キプロスの歴史
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古代
現存する最古の支配記録は、アッシリアによって支配されたキプロスを示す粘土板である。また、1845年にキプロスで発見された石碑は、最初の紀元前709年の戦いでサルゴン2世が勝利したことを記念するもので、紀元前669年頃、キプロスは独立を果たしたが、後に古代エジプト王国に征服された。
紀元前545年頃、アケメネス朝ペルシア帝国に征服された。これに続いて、アレクサンドロス大王の帝国とプトレマイオス朝エジプト王国が支配した。
しかし、紀元前58年までに、キプロスはプトレマイオス朝エジプト王国のプトレマイオス12世から古代ローマに併合され、キプロスはローマの属州(キュプルス属州)となった。115年(または116年)にユダヤ人の反乱が発生したが、ローマ軍が鎮圧した。4世紀初頭の幾つかの地震はサラミスの破壊に繋がったと同時にキプロスは幾つかの旱魃や飢饉に苦しんだ。
東ローマ帝国

ローマ帝国が東西に分裂したのち、キプロス島は東ローマ帝国の支配下におかれた。
アラブ人とイスラム教徒は650年代に大挙してキプロスに侵攻したが、688年、時の皇帝ユスティニアノス2世と時のカリフであるアブドゥルマリクとの間で前代未聞の協約が締結された。協約内容は、今後300年間、本土での両国の戦争に関わらず、キプロス島は両国による共同統治体制におかれ、税収は両国で折半になるというものだった。しかしバシレイオス1世の治世、キプロス島は東ローマ帝国によって再征服され、テマ制が敷かれた。そして7年後、キプロス島は再び共同統治体制下におかれることとなる。しかしまたもやキプロス島は東ローマ帝国に肩入れされてしまい、これを見かねたアラブ側は4ヶ月にわたって島を荒らし周り、捕虜を連行して去っていった。それ以降、キプロスはギリシア文化圏から孤立し新たなキプロス文化圏を構築するに至り、キプロスは10世紀頃までイスラム圏におかれることとなった。
そして965年前後、再びキプロスは東ローマ帝国の将軍ニケタス・カルコテスの下征服され新たにテマが置かれた。将軍ニケタスのこの遠征については詳細は不明だが、彼はその後キプロスの統治者となった[1]。
また1042年にはキプロスの統治者テェフィロス・イロティコスが、1092年にはラプソマトが帝国に反乱を起こしたが、帝国軍による早急な対処により鎮圧された。
1185年、キプロスの最後の東ローマ系の統治者であるイサキオス・コムネノス(傍流の東ローマ系の皇族コムネノス家出身)が反乱を起こし、東ローマ帝国の帝位を奪おうとした。彼のクーデターは失敗したものの、キプロス島を統治し続けることができた。この反乱に対し東ローマ帝国はうまく対処できなかった。というのも反乱軍はシチリア王国の国王であるグリエルモ2世と手を組んでいたからである。なのでローマ皇帝はエジプトのスルタンと共謀し、キプロスの港に十字軍の軍船が入港できないよう妨害工作を依頼した。
十字軍
キプロス王国
オスマン帝国
イギリスの植民地支配
独立
1959年2月には、イギリス、ギリシャ、トルコがチューリッヒ・ロンドン協定に調印し、ギリシャ、トルコ、キプロスも連合条約に調印した。1960年8月16日、独立が宣言され、キプロス共和国が成立した。1963年末には、改憲問題を巡って2つの共同体の間でキプロス紛争が起こった。


