ヴァレリー・ロバノフスキー
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Valeri Vasilevich Lobanovsky
(旧
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| 名前 | ||||||
| 本名 |
ヴァレリー・ヴァシーリョヴィチ・ロバノフスキー Valeri Vasilevich Lobanovsky | |||||
| ラテン文字 | Vasilevich Lobanovsky | |||||
| ウクライナ語 | Валерій Васильович Лобановський | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
(旧 | |||||
| 生年月日 | 1939年1月6日 | |||||
| 出身地 |
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| 没年月日 | 2002年5月13日(63歳没) | |||||
| 身長 | 187cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | FW | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1957–1964 |
| 144 | (42) | |||
| 1965–1966 |
| 59 | (15) | |||
| 1967–1968 |
| 50 | (14) | |||
| 通算 | 253 | (71) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1960-1961 |
| 2 | (0) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1969–1973 |
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| 1973–1982 |
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| 1975–1976 |
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| 1979 |
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| 1982–1983 |
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| 1984–1990 |
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| 1986–1990 |
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| 1990–1993 |
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| 1994–1996 |
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| 1997–2002 |
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| 2000–2001 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
ヴァレリー・ロバノフスキー(Valeri Vasilevich Lobanovsky, 1939年1月6日 - 2002年5月13日)は、ソビエト連邦・ウクライナ・キーウ出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。ウクライナ語表記では:Валерій Васильович Лобановський であり、原語に近い読み方は「ヴァレーリイ・ヴァスィーリョヴィチュ・ロヴァノーウスィクィイ」。
ソビエト連邦スポーツマスター、ソビエト連邦功労コーチであり、UEFAルビー勲章(2002年)およびFIFA功労賞(FIFAが授与する最高栄誉)の受賞者。死後となる2002年、祖国における最高栄誉であるウクライナ英雄称号を授与された。
2008年、テレビ企画によるウクライナ全国規模の約250万人の投票の結果、「偉大なウクライナ人100人」の第6位にランクインしたように、死後もなおウクライナ国内での認知度は高い[1][2][3]。
ロバノフスキーは、サッカー史に残る成功した監督の一人である[4][5]。1975年にはディナモ・キーウを率いてUEFAカップウィナーズカップを制覇し、ソ連勢として史上初となる欧州主要タイトルの獲得を成し遂げた。同大会で見せた勝率88.88%(9試合8勝)という数字は、欧州主要クラブ大会における最高記録としてその後45年間にわたり保持された。
また、1986年にもディナモ・キーウを率いてカップウィナーズカップを制し、東欧クラブを率いて欧州主要タイトルを2度獲得した史上唯一の監督となった。なお同大会を同一チームで2度制したのはネレオ・ロッコと並び史上2人だけである。
国内においては、ソビエト・トップリーグ、ソビエトカップ、ソビエト・スーパーカップのすべてで史上最多優勝記録を保持しており、1997年から指揮を執ったウクライナ1部リーグで全5シーズン5連覇という、他の追随を許さない戦績を残した。2000年までに通算30個のタイトルを獲得しており、英サッカー専門誌『FourFourTwo』から「20世紀で最も成功したサッカー監督」と評されている[6][7][8]。
代表監督(ディナモ・キーウと兼任)としては、ほぼディナモ・キーウ出身者で固めたソ連代表を率い1976年モントリオールオリンピックで銅メダル、1988年UEFA欧州選手権でオランダに敗れたものの準優勝(英語版)[9]という結果を残した。
特筆すべき点は、チームスタッフに学術的専門家を加えるなど、世界で初めてサッカーにデータとサイエンスを融合させた先進的な指導方法にある。徹底したデータ管理のもと、偶然を排した「再現性の高い勝利」を理論的に追求した[10][11]。

さらに自国ウクライナからオレグ・ブロヒン、イーゴリ・ベラノフ、アンドリー・シェフチェンコという3人のバロンドール受賞者を育成・指導した功績も偉業である[12][13]。
