キャシュフェ・ヘジャーブ
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キャシュフェ・ヘジャーブ(Kashf-e hejab)は、1936年1月8日に、欧化主義者だったパハラヴィー朝イランのレザー・シャーが宣言した「女性解放政策」のひとつである。字義どおりには「ヘジャーブ(女性が被るヴェール)を脱ぐこと」を意味し、宣言は速やかに実効化され、ヘジャーブ着用が禁止された[1][2]。政府は男性が着用する伝統服をも種類を制限した[3]。レザー・シャーによるキャシュフェ・ヘジャーブ宣言以後、ヘジャーブ着用をめぐる議論が政治問題化し、服装規定がイラン政治のさまざまな領域に影響を及ぼす問題になった。
1936年にレザー・シャーはヘジャーブ着用を禁止し、イラン国民の洋装を奨励した[4]。これは、服装が民族(tribe)、地域、宗教、所属階級の違いを如実に表していた当時のイランを統合し、国民国家を形成しようとする努力の一環であった[5]。
シャーの政策は、トルコに範をとり、国家の近代化の一方策として女性の社会進出の機会を増加させることを意図していた。王妃や王族女性が、社会に参加する女性のロールモデルとして公務をこなすことでシャーの政策を後押しし、キャシュフェ・ヘジャーブ政策においても同様にロールモデルを演じていくことになった[6]。
ヘジャーブを着用しない女性の増加は、女性の社会参加の達成度合いを測る象徴的意味を持つため、シャーは社会に動揺を与えないよう改革を慎重に進めていった[6]。1930年代中頃、ヘジャーブを着用せず公的空間へ出かけて行ったイラン女性の数は、女性人口650万人中たったの4000人であり、そのほぼ全員がテヘラン在住、且つ、西洋式教育を受けた上流階級の娘か、ヨーロッパへ行った留学生や実業家が現地で結婚したヨーロッパ人配偶者か、マイノリティ出身の中流階級女性のいずれかであった[7]。
1933年には女性教育者(先生)にヘジャーブの非着用が勧められ、1935年にはその対象が女生徒にまで拡大された。イラン政府は1935年にカーヌーネ・バーノヴァーン(کانون بانوان , Kānūn-e bānovān)を組織し、政策の浸透にあたらせた[8]。カーヌーネ・バーノヴァーンは字義通りには「女性庁」のような意味の組織名を持つ組織で、女権拡大活動家がキャシュフェ・ヘジャーブ政策のキャンペーンを行った[9]。

