カルジン
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カルジンはケレイト部に属するトベエン氏の出であり、祖父のトセ(土薛)はチンギス・カンに仕えて諸国の征服戦争に従事したとされる。第2代皇帝オゴデイ・カアンの治世中にはトルイの指揮下に入って金朝領陝西に進軍し、先鋒として漢江を渡り、陽翟で金軍を破る功績を挙げた。金朝の滅亡後は四川方面軍に配属され、興元府・閬州・利州の攻略に従事した。南宋領の成都府を占領した際、将軍の陳隆之を斬った功績により興元府に食邑600戸を下賜されており、『元史』食貨志でも言及されている[1][2]。
トセの息子であるカルジンは早くから皇族のクビライに仕え、親衛隊(ケシクテイ)で御膳を司るバウルチの地位に就いていた[3][4]。第4代皇帝モンケ・カアンの死後、弟のクビライとアリクブケとの間に争いが起こると(帝位継承戦争)、カルジンはクビライ直属の親衛隊を率いた。中統2年(1261年)の内戦中最大の激戦となったシムルトゥ・ノールの戦いでは、クビライ直属の中軍の右翼部隊をカルジンが、左翼部隊を史天沢が率いたと伝えられている[3][5]。
帝位継承戦争における勝利が決定的となった中統4年(1263年)6月、カルジンは中書右丞相に任じられ、同時にタガチャルが中書左丞相に任じられた[3][6]。その後、至元4年(1267年)に宣徽院(バウルチを元とする組織)が設立されると、カルジンは中書右丞相の地位から宣徽院の長官である宣徽使に遷った[4][7][8]。至元7年(1270年)には一時宣徽院は光禄司に格下げとなり、カルジンの肩書きも光禄使と改められたが[9]、まもなく宣徽院の名称は復帰した[4][7]。また、至元8年(1271年)にはバウルチと職掌の近いボケウルを元とする「度支監」が設置され、「重臣」がこれを領したとされるが[10]、この「重臣」はカルジンを指すと推定されている[7]。
また、カルジンが中書右丞相から宣徽使に遷った後、ある者が中書省のことについてカルジンに尋ねたところ、「我は大釜を守る者(=バウルチ)であって、他のことは知る所にない」と述べて退けたとの逸話がある。後に、游顕がこの逸話を引いて職務を全うしたことで諸王の不興を買った張庭瑞を弁護している[11]。
至元17年(1280年)には四駿の一人ボロクルの末裔であるオチチェルが第一ケシク長の地位を継承した。オチチェルはバウルチであったことからカルジンの後任として宣徽使の地位に就き[12]、これによってカルジンは引退したようである[4][7]。カルジンの息子のオルジェイはクビライの治世の末期からオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世前半まで中書右丞相として政治を主導する立場にあったことで知られる[13]。
脚注
- ↑ 『元史』巻95食貨志3,「禿薛官人。五戸絲、丁巳年、分撥興元等処種田六百戸。延祐六年、実有二百戸、計絲八十斤」
- ↑ 片山 1980, p. 39/64.
- 1 2 3 池内 1984, p. 27.
- 1 2 3 4 片山 1987, p. 561.
- ↑ 『元史』巻155列伝42史天沢伝,「[中統二年]秋九月、扈従世祖親征阿里不哥、次昔木土之地、詔丞相線真将右軍、天沢将左軍、合勢蹙之、阿里不哥敗走」
- ↑ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統四年六月]戊午、賜線真田戸六百。……癸酉、……以線真為中書右丞相、塔察児為中書左丞相」
- 1 2 3 4 沖田 1997, p. 124.
- ↑ 『元史』巻6世祖本紀3,「[至元四年八月]丙寅、復立宣徽院、以前中書右丞相線真為使」
- ↑ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元七年五月]丙辰……改宣徽院為光禄司、秩正三品、以宣徽使線真為光禄使」
- ↑ 『元史』巻90百官志6,「度支監、秩正三品。掌給馬駝芻粟。……国初、置孛可孫。至元八年、以重臣領之。十三年、省孛可孫、以宣徽兼其任」
- ↑ 『牧庵集』巻22栄禄大夫江淮等処行中書省平章政事游公神道碑,「八年、襄陽用兵之四年、改総管水軍万戸、創石囷七于漢中流、以絶敵舟、馘囲之兵千。改陝西四川道提刑按察使。皇子安西王国秦未至、公見之六盤、順聖皇后賜金帳、載数十車。用事臣欲置憲府、奎鈞慶賜之閣。憲副張庭瑞不受、曰『汝総管自有府、其即彼以置。留車一夕』。用事臣纔其不恭、鋭欲深治、力陳辯、且責其人。霰珍罷右丞相、入為大官、人有事干者、斥曰『吾守大釜鬲者、他非所知』。汝王食官、不師此而行、乃越職沮撓風紀、或帝聞之、謂王弗戢左右也。王雖不善、以受知列聖、身見其摧大臣于庭、且聞帝託裕皇于他日者、庭瑞由以得受軽罰二」
- ↑ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子月赤察児、性仁厚勤倹、事母以孝聞。……至元十七年、長一怯薛。明年詔曰『月赤察児、秉心忠実、執事敬慎、知無不言、言無不尽、暁暢朝章、言輒称旨、不可以其年少、而弗陞其官。可代線真為宣徽使』」
- ↑ 『元史』巻130列伝17完沢伝,「完沢、土別燕氏。祖土薛、従太祖起朔方、平諸部。太宗伐金、命太弟睿宗由陝右進師、以撃其不備、土薛為先鋒、遂去武休関、越漢江、略方城而北、破金兵于陽翟。金亡、従攻興元・閬・利諸州、拝都元帥。取宋成都、斬其将陳隆之、賜食邑六百戸。父線真、宿衛禁中、掌御膳。中統初、従世祖北征。四年、拝中書右丞相、与諸儒臣論定朝制」
参考文献
- 池内功「フビライ政權の成立とフビライ麾下の漢軍」『東洋史研究』第43巻第2号、東洋史研究會、1984年9月、239-274頁、doi:10.14989/153948、hdl:2433/153948、ISSN 0386-9059、CRID 1390572174787583872。
- 沖田道成「元朝期鷹狩り史料一考」『東洋文化学科年報』12、1997年
- 片山共夫「元朝怯薛出身者の家柄について」『九州大学東洋史論集』、1980年
- 片山共夫「元朝怯薛の職掌について(その一)」『論集 中国社会・制度・文化史の諸問題』中国書店、1987年
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
- 『元史』巻130列伝17完沢伝
- 『新元史』巻197列伝94完沢伝
- 『国朝名臣事略』巻4丞相興元忠献王