選手経歴
ロバノフスキーは、キーウ第1サッカースクールおよびキーウ青少年サッカースクールの出身である。18歳時に当時ウクライナを代表するクラブであったディナモ・キーウのBチームに招集された。ソビエト・トップリーグでの初出場は、1959年5月29日のCSKAモスクワ戦であった[14]。
主に左ウイングとしてプレーし、1960年に13得点を挙げてクラブ内得点王となった。以降は正選手として定着し、ヴァレンティン・トロヤノフスキーとコンビを組んだ。1961年、ディナモ・キーウはモスクワ以外のクラブとして初めてソ連選手権を制し、ロバノフスキーもこのシーズン10得点を記録した。
代表チームにも定期的に招集されたが、当時のソ連にはミヘイル・メスヒ、アナトリー・イリイン、ガリムジャン・フサイノフなど有力な左ウイングが多数存在しており、代表での出場機会はオーストリア戦およびポーランド戦の2試合にとどまった。
ディナモ・キーウで7年間プレーした後、1964年にヴィクトル・マスロフ監督(英語版)(現代に通じる「欧州式ゾーンディフェンス」の生みの親とされる[15])との対立を理由に退団した[16]。その後はチョルノモレツ・オデッサおよびシャフタール・ドネツクで短期間プレーし、29歳で現役を引退した。ソビエト・トップリーグ通算成績は253試合71得点。内訳はディナモ・キーウで144試合42得点、チョルノモレツ・オデッサで59試合15得点、シャフタール・ドネツクで50試合14得点であった。
曲がるボールの使い手

ロバノフスキーは、コーナーキックやフリーキックから正確にカーブをかけたボールを蹴る技能で知られ、とりわけコーナーキックから直接ゴールを決める場面が注目を集めた[16][14]。これらのキックについてはマグヌス効果を意識し、自身の計算に基づいてトレーニング中に反復して練習していたとされる。ソビエト国内報道では1958年ワールドカップで同様のキックを多用したブラジル代表FWジジと比較された。身長187cmの長身ながら、型にはまらない発想やドリブル技術を持つ点がチームメイトから評価されていた。
指導者経歴
ドニプロ・ドニプロペトロウシク期(1968–1973)
現役引退の翌年である1968年10月16日、ロバノフスキーはFCドニプロ・ドニプロペトロウシクの監督に就任した。就任初年度、クラブはクラスAグループ2・グループ3(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国地区)に所属し、リーグ3位でシーズンを終えた。
1969年シーズンには同グループで優勝を果たし、リーグ決勝トーナメントに進出すると、最終的に準優勝となった。
1970年のリーグ再編により、ドニプロは新設されたクラスAグループ1(後のソビエト第一リーグ)に編入された。1971年シーズンには同リーグを制し、ソビエト・トップリーグへの昇格を達成した。
トップリーグ初参戦となったシーズンでは6位に入る健闘を見せ、銀メダル獲得まで勝ち点1差に迫る成績を残した。
ディナモ・キーウ(1973年–1982年)
1973年10月、ロバノフスキーはドニプロでの実績を評価され、選手時代を過ごしたディナモ・キーウの監督に就任した。1974年1月には元チームメイトのオレグ・バジレヴィチ(英語版)がコーチとして招聘され、両者は1976年10月まで共同でチームを指揮した。両者は対等な立場にあり、バジレヴィチが主に理論面を、ロバノフスキーがトレーニングプロセスを担当したとされる。
就任初年度、彼らの合理主義的な手法や、アウェイ戦では引き分けを狙う守備的戦術(いわゆる「アウェイモデル」)はソ連メディアから批判を受けたが、このシーズン、ディナモ・キーウはソビエト・トップリーグおよびソビエト・カップの二冠を達成した。
サッカーにデータとサイエンスを導入
ロバノフスキーとバジレヴィチは、選手の身体的負荷を定量的に管理することを重視していた。キーウ国立体育大学体育理論学科の研究者アナトリー・ゼレンツォフの協力を得て、ロバノフスキーはトレーニング過程の計算システムや、チーム全体の身体的負荷を数学的にモデル化する手法を導入した。ゼレンツォフは後に、ディナモ・キーウの付属研究機関として知られる通称「ゼレンツォフ・センター」の所長を務めた[10][11][16][17][18]。
トータルフットボールの構想
ロバノフスキーはフィールドプレーヤーであれば誰でもチーム内の他の役割を代替できるプレースタイルを構想したと評価されている。この点は、同時期にオランダでリヌス・ミケルスが実践していた手法と類似しているが、ロバノフスキーは特にプレッシングを重視し、科学的手法によって戦術を体系化した点に特徴があったとされる[19]。
初の欧州タイトル

1975年、ディナモ・キーウはUEFAカップウィナーズカップおよび同年のUEFAスーパーカップを制し、ソ連クラブとして初めて欧州主要タイトルを獲得した。カップウィナーズカップでは、CSKAソフィア、アイントラハト・フランクフルト、ブルサスポルをいずれも2戦合計で下し、準決勝ではエールディヴィジ王者PSVアイントホーフェンと対戦した。第1戦(キーウ)を3-0で制し、第2戦(アイントホーフェン)では1-2で敗れたものの、2戦合計で決勝進出を決めた。1975年5月14日の決勝ではフェレンツヴァーロシュを3-0で破り、同大会初優勝を果たした。この大会でディナモ・キーウは9試合中8勝を記録し、優勝クラブとしては極めて高い勝率を残した。
同年秋に行われたUEFAスーパーカップでは、当時欧州チャンピオンズカップを連覇していたバイエルン・ミュンヘンと対戦した。第1戦(ミュンヘン)を1-0、第2戦(キーウ)を2-0で制し、2戦合計3-0で優勝した。両試合の全得点は、同年にバロンドールを受賞するオレグ・ブロヒンが記録した[20][21]。これらの功績により、ロバノフスキーとバジレヴィチは「BBCワールド・スポーツ・コーチ・オブ・ザ・イヤー」(英語版)に選出された[22][23]。
ソビエト連邦代表(1975年–1976年)
緊急登板も五輪銅メダル獲得
1975年、ロバノフスキーとバジレヴィチはソビエト連邦代表監督に任命された。これは、同代表がUEFA欧州選手権予選の初戦でアイルランド代表に0-3で敗れた直後であった。以降、ディナモ・キーウはソ連代表チームの実質的な母体となった。代表監督としてロバノフスキーは国内リーグの秋春制移行を提案したが、ソビエト・サッカー連盟は1976年シーズンを春季・秋季の2期制で実施した。
