キリル・メトコフ
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| 名前 | ||||||
| 本名 | キリル・メトコフ | |||||
| ラテン文字 | Kiril METKOV | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1965年2月1日(61歳) | |||||
| 出身地 | ブルガリア・ソフィア | |||||
| 身長 | 180cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1983-1992 |
| 229 | (43) | |||
| 1992-1993 |
| 37 | (15) | |||
| 1993-1994 |
| 10 | (2) | |||
| 1995-1996 |
| 4 | (0) | |||
| 通算 | 280 | (60) | ||||
| 代表歴 | ||||||
| 1989-1993 |
| 9 | (0) | |||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||||||
キリル・メトコフ(Kiril Metkov、1965年2月1日-)は、ブルガリア・ソフィア出身の元ブルガリア代表のサッカー選手。現役時代のポジションはMF。
地元ソフィアの中堅クラブであるロコモティフ・ソフィアでキャリアをスタートし、9年に渡り中心選手としてプレー。1992年に国内トップクラブのCSKAソフィアに移籍しリーグ優勝に貢献。1993年、ガンバ大阪に移籍。日本のJリーグにおいて初のブルガリア人プレーヤーとなった。日本でのプレー中に重症を負ったのが原因で引退した。
経歴
ロコモティフ・ソフィア(1983-1992)
ロコモティフ・ソフィアのユース出身であるメトコフは、1983/84シーズンに18歳でクラブのトップチームに昇格。すぐに中盤の重要な選手として地位を確立した。1991年の夏にはチームのキャプテンにも選ばれた。
リーグ戦では229試合に出場し43ゴール、UEFAカップでは6試合に出場し1ゴールを記録した。1985年10月2日、キプロスのAPOELを延長戦の末4-2で下したホームゲームで得点を挙げた。
CSKAソフィア(1992-1993)
優勝タイトル獲得への強い意欲をもとに[1]、1992年初め、リーグ戦折り返しの時期に、ブルガリア国内屈指の人気チームCSKAソフィアに移籍。1991/92シーズンの優勝に大きく貢献した。
1992年2月22日にデビューし、春の最初のラウンドで、ドブルジャを2対1で下したホームでの勝利で2得点を挙げた。彼の得点力はシーズン半ばを通して続いた。1992年5月2日には、ベロエを10対2で圧倒した試合で4得点を挙げた。5月24日には、レフスキ・ソフィアとのダービーマッチ(2対2)でも得点を挙げた。リーグ戦で15試合出場して11得点。カップ戦では2試合出場して2得点を挙げた。
1992/93シーズンもCSKAの主力選手として、リーグ戦で22試合で4得点、カップ戦で5試合で4得点しブルガリアカップ制覇に貢献した。1993年6月2日のボテフ・プロヴディフとの決勝戦で唯一のゴールを決めたのがメトコフである。またUEFAチャンピオンズリーグでも2試合で1得点の成績を残している。
この時、後にガンバ大阪入りするボバン・バブンスキーとはチームメイトであった。
ガンバ大阪(1993-1994)
Jリーグ開幕年の1993年シーズン途中にガンバ大阪と契約し、Jリーグ初のブルガリア人選手となった。現役ブルガリア代表のドリブラーという触れ込みで、セルゲイ・アレイニコフ(ソ連代表)と共に中盤を任せられる大物外国人コンビとして大いに期待され、その年の終わりまでにリーグ戦10試合で2ゴール、カップ戦で9試合2ゴールの成績を残した。
しかしガンバ大阪でのプレー中に、右足の脛骨(けいこつ)と腓骨(ひこつ)を両方骨折するという重症を負い、6ヶ月もギプスをはめたままの状態が続き、複数回の手術を余儀なくされるという極めて深刻な事態に陥り、1年半もの間ピッチから離れた。そしてこの怪我はついに完全に回復することはなかったという[1]。(『怪我がちであまり活躍しなかった』ように見えたのはその為である)
スラヴィア・ソフィア(1995-1996)
ブルガリアに戻り、古巣のCSKAソフィアやロコモティフ・ソフィア、そしてスラヴィア・ソフィアなどで短期間トレーニングする期間を経て、1995年の夏、スラヴィア・ソフィアと契約。1995/96年秋のシーズン、リーグ戦で4試合に出場したが、以前のようなレベルでプレーに戻ることは不可能だと悟り、30歳の若さで現役を引退した。メトコフは「ストップと言う時が来たのだと理解した」と語っており、この怪我が事実上のキャリアエンドとなった[1]。
かつてのレベルでプレーできない現実を目の当たりにし、「サッカーを二度とやりたくない、すべてを忘れたい」という思いを抱くようになり、試合を観ることさえやめ、その後10年以上もスタジアムに足を運ぶことすら無くなったというほど精神的に大きなダメージを負った[1]。
代表経歴
ブルガリア代表として9試合に出場。フレンドリーマッチでの起用がほとんどで、大舞台での出場はUEFA欧州選手権予選のサンマリノ代表戦での途中投入にとどまった[2]。
指導者経歴
サッカーから完全に離れていたが、ある日偶然スタジアムを訪れた際、当時のクラブ幹部だったイヴォ・トネフに誘われたことがきっかけで、ロコモティフ・ソフィアのユースチームのコーチとして現場に復帰した。以降はロコモティフ・ソフィア、CSKA・ソフィア、ヴィトシャ13のユースチームでコーチを務めた[1]。
プレースタイル
主にプレーメーカーとして起用され、卓越したドリブル、テクニック、スピード、鋭い加速力に特徴があった。
備考
- (Jリーグ在籍中に過ごした)日本での生活について、「信じられないほど素晴らしかった。日本は完璧な国です。あらゆる面でスムーズだった。」「まず第一に何よりも重要な事は、何かを頼めば彼らは必ずやってくれた事だ。」「日本で過ごした数年間、それは私にとって最も素晴らしい思い出の一つです。」と語っている[1]。
所属クラブ
- 1983年 - 1992年
ロコモティフ・ソフィア (ブルガリアリーグ216試合43得点) - 1992年 - 1993年
CSKAソフィア (ブルガリアリーグ41試合27得点) - 1993年 - 1994年
ガンバ大阪 (Jリーグ10試合2得点) - 1995年 - 1996年
スラヴィア・ソフィア (ブルガリアリーグ7試合0得点)