カテリーナ・ヴィスコンティ
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| カテリーナ・ヴィスコンティ Caterina Visconti | |
|---|---|
| ミラノ公妃 | |
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| 在位 | 1395年 - 1402年 |
| 出生 |
1361年 ミラノ |
| 死去 |
1404年10月17日 モンツァ城 |
| 結婚 | 1380年10月2日 サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会 |
| 配偶者 | ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ |
| 子女 |
娘 ジョヴァンニ・マリーア フィリッポ・マリーア |
| 家名 | ヴィスコンティ家 |
| 父親 | ベルナボ・ヴィスコンティ |
| 母親 | レジーナ・デッラ・スカラ |

カテリーナ・ヴィスコンティ(Caterina Visconti, 1361年 - 1404年10月17日)は、初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの2番目の妃で、後のミラノ公ジョヴァンニ・マリーアおよびフィリッポ・マリーアの母となった。長男ジョヴァンニ・マリーアが未成年であった1402年から1404年にかけて、カテリーナはミラノの摂政を務めたが、ジョヴァンニ・マリーアは母の反逆を疑い(カテリーナの敵である傭兵隊長ファチーノ・カーネによって植え付けられたもの)、カテリーナを逮捕してモンツァ城に投獄し、そこで1404年に毒殺されたとみられている。
カテリーナは、ミラノ領主ベルナボ・ヴィスコンティとベアトリーチェ・レジーナ・デッラ・スカラの17人の子供のうちの1人としてミラノで生まれた[1]。父方の祖父母はステーファノ・ヴィスコンティと ヴァレンティーナ・ドーリア、母方の祖父母はマスティーノ2世・デッラ・スカラとタッデア・ダ・カッラーラであった。
姪イザボー・ド・バヴィエールは、長姉タデアの娘で、1385年にフランス王シャルル6世と結婚し、王妃となった。イザボーの母方の祖父ベルナボが殺害された後、イザボーはカテリーナの夫ジャン・ガレアッツォとその娘ヴァレンティーナ(オルレアン公妃)にとって最も執拗な敵の一人となった[2]。
結婚
1379年初頭、カテリーナとイングランド王リチャード2世との結婚について話し合われた。リチャード2世の家庭教師兼顧問であるサイモン・バーリー卿は、ジェフリー・チョーサーと共にミラノへ交渉に向かったが[3]、この縁談に懸念を抱いていた[4]。ベルナボも娘のために別の縁談を望んでいたため、この結婚を拒否した。1380年10月2日、サン・ジョヴァンニ・イン・コンカ教会で、19歳ほどのカテリーナは、従兄弟のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと結婚した[1]。ジャン・ガレアッツォの最初の妻イザベル・ド・ヴァロワは1373年に出産時に亡くなり、3人の息子を残したが、いずれも幼くして亡くなった。娘のヴァレンティーナ・ヴィスコンティは1389年にオルレアン公ルイと結婚した。ジャン・ガレアッツォはイザベルからシャンパーニュ地方のヴェルテュ伯位を継承していた。
1385年、ジャン・ガレアッツォはカテリーナの父ベルナボをミラノ領主の座から追放した。ベルナボはトレッツォ城に幽閉され、ジャン・ガレアッツォの命令で毒殺されたと伝えられている[5]。
カテリーナは1395年5月11日、夫ジャン・ガレアッツォがローマ王ヴェンツェルによって10万フローリンの貢納金で初代ミラノ公に叙せられたことにより、ミラノ公妃となった。この出来事を記念して、アノヴェロ・ダ・インボナーテによってミサ典書が制作され、前景にはカテリーナとジャン・ガレアッツォが跪く姿が描かれている。このミサ典書は現在、ミラノのサンタンブロージョ教会の図書館に所蔵されている。夫ジャン・ガレアッツォはカテリーナにモンツァ城とヴィチェンツァの領地を与えた。カテリーナと夫ジャン・ガレアッツォは、1396年8月27日に始まったパヴィア修道院の建設を依頼した。
子女
- 娘(1385年6月 - 7月9日)
- ジョヴァンニ・マリーア(1388年 - 1422年) - 第2代ミラノ公。アントーニア・マラテスタと結婚したが、子女なし。
- フィリッポ・マリーア(1392年 - 1447年) - 第3代ミラノ公。ファチーノ・カーネの未亡人ベアトリーチェ・カーネと結婚した。ベアトリーチェとの間には子女が生まれず、フィリッポ・マリーアはベアトリーチェを姦通罪で処刑した。愛妾アニェーゼ・デル・マイーノとの間の娘ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティは後にミラノ公妃となった。