1976年シーズン前、欧州カップ戦、欧州選手権予選、1976年モントリオール五輪への準備を理由に、モスクワ当局からフィットネスコーチの起用が指示された。これにより高地合宿を含むフィットネストレーニングが実施されたが、負荷調整に問題が生じ、多くの選手が過度な身体的負担を訴えたとされる[24]。

クラブ(ディナモ・キーウ)はBチームで春季リーグを戦い、トップチームは国際大会への準備に集中した。欧州カップでは準々決勝でASサンテティエンヌに敗退した。代表チームは欧州選手権予選を突破したものの、プレーオフでチェコスロバキア代表に敗れ本大会出場を逃した。その後モントリオール五輪で銅メダルを獲得した後、ロバノフスキーとバジレヴィチは代表監督を退任した。
ディナモ・キーウ(1976年)
チャンピオンズカップで欧州最強チームを撃破

1976年夏、ディナモ・キーウでは選手と指導陣の対立が表面化し、その結果、オレグ・バジレヴィチがチームを離脱した。1977年、ディナモ・キーウはソビエト選手権で30試合でわずか1敗という成績で優勝を果たし、同時にUEFA欧州チャンピオンズカップでも準決勝へ進出した。準々決勝までの全試合を全勝で通過したディナモは、過去2シーズンにわたって欧州制覇を続けていたバイエルン・ミュンヘンと対戦した。第1戦(ミュンヘン)を0-1で落としたものの、ホームの第2戦では後半83分と88分に2点を挙げ、逆転で準決勝進出を決めた。この結果はバイエルンの欧州大会連続優勝をストップさせる金星となったが、次の準決勝でディナモはボルシア・メンヒェングラートバッハに敗れ、決勝進出を逃した。
ディナモ・キーウ(1978年–1982年)
1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ディナモ・キーウは主力選手の世代交代期を迎えていた。1978年および1979年はそれぞれ2位、3位に終わったものの、1980年と1981年にはソビエト選手権を連覇した。
ロバノフスキーはチームを1981-82シーズンのUEFA欧州チャンピオンズカップ、および1982-83シーズンのUEFA欧州チャンピオンズカップで連続してディナモを準々決勝へと導いたが、ともに優勝チーム(アストン・ヴィラ、ハンブルガーSV)との対戦に破れた。
1982年末にロバノフスキーはディナモ・キーウを離れ、ソビエト連邦代表監督に復帰した。
ソビエト連邦代表(1982年–1983年)
ロバノフスキーはソ連代表監督としてUEFA欧州選手権予選期間中に指揮を執ったが、最終節のポルトガル代表戦(リスボン)で敗北を喫し、勝ち点差1及ばず予選突破を逃した。この試合はペナルティエリア外での反則にもかかわらずPKが与えられ、これが決勝点となった。結果を受けロバノフスキーは再び代表監督を解任された。
ディナモ・キーウ復帰(1984年–1986年)
ソ連代表を解任されたロバノフスキーは、約1年の空白期間を経てディナモ・キーウの監督に復帰した。1983年シーズンにユーリー・モロゾフが率いたディナモはリーグ7位に終わり、1976年春(主にBチームがリーグ戦を戦ったシーズン)以来の低迷となっていた。ロバノフスキー復帰時のチームは主力選手の負傷が相次ぐなど戦力が不安定であり、1984年シーズンは10位に終わった。この結果、ディナモは14年ぶりにUEFA大会出場権を逃した。
ロバノフスキーは戦術およびトレーニング体制の再構築を進めチームの信頼性を回復させた。1985年シーズン、ディナモ・キーウは好調なスタートを切り、最終的に国内リーグと国内カップの二冠を達成した。このシーズンでは、最大のライバルとされるスパルタク・モスクワにも2度勝利を収めるシーズンダブルを達成した。
二度目の欧州タイトル
1986年、ディナモ・キーウはクラブ史上2度目となるUEFAカップウィナーズカップを制覇した。大会初戦ではFCユトレヒトに敗れたものの、その後は無敗で勝ち進み、最終的に6勝2分(得失点差25–6)の成績を記録した。ロバノフスキー率いるチームはベラノフ、ブロヒン、アレクサンドル・ザバロフの3選手がそれぞれ5得点を記録し(英語版)、決勝を含むホームゲーム全試合を3点差以上で制するなど圧倒的な得点力を示した。準々決勝では前回大会準優勝のラピード・ウィーンを2戦合計9–2で下し、準決勝ではデュクラ・プラハを2戦合計4-1で下して、決勝へ進出。決勝ではルイス・アラゴネスが指揮するアトレティコ・マドリードを3–0で下し優勝を果たした。
この大会におけるディナモ・キーウのパフォーマンスは、ソ連および欧州のメディアから高い評価を受けた[25][26]。同クラブのプレースタイルは一部のメディア関係者によって「21世紀のサッカー」や「別次元のチーム」と形容された[26]。
再びディナモ・キーウとソビエト連邦代表を兼任(1986年–1990年)
ソ連代表、1986ワールドカップ優勝候補ながらも敗退

カップウィナーズカップ制覇を受け、ロバノフスキーは1986年、3度目となるソビエト連邦代表監督に任命された。就任はワールドカップ直前であり、代表チームの主力はほぼディナモ・キーウ所属選手で構成されていた。大会のグループステージでは、ハンガリー代表に6-0で勝利し、欧州王者フランス代表とは1-1で引き分け、初出場のカナダ代表戦では控え中心のメンバーで2-0の勝利を収め、グループ首位で決勝トーナメントへ進出した。この結果からソ連代表は優勝候補の一角と見なされていた。しかし決勝トーナメント1回戦でベルギー代表と対戦し、延長戦の末に敗退した。この試合では判定を巡って議論を呼ぶ失点が複数あったとされている[27][28]。
1985-1986年シーズンのディナモ・キーウはソビエト・トップリーグで12度目の優勝を果たした(ロバノフスキー体制下では7度目)。同年、イーゴリ・ベラノフがバロンドールを受賞し、同クラブから同賞を受賞した2人目の選手となった[29][30]。ザバロフも同年の投票で上位に名を連ね、1975年と同様にディナモ・キーウの選手が投票全体で最多得点を獲得した。
1987年、ディナモ・キーウはUEFA欧州チャンピオンズカップ準々決勝でベシクタシュを2戦合計7-0で下し、UEFA主要クラブ大会における無敗記録を14試合まで伸ばした。これは当時の大会記録である(大会は準決勝敗退に終わる)。国内リーグ戦では6位に終わったものの、ソビエトカップおよび伝統あるソ連ダイナモ大会で優勝した。
一方、ソ連代表チームはUEFA欧州選手権1988予選において、東ドイツ代表と前回優勝国フランス代表とグループ同組になりながら首位通過している。特にアウェイのパリにおけるフランス代表と対戦して2-0の勝利は高く評価された。
