669試合で2位につけている。ゴールキーパーとしての最多出場はデビッド・シーマンの564試合である[81]。クラブ最多得点記録はティエリ・アンリで、1999年から2012年にかけて全公式戦で228得点を記録しており[82]、2005年10月にイアン・ライトの185得点を上回った。ライトの記録は1997年9月以来のもので、彼は1939年にウインガーのクリフ・バスティンが記録して以来長らく続いていた178得点を更新していた。アンリはリーグ戦での得点記録もクラブ最多の175得点を保持しており[82]、こちらも2006年2月までバスティンが保持していた記録だった。クラブ最高額移籍金記録はデクラン・ライスで、2023年7月にウェストハム・ユナイテッドとの間でまとまったもので、金額は1億ポンドでこれはニコラ・ペペの7200万ポンドという従来の記録を大きく上回った。
クラブのホームゲーム最多観客動員数は、1998年11月25日にウェンブリーで行われたランスとのチャンピオンズリーグの試合における73,707人である。これは、ハイベリーの収容人数に限りがあったため、当時アーセナルが欧州の試合をウェンブリーで行っていたことによる。ハイベリーでのアーセナルの試合における最多観客動員数は、1935年3月9日のサンダーランド戦(0-0)の73,295人であり[81]、エミレーツ・スタジアムでは2007年11月3日のマンチェスター・ユナイテッド戦(2-2)の60,161人である[83]。
スタジアム

フットボールリーグに加盟する以前、アーセナルは短期間プラムステッド・コモンでプレーし、その後プラムステッドのメイナー・グラウンド、さらに1890年から1893年までの3年間は近隣のインヴィクタ・グラウンドを本拠地とした。1893年にフットボールリーグへ加盟するとメイナー・グラウンドへ戻り、それまで単なる競技用地であった同地にスタンドとテラス席を設けて整備した。アーセナルは1913年にロンドン北部へ移転するまでの20年間(1894-95シーズンの2試合を除く)、ここを本拠地として使用し続けた[84][85]。
「ハイバリー」の通称で広く知られたアーセナル・スタジアムは、1913年9月から2006年5月まで本拠地であった。当初のスタジアムは著名なフットボール建築家アーチボルド・リーチによる設計で、屋根付きの単一スタンドと3面の屋外テラス席という、当時のイギリスの多くのフットボール競技場に共通する構造を備えていた。スタジアムは1930年代に大規模な改修を受け、アール・デコ様式の西スタンドと東スタンドがそれぞれ1932年と1936年に完成し、ノース・バンクのテラス席には屋根が設けられた。このノース・バンクは第二次世界大戦中に空襲で被害を受け、1954年まで修復されなかった。

ハイバリーは最盛期には6万人以上を収容でき、1990年代初頭までは収容人数5万7000人であった。テイラー・レポートとプレミアリーグの規定により、アーセナルは1993-94シーズンに間に合わせる形でハイバリーを全席着席式スタジアムへ改修する義務を負い、これによって収容人数は3万8419人(着席)にまで減少した[86]。UEFAチャンピオンズリーグの試合では追加の広告ボードを設置するために収容人数をさらに減らさざるを得ず、その影響で1998年から2000年までの2シーズンは、7万人以上を収容できるウェンブリーでチャンピオンズリーグのホームゲームを行った[87]。


ハイバリーの拡張は、東スタンドがグレードII指定建造物に指定されていたうえ、他の3つのスタンドも住宅街に近接していたため制限されていた。こうした制約により、クラブは1990年代から21世紀最初の10年間にかけて試合日収益を最大化することができず、当時のフットボール界の隆盛から取り残される危険に直面していた[88]。さまざまな選択肢を検討した結果、アーセナルは2000年にハイバリーの南西約500メートルに位置するアシュバートン・グローブへ、収容人数6万361人の新スタジアム(後のエミレーツ・スタジアム)を建設する計画を発表した[89]。この計画は当初、煩雑な行政手続きと建設費の高騰によって遅延したが[90]、2006-07シーズンの開幕に間に合う2006年7月に建設が完了した[91]。このスタジアムは命名権を取得した航空会社エミレーツ航空にちなんで名付けられ、クラブは同社とイングランドサッカー史上最大規模となる約1億ポンドのスポンサー契約を結んだ[92]。一部のファンは、スタジアム名への企業スポンサーの介入に賛同しなかったため、この競技場を「アシュバートン・グローブ」あるいは「グローブ」と呼んだ[93]。スタジアムは少なくとも2028年まで「エミレーツ・スタジアム」として公式に呼称され、また同航空会社は少なくとも2024年までクラブのシャツスポンサーを務める[94][95]。2010-11シーズンの開幕以降、スタジアムのスタンドはそれぞれノース・バンク、イースト・スタンド、ウェスト・スタンド、クロック・エンドと公式に呼称されている[96]。エミレーツ・スタジアムの現在の収容人数は6万704人である[97]。なお、使用されなくなったハイベリーの跡地にはスタンドの一部を残して高級アパートが建設された。2007年から夏にエミレーツ・カップと呼ばれるプレシーズントーナメントが開催されている。2日間で行われる。UEFAチャンピオンズリーグなど、UEFA主催試合の場合はUEFAの規定によりアーセナル・スタジアムの名称になる。アーセナルの歴代使用スタジアムは以下の通りである。
アーセナルの選手は、ハートフォードシャーにあるソブハ・リアルティ・トレーニング・センター(または単にロンドン・コルニーと呼ばれる)で練習を行う。これは1999年に開設された専用施設である[98]。それ以前は、近隣にあるロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ学生自治会が所有する施設を使用していた。1961年まではハイバリーで練習していた[99]。アーセナルのアカデミーU-18チームはシェンリーでホームゲームを行い、リザーブチームはボアハム・ウッドの本拠地でもあるメドウ・パークで試合を行う[100]。アカデミーU-18チームとリザーブチームは、大一番の試合をウェスト・スタンド下層のみに観客を限定したエミレーツ・スタジアムで行うこともある[101][102]。
- 1885年8月1日 - 1887年7月31日:プラムステッド・コモン
- 1887年8月1日 - 1888年7月31日:スポーツマン・グラウンド
- 1888年8月1日 - 1890年7月31日:メイナー・グラウンド
- 1890年8月1日 - 1893年7月31日:インビクタ・グラウンド
- 1893年8月1日 - 1913年7月31日:メイナー・グラウンド
- 1913年8月1日 - 2006年5月7日:ハイベリー
- 2006年7月22日 - エミレーツ・スタジアム
現所属メンバー
- プレミアリーグ 2025-2026シーズン 開幕フォーメーション(4-3-3)
- 2026年2月1日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はホーム・グロウン選手、☆は21歳以下の選手を示す。
- 監督
リザーブチーム
ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。