カーチャ・エプシュタイン
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黎明期
本格的な歌手活動を開始したのは1960年代の後半からで、ジェームス・ラスト楽団の歌手から始まった。
1965年、カーチャ名義で、アリオラ・レコードから、"Irgendwann"(いつの日か)でデビューした。翌1966年、"Wo ist das Schiff"(船のある所)もリリースしたが、これらは全くヒットしなかった。
1967年、作曲家兼プロデューサーのクリスティアン・ブルーンに出会い、ドイツ・ローカルのウッドストック・フェスティバルにあたるブルク・ヴァルデック・フェスティバルに出場した。そこで、世界に通用する歌手を売り出そうと考えていたドイツ・リバティ・レコードの社長ジークフリート・ロッホの目に止まり、専属契約を結ぶことになった。それを機に、芸名をカーチャ・エプシュタインに改名した。この苗字は、彼女の家族が住んでいたベルリン=ライニケンドルフの「エプシュタイン通り」にちなんだものである。
1969年、デビュー・シングルはグレン・キャンベルの「ウィチタ・ラインマン」のドイツ語カバー"Der Draht in der Sonne"だった。続いて、"Und wenn der Regen fällt"(雨が降るなら)や、映画「女王陛下の007」のドイツ語版サウンドトラック挿入歌「クリスマス・ツリー」"Wovon träumt ein Weihnachtsbaum im Mai"(Do you know how Christmas trees are grown)、"Warum ist die Welt so schön"(世界は何故美しいのか)といったシングルに加えて、最初のアルバム『カーチャ』もリリースした。このアルバムには、ディオンヌ・ワーウィックの「ア・ハウス・イス・ノッタ・ホーム」"Ein Haus Ist Kein Zuhaus"(A House Is Not A Home)、ボビー・ダーリンの「この小さな願い」"Ohne Geld und Namen"((If I Were A Carpenter)、ペトゥラ・クラークの「あきらめないでね」"Gib nicht auf"(Don't give up)、バーブラ・ストライサンドの「マイ・カラリング・ブック」"Mein Bilderbuch"(My Coloring Book)、ミュージカル「ヘアー」挿入曲「グッド・モーニング・スターシャイン」"Die letzten Sterne"(Good morning starshine)のドイツ語カバーや、ビートルズの「ア・ハード・デイズ・ナイト」(A hard day' s night)の英語カバー等の名唱が含まれていたが、大ヒットには至らなかった。
“Wunder gibt es immer wieder”『愛のおとずれ』のヒット
エプシュタインがブレイクしたのは、それから数ヵ月後のことだった。1970年3月21日、オランダ・アムステルダムにて開催されたユーロビジョン・ソング・コンテスト1970に西ドイツ代表として出場。『愛のおとずれ "Wunder gibt es immer wieder"(日本語直訳:奇蹟は繰り返し起こる)』を唄い、第3位に入賞したのである。同曲はドイツ本国のチャート(ドイツ語版)で11週ランクイン、最高位16位を記録する最初の大ヒットになった。
本作は日本でのデビュー曲となり、同年4月25日に東芝音楽工業株式会社からシングル盤が発売された。
また、英語版 ("No more tears for me")、フランス語版 ("Un miracle peut arriver")、スペイン語版 ("Siempre hay algun milagro")に加えて、日本語版も録音された。
この日本語版は、同年10月5日に同じ東芝レコード所属の岡崎友紀のアルバム『花びらの涙』の中でもカバー収録された(日本語詞:片桐和子/編曲:川口真)。
続く『朝はふたたび "Und wenn ein neuer Tag erwacht"』もヨーロッパでヒットしたが、日本では何故かB面収録の『恋は歌のように』"Mein Leben ist wie ein Lied" に差し替えられた。
どちらもクリスチャン・ブルーンの筆によるもので、それが切っ掛けとなり2人は結婚するに到った。
翌年のユーロビジョン・ソング・コンテスト1971でも、『世界"Diese Welt"』(作曲:ディーター・ツィンマーマン、作詞:フレッド・ジェイ)で出場。2年連続で3位入賞し、こちらも10週ランクイン、最高位16位という快挙を成し遂げた。
1973年には、NHK・ドイツ語講座で“Wir Leben - Wir Lieben”(私たちの人生、私たちの愛)が今月の歌に採用された。
来日記念盤である『アディオ・サッポロ』(日本語盤)以降、日本でのレコード・リリースは途絶えているが、本国及びドイツ語圏ではコンスタントにヒットを飛ばしている。特に、“Stern von Mykonos”(ミコノスの星)、“Es War Einmal Ein Jager”(狩人の唄)の2曲は、半年以上チャートインするロングランで、最高位4位という大ヒットになった。
また、世界的なヒット曲のドイツ語によるカバー録音も、引き続き取り組んでいった。『青春の光と影" Beide Seiten"』、『風のささやき"Wie sich Mühlen dreh'n im Wind"』や、『アルゼンチンよ、泣かないで"Wein' Nicht Um Mich, Argentinien" 』等のナンバーは、オリジナルに勝るとも劣らない程の素晴らしい歌唱と言えるだろう。
その後の活動
ユーロビジョン・ソング・コンテスト1980では、"Theater"(シアター)が2位に入賞した。同曲は、古き良きカバレット(キャバレー・ソング)風の作品で、『愛のおとずれ』を上回る15週ランクイン、最高位11位を記録した。同曲も、英語、フランス語、イタリア語の多言語で録音された。
この他、1980年代は、"Abschied ist ein Bißchen wie sterben"(別れは死の悲しみのように)、"Dann heirat' doch dein Büro"(ワーカホリックな男)等がヒットしている。
1986年には「ARDテレビ宝くじ」で、"Mensch sag doch einfach "Na und""(それがどうした?)を唄った。
その他の活動としては、詩の朗読を披露しているが、社会的・政治的な分野でも盛んに活動している。例えば選挙ではヴィリー・ブラントを支持しており、1992年には、後にドイツ交通大臣となったマンフレート・シュトルペの夫人と共に「子供のための環境活動 – 環境が危険に晒されている若い人々のための援助機関」を設立、活動している。