ソ連代表、1988欧州選手権で準優勝

1988年UEFA欧州選手権では、ソビエト連邦代表は準優勝を果たした。大会を通じて、先発メンバーの少なくとも7人がディナモ・キーウ所属選手であり、交代選手を含めると常時8人以上の同クラブ選手が出場していた(当時の交代枠は2名まで)。グループステージではオランダ代表とイングランド代表に勝利し、アイルランド代表と引き分けて突破。準決勝ではヘナディ・リトフチェンコ(英語版)とオレグ・プロタソフ(いずれもディナモ・キーウ所属)が得点してイタリア代表を下した[31]。決勝はオランダ代表との再戦となったが0-2で敗れた。マルコ・ファン・バステンによる決勝ゴールは、後に欧州選手権史上屈指のゴールの一つとして評価されている[32][33][34][35][36]。
この年からソ連国内で始まったペレストロイカ以降、ロバノフスキーの下でプレーしていた主力選手の多くが国外移籍を果たし、西ヨーロッパのクラブへと移籍していった。3大会連続出場となった1990年FIFAワールドカップでは、主力選手を十分に招集できずソ連代表はグループ最下位に終わった。この年はロバノフスキーにとってソ連において指導者として活動した最後の年でもあった。
ディナモ13回目のリーグ優勝後、国を離れる
一方、世代交代期にあったディナモ・キーウは国内リーグとカップの二冠を達成し、クラブ史上13度目のリーグ優勝を果たした。カップ決勝ではロコモティフ・モスクワを6-1で破った。そして1990年秋、ロバノフスキーはアラブ首長国連邦からの高額なオファーを受け、ソビエト連邦を離れた。
中東(1990年–1996年)
1990年9月、ロバノフスキーはソビエト連邦を離れ、アラブ首長国連邦(UAE)代表監督に就任した。これは同国サッカー連盟からの高額なオファーを受けたことによるものであった。在任期間中、アラブ首長国連邦代表は1992年のAFCアジアカップで4位となり、3位決定戦では韓国にPK戦の末に敗れたものの、当時としてはUAE代表史上最高の成績を収めた[37][38]。
その後、エミレーツサッカー連盟との関係悪化を理由に同国を離れ、ロバノフスキーは1994年から1996年までクウェート代表監督を務めた。ロバノフスキーの指揮の下、クウェート代表は1994年のアジア競技大会で銅メダルを獲得した。さらに1996年ガルフカップでも優勝した[14]。
1996年11月、ロバノフスキーはディナモ・キーウへの監督復帰に合意し、中東を離れた。
第3期 ディナモ・キーウ監督時代(1997年–2002年)
7年の雌伏を経て
1997年1月、ロバノフスキーは3度目となるディナモ・キーウ監督に復帰した。当時のクラブは国内では安定した成績を維持していた一方、欧州では存在感を失いつつあり、過去5年間でUEFAチャンピオンズリーグ本大会出場は2度にとどまっていた。(直近の欧州大会は、UEFAチャンピオンズリーグでは1回戦・予選でラピード・ウィーンに大敗した後、UEFAカップ1回戦でヌーシャテル・ザマックスに敗れるまでに低迷。)
だがロバノフスキーの復帰から1か月足らずで、ディナモは1997年CISカップ決勝で最大のライバルであるスパルタク・モスクワを下して優勝。1996-97シーズンのウクライナ・プレミアリーグでは、2位シャフタール・ドネツクに11ポイント差をつけて優勝し復活の兆しを見せた。
1997-98シーズン、1998-99シーズン、シェフチェンコを擁して欧州を席巻
翌1997-98シーズン、UEFAチャンピオンズリーグの予選でブレンビーを4-3で破り、本大会グループステージに進出。FCバルセロナ、ニューカッスル・ユナイテッド、PSVアイントホーフェンと同組となり、このグループCは大会屈指の「死の組」と評された[39]。ディナモはPSVとのアウェー戦を3-1で制し、ニューカッスルと引き分け、ホームで優勝候補と目されていたバルセロナを3-0で破った[40][41][42][43]。さらに2週間後の再戦では、当時リーガ・エスパニョーラ首位を走っていたバルセロナをカンプ・ノウで4-0と圧倒し、アンドリー・シェフチェンコは前半のみでハットトリックを記録した[44][45][46][47]。その後PSVと引き分け、グループ首位で決勝トーナメントに進出した。準々決勝ではユヴェントスと対戦し、アウェーで引き分けたもののホームで1-4と敗退しベスト8止まり。国内ではリーグ優勝とウクライナ・カップを制し、二冠を達成した。
1998-99シーズン、ディナモはUEFAチャンピオンズリーグ予選でバリー・タウンを合計9-1で下した後、スパルタ・プラハと対戦し、PK戦の末に本大会出場を決めた。グループステージではアーセナル、RCランス、パナシナイコスと同組となった。開幕戦でパナシナイコスに敗れ、続くランス戦は引き分けに終わったが、ウェンブリー・スタジアムでのアーセナル戦では1-1で引き分けた[48]。この試合では、シェフチェンコのゴールがオフサイドで取り消されたが、後の映像検証では正当な得点であったとされている(youtubeでのタイトル検索: Арсенал - Динамо Киев. ЛЧ-1998/99 (1-1) )。ホームでの再戦では、セルゲイ・レブロフ、オレクサンドル・ホロフコ、シェフチェンコの得点によりアーセナルを3-1で下した[49]。その後、パナシナイコスを破り[50]、最終節でランスに3-1で勝利[51]。グループ首位で準々決勝進出を果たした。
準々決勝では前回優勝のレアル・マドリードと対戦。アウェーで1-1と引き分けた[52]後、ホームで2-0の勝利を収め、2戦での3得点は全てシェフチェンコによるゴールであった[53][54]。これによりディナモはチャンピオンズリーグ準決勝に進出したが、欧州主要リーグ(五大リーグおよびポルトガル、オランダ)以外のクラブとして、この段階に到達した数少ない例となった。
準決勝ではバイエルン・ミュンヘンと対戦。第1戦では後半途中まで3-1とリードしながら追いつかれ、3-3で引き分けた[55][56]。第2戦を1-0で落とし、決勝進出はならなかった[54]。しかしこの大会でシェフチェンコは得点王(8得点)となり[57]、UEFAクラブ・フットボール・アワード最優秀フォワード賞を受賞。1999年のバロンドール投票では3位に選出された。
1999年夏、シェフチェンコはACミランへ移籍し、主将のオレグ・ルジニーもアーセナルへ移籍した。ディナモは国内二冠を3シーズン連続で達成したが、チャンピオンズリーグでは第2グループステージで敗退。第1グループステージを2位で通過したものの、次のラウンドではバイエルン・ミュンヘンとレアル・マドリードに次ぐ3位に終わった。
