キング・カーティス
From Wikipedia, the free encyclopedia
10歳のときに、ルイ・ジョーダンの演奏を聴き、サックスを始める。10代後半からニューヨークでスタジオミュージシャンとしての活動を開始し、数多くのセッションに参加する。その中で当時人気を集めたドゥーワップグループ「コースターズ」のセッションで披露したユニークなサウンドが評判を呼び、ヒット曲である「ヤキティ・ヤク」から、「ヤキティ・サックス」を呼ばれ、高い人気を誇った。
1959年よりソロ活動を開始し、1962年に発表した「Soul Twist」は『ビルボード』のポップ・チャートで17位[2]、R&Bシングル・チャートで1位を記録[3]。その後も1964年には「ソウル・セレナーデ」がポップ・チャートで51位[2]、R&Bチャートで20位[3]に達するなど順調に活躍を続け、1965年にメジャー・レーベルのアトランティックと専属契約を結び、1967年には「Memphis Soul Stew」(ポップ33位[2]/R&B6位[3])、「Ode to Billie Joe」(ポップ28位[2]/R&B6位[3])などのヒット作を送り込んだ。ソロアーティストとして活動する一方で並行して、サム・ムーア、アルバート・キング、アレサ・フランクリンなどアトランティック所属アーティストのセッションや音楽監督、プロデュースを行い、アトランティックの音楽性に大きな貢献を果たした。
1969年に発表した「孤独の影」[4]が、第12回グラミー賞において、最優秀リズム・アンド・ブルース・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞を受賞した。
1971年3月、ビル・グレアムの企画によって、ライブ・アルバム製作も兼ね、サンフランシスコのフィルモア・ウェストで開催されたアレサ・フランクリンのコンサートに自身のバンド、キングピンズで参加。前座とフランクリンのバック・バンドの両方を務め、この公演の模様は同年のうちに、フランクリン名義の『アレサ・ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』、カーティス名義の『ライヴ・アット・フィルモア・ウェスト』といったアルバムとして発表された[5]。また、1971年7月にはジョン・レノンのアルバム『イマジン』のためのセッションに招かれ、「イッツ・ソー・ハード」と「兵隊にはなりたくない」の2曲でサックス・ソロをオーバー・ダビングした[6]。
しかし、1971年8月、新品の窓用エアコンを担いでの帰宅時、ニューヨークの自宅アパートメント前にて麻薬中毒者と口論になり、ナイフで刺され、そのまま搬送先の病院で死亡した。