その後、ディナモ・キーウのセカンドストライカーであったセルゲイ・レブロフはトッテナム・ホットスパーへ移籍し、カハ・カラーゼもACミランに引き抜かれた。主力選手の流出が相次いだことで、世代交代期にあったディナモ・キーウは戦力低下を余儀なくされ、以降2シーズン連続でチャンピオンズリーグのグループステージ突破を果たせなかった。
ウクライナ代表監督を兼任(2000年–2001年)
2000年3月、ロバノフスキーはウクライナ代表監督に就任し、再びディナモ・キーウと代表チームを兼任する体制となった。
前任者ヨージェフ・サボの下では、代表チームの大半がディナモ・キーウ所属選手で構成されていたが、ロバノフスキーは方針を一転して他クラブ所属選手を幅広く積極的に招集した。在任中にアナトリー・ティモシュチュクおよびアンドリー・ヴォロベイ(シャフタール・ドネツク)、ドミトロ・パルフェノフおよびマクシム・カリニチェンコ(スパルタク・モスクワ)、アレクサンドル・スピヴァク(ゼニト・サンクトペテルブルク)、ヴォロディミール・イェゼルスキ(ドニプロ)、アンドリー・ヴォロニン(マインツ)らが代表デビュー、あるいは初のスターティングメンバー入りを果たした。
しかし2001年11月14日、2002 FIFAワールドカップ予選プレーオフでドイツ代表に敗れた後、代表監督を退任した。
ロバノフスキーの死後、これら非ディナモ出身の新世代の選手は、ディナモ・キーウ組(シェフチェンコ、レブロフ、フシン、ヴァシュク、ショフコフスキー)とともにウクライナ代表の中核を形成し、2006 FIFAワールドカップで準々決勝進出と躍進する。同2006年大会はウクライナ代表にとってワールドカップ本大会初出場にして(2026年時点では)唯一の本大会出場である。なおこのチームを率いた監督はオレグ・ブロヒン(ディナモ・キーウ、ソビエト連邦代表の選手として13年間ロバノフスキーの指導を受けた)である。
最後のタイトル獲得
ロバノフスキーがクラブ監督として最後に獲得したタイトルは2002年1月のCISカップである。これは同大会4度目の優勝であった。この大会では1998年以来初めてディナモ・キーウのAチームで参加し、決勝でスパルタク・モスクワを4-3で下すなど、全試合勝利と圧倒した。
死去と追悼
ロバノフスキーは1988年に最初の心臓発作を起こして以降、慢性的な健康問題を抱えていた。1996年に中東から帰国した時点で、その体調は明らかに悪化していたと報じられている。2001年秋には二度目の心臓発作を発症し、外科手術を受けた。同年には高血圧を理由に航空機への搭乗を禁じられ、ディナモ・キーウのUEFAチャンピオンズリーグにおける全アウェー戦を欠場していた[58][59]。
2002年5月7日、ウクライナリーグのディナモ・キーウ対FCメタルルフ・ザポリージャ戦の試合中に失神し、脳卒中と診断されて入院した。緊急の脳手術が行われたものの容体は危篤とされた。健康状態を継続的に取材していた報道機関は、回復の可能性が残されているとしつつもロバノフスキーは意識を回復していないと伝えていた。同年5月13日午後8時35分、心停止が確認された[60][61]。
その死から2日後、グラスゴーで開催されたUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦において、UEFAはロバノフスキーを追悼し、試合前に1分間の黙祷を捧げた[62]。

2002年5月14日に行われた葬儀には、ウクライナ大統領レオニード・クチマ、首相アナトリー・キナフをはじめとする政界関係者のほか、シェフチェンコはじめ、ブロヒン、ベラノフ、ザバロフ、レブロフら、かつて指導を受けた多くの選手が参列した。参列者数は6万人から15万人に達したとされている[59]。
ロバノフスキーはキーウのバイコヴェ墓地に埋葬された。墓所には列柱を備えた記念碑が建てられ、墓石にはロシア語で「我々は記憶される限り生き続ける」(原文:Мы живы до тех пор, пока нас помнят)と刻まれている[63][64]。
この死を悼み、この年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝では黙祷を捧げられた。またディナモのホームスタジアムは故人を偲んでロバノフスキー・ディナモスタジアムに改名された。
指導哲学
トータルフットボール
ロバノフスキーは同時期に西欧で活動したリヌス・ミケルスと並んで、「トータルフットボール」の創始者であるとする評価もある[65]。ロバノフスキーはトータルフットボールを「金鉱脈」と呼び、今後何年も活用される戦術となるだろうと述べている[66]。ロバノフスキーによれば、サッカーにおける「革命的プロセス」は1974年のトータルフットボールの発見をもって終焉を迎えており、現代サッカーはピッチ上の全選手が攻守両面で同等かつ効果的にプレーできなければならない。
ロバノフスキー「今我々が論じるのは、いわば『賢明な万能化』(マルチロール、ポリバレント)だ。それはどういう意味か?例えば、ストライカーのアンドリー・シェフチェンコに右サイドバックでプレーさせたいとは思わない。だがもし彼がそのエリアに入ったなら右サイドバックでプレーできる能力が求められる。将来、サッカーは『賢明な万能化』から、完全に万能化した選手によるスポーツへと徐々に移行していくだろう[66]。」
サッカーを22要素に分解
ロバノフスキーにとってサッカーはゲームではなく科学であった[58]。サッカーの試合を22の要素からなるシステムと捉え、それぞれ11の要素で構成される二つのサブシステムに分割した。2つのサブシステムが均衡すれば試合は引き分けに終わる。彼が最も興味深く重要と考えたニュアンスは、「サブシステムの効率性」は常に「個々の要素の効率性の総和」を上回るという点であった[67]。
ロバノフスキーはトレーニングプロセスを構造化し、ピッチ上で起きる現象を前もって切り取り練習すべきだと主張した。彼によれば、チームの連携という概念は時代遅れである——出場する各選手はピッチに出て、その瞬間に必要なことをただ実行する。その実行方法は「選手の技術、トレーニング、自己表現能力」に依存する。しかし、試合の構造や戦術そのものは、その特定の瞬間に誰が実行者となるかによって損なわれるべきではない[68]。
科学的トレーニング・未来のサッカー
ロバノフスキーは、科学的・分析的なアプローチ、身体能力、食事管理を重視する視点をサッカーに導入した功績で知られる。1970年代当時、多くのサッカー指導者が経験則や反復練習によって基本的能力の向上を図っていたのに対し、ロバノフスキーはサッカーを計測・分析・設計可能な対象として捉え、体系的に管理しようとした。その先進性から、彼はサッカーに初めて本格的に「科学」を導入した人物の一人と評価され、メディアからは「時代を先取りした指導者」とも評された[69]。
ロバノフスキーは、キーウ国立体育大学体育理論学科の科学者アナトリー・ゼレンツォフと協力関係を築き、精密なシステム計算に基づくトレーニングプロセスと、選手にかかる身体的負荷の数学的モデリングを導入した[13][70][18]。ゼレンツォフは、サッカーを「機能の集合体」として捉え、試合やトレーニングにおける行動を事前にモデル化・プログラム化する理論を構築した。ゼレンツォフは、「機能(function)が第一であり、戦術は二次的である」と述べており、選手やチームの本質的能力と行動を結び付ける「プログラム」を、単なる戦術プラン以上に重視した。このプログラムは単なる計画(plan)にとどまらず、選手個々の能力・特性を組み込む構造であり、行動を強化するものである、と説明している[70]。これにより、ディナモ・キーウにおいて戦術は場当たり的に選択されるものではなく、あらかじめ設計されたモデルの中で合理的に実行されるものと位置づけられた。
ディナモ・キーウでは、選手個々の潜在能力や機能的準備状態が数値化され、データベースとして蓄積された。これらのデータは、トレーニング設計、選手起用、試合後の評価に活用され、指導者は感覚や印象ではなく、科学的根拠に基づく判断を行うことが可能となった。ゼレンツォフの分析は極めて緻密であると評価され、彼は試合中に自チームが犯す重大なミスの割合が18%を超えなければ敗北しないと主張していた[10][16][17]。
また、ディナモ・キーウでは、試合中のプレーを「テクニコ・タクティカル・ディスアクション(TTD)」として定量的に記録・分析する手法が採用された。パス、ボール奪取、シュートなどの個別行動が長期的に蓄積され、チームおよび選手のパフォーマンス評価の基盤となった。これらの分析結果は現場で尊重され、トレーニング内容や戦術的修正に直接反映された[18]。
このような科学的アプローチの結果、ロバノフスキーのチームは高い身体的コンディションを維持しつつ、戦術的アイデアを正確に遂行し、特定の動作をほぼ自動的なレベルで実行できる集団として評価された。その完成度の高さから、当時のサッカー界ではディナモ・キーウのスタイルは「未来のサッカー」と評された[71]。
さらに、ディナモ・キーウで確立された分析手法やトレーニング管理の考え方は国外にも影響を与え、後にACミランの分析・研究体制(いわゆるMilan Lab)の構築に際して参照されたことが証言されている[18]。ロバノフスキーとゼレンツォフが導入したサイエンスは、現代サッカーにおけるデータ分析と科学的トレーニングの先駆的事例として位置づけられている。
人心掌握術
ロバノフスキーと共に働いた人々は、彼を偉大な心理学者と評している[72]。ロバノフスキーはインタビューで「指導者は常に、自分が人間と仕事をしていることを忘れてはならない。その人間こそが今の指導者を形作っているのだ。そして人間はロボットとは異なり、非常に傷つきやすく、時に頑固な魂を持っている」と語ったことがある。「各選手の性格や特性を理解することは極めて重要だ。ある選手には厳しく、別の選手には寛容になれるが、そのためには彼らの性格を知らなければならない。各選手が最大限の成果を発揮できるよう、どのボタンを押すべきかを知らなければならない」と述べた[73][74]。
70年代にディナモ・キーウでプレーしたステファン・レシュコ(英語版)はこう語っている。「ロバノフスキーは一流の心理学者だった。彼は指導した選手から絶対的な最高の力を引き出す能力を持っていた」[72]。
80年代にロバノフスキーに指導を受けたアナトリー・デミャネンコ(英語版)は彼を「偉大な心理学者だった。各選手とどうコミュニケーションを取るかを知っていた。いつ、誰に声を荒げるべきか、あるいは何も言うべきでないかを理解していた」と評した[75]。
90年代後半から2000年代初頭にかけてロバノフスキーと働いたヴァシリー・カルダシュ(英語版)は「ロバノフスキーは優れた心理学者だった。特定の選手を単なるサッカー選手としてではなく、人間として理解する能力が彼を偉大な指導者の一人にした要因の一つだ」と語った[76]。[87]
アンドリー・シェフチェンコはロバノフスキーを人生における「父のような存在」と頻繁に表現し[77]、彼が成功への「鍵を授けてくれた」と主張している。「ロバノフスキーはめったに声を荒げなかった。怒鳴ることもなければ、誰かと『問題を解決しよう』と試みることもなかった。彼は周囲の全員から尊敬され、称賛されていた」と語っている[78]。
またインドで最も成功したサッカー指導者であるアルマンド・コラコ(英語版)は、ロバノフスキーがディナモ・キーウで示した指導スタイルに多大な影響を受けたと語っている[79]。
その他にも、ロバノフスキーは指導者として常に成長し続けた点を多くの関係者が高く評価している。彼の有名な言葉の一つに「指導者は生涯学び続けねばならない。頑固になり、学びをやめたなら、それはコーチをやめたことを意味する」[73][80]というものがある。現代のトレンドといくつも重なる先進的な指導能力は、70年代、80年代、90年代と3つの異なる年代にわたり、3つの偉大なサッカーチームを築き上げた理由の一つと評されている[81][82]。
戦術
「システムは成功を保証しないが、その場しのぎよりもはるかに成功の可能性を高める」がロバノフスキーのサッカー観である[13]。チームはすべて綿密にプランニングされ、チームの準備は三段階に分けられた。選手には個別の技術指導が行われ、試合中にロバノフスキーが課す任務をより効果的に遂行できるよう準備された。対戦相手に応じ、各選手向けの具体的な戦術と任務が策定され、大会全体を見据えた戦略が練られた。これはチームが長期にわたり最高水準を維持することは不可能であることを認識し、それぞれの試合を大会の大きな文脈に位置づけるものだった[83]。
ロバノフスキーとゼレンツォフは著書『トレーニングモデル発展の方法論的基礎』でこう記している。
「我々がまず念頭に置くのは、我々のプレースタイルに相手が適応できない状況を追求することだ。相手が我々のスタイルに順応し対抗策を見出したなら、また新たな戦略を見出す必要がある。それが試合の弁証法である。相手をミスに追い込むような前進方法と攻撃オプションの幅を持たねばならない。言い換えれば、我々が望む状態に相手を追い込む必要がある。その最も重要な手段の一つが、プレーエリアの大きさを変化させることだ。」
核心となる部分は以下の1点である。
自チームがボールを保持している間は好ましいプレーエリアを可能な限り広く保ち、相手がボールを持っている間は可能な限り狭くすること[83]。
ロバノフスキーとゼレンツォフは著書において、1977年の欧州カップ準決勝におけるバイエルン・ミュンヘン戦を、特定の試合に向けた準備の例として挙げている。
「試合は我々のオフェンスを中心に展開され、必然的に相手チームを封じ込めた。その狙いはバイエルンからプレーするスペースを奪い、特に強力なサイド攻撃を防ぐことにあった」と彼らは記している。目標は引き分けだったが結局1-0で敗れた。キーフでの試合では、相手陣内でプレーを圧縮してボールを奪い合い、様々なエリアで数的優位を創出する戦術モデルを選択した。結果的に2-0で勝利した[83]。
ロバノフスキーが好んだフォーメーションは4-1-3-2である。彼の指揮するチームは常に2人のストライカーの才能を活用し、1975年にはオレグ・ブロヒンとヴォロディミル・オニシェンコ、1986年にはオレグ・ブロヒンまたはオレグ・プロタソフとイーゴリ・ベラノフ、1999年にはアンドリー・シェフチェンコとセルゲイ・レブロフを起用した。
ロバノフスキーのフォワード陣は極めて多才で、サイドへの展開、プレイメーカーとしての攻撃の組み立て、守備陣形における中盤への参加、さらには相手のプレッシャー時にはサイドバックを助けるため下がることも可能だった[84][85]。このフォワードの多才さが相手の守備陣を混乱させ、後方から攻撃する選手のためのスペースを生み出す鍵となった。
プレッシングはロバノフスキーのチームにおける重要な要素であった。プレスの主な目的は、ボールのある場所で自チーム選手に数的優位な状況を作り出し、相手チームが適切に判断するスペースと時間を与えず、常に自チームのペースで試合を進めさせることにあった。
ディナモ・キーウの代名詞であるカウンター攻撃は、中盤で自チーム選手がボールを奪取すると同時に、即座に前線およびオーバーラップするサイドバックへ素早いロングボールを供給することで始まる。これにより守備組織が整わない相手を捉える。ロバノフスキーはボール奪取した直後の数秒間の重要性を常に強調していた。相手が組織的な守備組織を整えきれていないからだ。プレッシングはチーム一丸となって行うものであり、選手が前線へ上がる時は必ず他のチームメイトが空いたポジションをカバーした。これによりボールを失ってしまった場合に相手からのカウンター攻撃の脅威を最小限に抑えた。
ロバノフスキーは攻守両面でセットプレーに細心の注意を払った。ディナモ・キーウは相手の精度の高いシュートを阻止するために戦術的ファウルを用いて、ペナルティエリアのすぐ手前でファウルを犯すことが多かった。その狙いはオープン・プレーでのシュートより、フリーキックの方がゴールキーパーは防ぎやすいというロバノフスキーの考えがあった。
さらに、カウンター攻撃を防ぐためにも戦術的ファウルを用いた。ハーフウェイライン付近でファウルを犯せば、自チームの中盤の選手はボールの後ろまで後退して守備体制を整えられるからである。
攻撃面では、フリーキックからのショートパスを巧みに活用した。1990年代、ほとんどのチームはファウル後のフリーキックでロングボールを蹴りこみ素早く前線へボールを送るパターンを選んでいた。ディナモ・キーウは相手チームがこれに備えて守備を後退させることを認識していた。そのため逆にショートパスを選択すればボール保持者にプレッシャーがかからず落ち着いた攻撃が可能となる。1997年のバルセロナ戦(3-0勝利)でディナモが挙げた最初の2得点は、まさにこの状況から生まれた。
ロバノフスキー率いるチームが驚嘆すべき特質として、高い応答性と素早い反応速度があった。彼らは頻繁にテンポを上げ、試合の流れを遅くしようとする相手チームを逆手に取ることを狙っていた[86]。ディナモ・キーウが相手エリア付近でスローインを獲得すると、最も背の高いMF(アンドリー・フシン)が通常はペナルティエリア内に立ち、スローインを受けたらヘディングでストライカーにパスし、チャンスを創出していた。この戦術で2000年3月23日のUEFAチャンピオンズリーグ、バイエルン・ミュンヘン戦では2得点を挙げている。ラミズ・マメドフ(英語版)のスローインがフシンの頭部に直接渡り、フシンがペナルティスポット付近のゲオルギ・デメトラーゼにヘディングでボールを送り、デメトラーゼがオーバーヘッドでゴールを決めたのである[87]。(実際のゴール動画はyoutubeにて、タイトル名 2000 (March 22) Dinamo Kiev (Ukraine) 2-Bayern Munich (Germany) 0 (Champions League) にて確認できる)
1990年代後半のディナモのフォーメーションは、前線にレブロフとシェフチェンコを配置する2トップだったが、攻撃の原則は常に右・左・中央の3つのレーンを攻撃していた。フォーメーションや選手構成に関わらず、常に3人の選手が3つのレーンを攻撃していた。
これは二つのパターンに分かれており、一つ目はレブロフかシェフチェンコのどちらかが中央に位置したら別の2選手がワイドレーンを攻撃する方法だ。この役割を担うのは主にベルケビッチであり、2トップの後方でプレーするだけでなく頻繁にワイドエリアへ攻撃を仕掛けた。二つ目は、レブロフとシェフチェンコが二手に分かれて動き、その間に三人目が走り込む方法であった[84]。
「ストレッチド・ダイヤモンド」フォーメーションは、典型的なダイヤモンド陣形とは異なり、1人の選手が他の選手よりもはるかに広い位置でプレーする。ロバノフスキーはこの陣形により、万能型ミッドフィルダーであるヴィタリー・コソフスキー(英語版)の才能を最大限活用した。コソフスキーはビルドアップ時には「標準的な」4-1-3-2において左ミッドフィルダーとして、また攻撃時にはシェフチェンコとレブロフの隣で左ウイングとなり、実質的にフォーメーションを4-3-3に変えた。守備時にはコソフスキーのスピードが左サイドバックの役割も担い、本来の左サイドバックであるカハ・カラーゼが内に回って3人目のCBとして機能することでフォーメーションを5-3-2に変えることも可能だった。
1999-2000シーズン後半、コソフスキーが負傷で離脱した際、ロバノフスキーはゲオルギ・デメトラーゼをワイドストライカーとして起用した。2000年10月ベルナベウでのレアル・マドリード戦では、ロバノフスキーはデメトラーゼにロベルト・カルロスのオーバーラップによって生じるマドリードの裏のスペースを突くよう指示した。この試合、デメトラーゼはPKを獲得し(レブロフが失敗)、同点ゴールにつながるコーナーキックを取り、最後にクロスからディナモ・キーウの決勝となる2点目(1-2)をアシストする活躍を見せた。
ディナモ・キーウの守備は通常、ゾーンディフェンスとマンマークを組み合わせたシステムで組織されていた。選手たちは概ねゾーンディフェンスで守るが、相手チームの中心選手には、その選手がどこへ移動してもディナモの選手がマンマークで対応するのが常だった。このマンマーク守備が最も顕著に発揮されたのは1999年のチャンピオンズリーグ準々決勝、サンティアゴ・ベルナベウでのレアル・マドリード戦であろう。アリャクサンドル・ハツケヴィッチの役割は、プレドラグ・ミヤトヴィッチが中央に流れ込んで数的優位を築くため、右サイドチャンネルと中央エリアを防御することだった[88]。また、1988年欧州選手権決勝ではアレクセイ・ミハイリチェンコにオランダのルート・フリットをマンマークさせている[89]。
ロバノフスキーは戦術的に柔軟で、リスクを背負った交代カードを切って試合の流れを変えた事もある。1998年12月、チャンピオンズリーググループステージ首位通過を目指していたディナモ・キーウはRCランスとのアウェー戦で引き分けを必要としていた。ロバノフスキーは守備的な布陣を選択し、レブロフを左ウイングに配置し、中盤は守備的な選手で構成して、シェフチェンコが1トップを務め、実質的に4-5-1のフォーメーションで挑んだ。スコア0-0の状態でランスの主将フレデリック・デウがシェフチェンコへの激しいタックルで退場処分を受けた後、ロバノフスキーは即座に攻撃的な交代を2回行った。ディフェンダーのユーリー・ドミトゥリン(英語版)に代えてヴィタリー・コソフスキーを投入。続いてヴァシリー・カルダシュ(英語版)に代えてヴァリャンツィン・ビャルケヴィチを投入。さらにレブロフとシェフチェンコを前線で2トップにして、システムを3-2-3-2に変更した。結果、ディナモは3-1で勝利し、グループ首位で準々決勝進出を決める事ができた[90]。
ロバノフスキーは選手は複数のポジションでプレー可能になるべきだと主張していた。もともとFCクバン・クラスノダールで71試合46得点を記録するストライカーだったアレクセイ・ゲラシメンコ(英語版)を、右ミッドフィールダー[91]、右サイドバック[92]、さらにはスイーパー[93]にまで転向させた。同様にセンターバックのオレクサンドル・ホロフコ(英語版)をミッドフィールダーでも起用して実力を発揮させ[98]、カハ・カラーゼも、左サイドバック、守備的ミッドフィールダー、センターバックとしていずれのポジションでも優れた能力を発揮させた。
ロバノフスキーは個人よりもシステムを重視したため、主力選手が移籍や負傷、出場停止で離脱してもチームは安定した成績を維持できた。1997-98シーズン、ディナモの最も重要な中盤選手であったユーリー・カリトヴィンツェフ(英語版)とユーリー・マクシモフ(英語版)は、シーズン終了後にチームを去ったが、ロバノフスキーは既にアリャクサンドル・ハツケヴィッチとヴァリャンツィン・ビャルケヴィチを後継者として確保しており、チームは翌シーズンさらに目覚ましい活躍を見せた。1999-2000シーズン後半には、主力選手であるウラディスラフ・ヴァシュク、 ユーリー・ドミトゥリン(英語版)、ヴィタリー・コソフスキー(英語版)といった主力選手の負傷に悩まされ、レアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘン、ローゼンボリBKとの重要なチャンピオンズリーグ戦を、若手のアンドリー・ネスマチニーとセルヒー・フェドロフ(英語版)で構成された守備ライン、そして本来のポジションとはかけ離れたスイーパーとしてプレーするゲラシメンコを擁して戦うことを余儀なくされた。それにもかかわらず、ディナモはこれら4試合で10ポイントを獲得し、ローゼンボリに2勝、バイエルンに1勝、さらにサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムでのレアル戦では2-2の引き分けを果たした。
人物像・私生活
幼少期から学生時代まで
- 1939年1月6日、キーウ(キーウ)にて、父は機械工場で働く工場労働者、母は主婦という単純労働者階級の家庭に生まれた[94]。
- キーウ第319学校で学び(現ヴァレリー・ロバノフスキー通り146番地。同校はロバノフスキーを記念する銘板が設置され、校名も彼の名誉を称えて改称されている)[95]、 1956年に名門のキーウ工科大学(現:ウクライナ国立技術大学)に入学。
- 大学在学中にソ連代表チーム入りのチャンスを得たが、その選考過程で当時の監督がロバノフスキーのトランクに教科書が入っていることを見て驚き、「スポーツ選手は勉強道具ではなくプレーに集中すべきだ」として以降、代表に選出されなくなった。後にオデッサ工科大学に転校し、同校を卒業した[96]。
- そのためソ連リーグで監督を務めた指導者としては珍しく、高等体育教育ではなく、理工系の教育を背景に持ち、伝統的な体育学部出身の指導者とは異なる視点を持っていた[96]。
人物像
- ロバノフスキー家は祖先がポーランドの伯爵の血筋につながる家系であり、品質や礼儀を重んじる人物だった[64]。
- ロバノフスキーの娘スヴィトラーナ・ロバノフスカによれば、ロバノフスキーは家庭でも厳格でありながらも穏やかで、娘や家族に対して一度も手を上げたことがなく、叱る際も大声を出すことがなかったと語られている。学校の成績で「5(最高評価)以外は不十分」と考えていたという[64]。
- ロバノフスキーはファルシロバ(ゲフィルテ・フィッシュ。詰め物をした魚料理)、ホロデツ(アスピック。肉のゼリー寄せ)、ボルシチ(ビーツベースのスープ)といったウクライナ料理を好んで食べていた[64]。
- アレクサンダー・チュバロフによると、美しい自然の高地に惹かれ、自身が望んだ「カナダ風」の木造の別荘を建て、そこを気に入っていた。また自宅で飼っているペルシャ猫を撫でたり、マスティフ犬をかわいがる様子が印象的だった[97]という。
評価
所属クラブ
ディナモ・キーウ 1957-1964
チョルノモレツ・オデッサ 1965-1966
シャフタール・ドネツク 1967-1968
代表歴
ソビエト連邦代表(2試合0得点)1960-1961
