クララ・デニスン・ルーミス

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クララ・デニスン・ルーミス
生誕 1877年10月14日
アメリカ・カリフォルニア州サン・ラファエル
死没 1968年9月5日
アメリカ・カリフォルニア州クレアモント
国籍 アメリカ合衆国
出身校 スミス大学ユニオン神学校コロンビア大学
職業 教育者宣教師
活動期間 1901年1936年(日本、共立女学校校長)
著名な実績 共立女学校第4代校長、横浜YWCA幹事、著書
  • 『Henry Loomis, friend of the East』
  • 『Manners and customs of the West』
宗教 プロテスタント
父:ヘンリー・ルーミス、母:ジェーン・ヘリング・グリーン・ルーミス
受賞 藍綬褒章(1937年)
私立学校恩給財団34年勤続表彰(1934年)
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クララ・デニスン・ルーミスClara Denison Loomis、1877年10月14日 - 1968年9月5日[1])はアメリカの教育者宣教師共立女学校の第4代校長[4]として女子教育の発展に尽力し、横浜YWCA幹事として社会教育活動にも貢献した。1937年に藍綬褒章を受章した。

1877年10月14日、カリフォルニア州サン・ラファエルに生まれた[5]

父は宣教師のヘンリー・ルーミス、母はジェーン・ヘリング・グリーン・ルーミスで、7人の子ども[6]の第4子で二女であった[7][注 1]

両親は1872年(明治5年)5月24日に横浜に来て[8]、来日直後の2週間をアメリカン・ミッション・ホーム(のちの共立女学校)で過ごした[7]。1875年(明治8年)には日本初の長老派教会である横浜第一長老教会(現在の日本基督教団横浜指路教会)を誕生させた[5]。父が病いを得て1876年(明治9年)にいったんアメリカに引き上げると、母国滞在中にクララが生まれた[5]。1881年(明治14年)に両親が横浜に戻った際に3歳のクララも来日し[8]山手居留地223番の家で幼少期を過ごし[7]、初等教育を受けた[6]

学業のために帰国し1893年(明治26年)にマサチューセッツ州のニュートン商業学校に入学し1896年(明治29年)に卒業した[9][10]スミス大学に学び1900年(明治33年)に卒業しBA(バチェラー・オブ・アーツ)の学位を受けた[9][10]。翌1901年(明治34年)にはニューヨーク州ユニオン神学校コロンビア大学を卒業しMA(マスター・オブ・アーツ英語版[11])の学位を受ける[9][10]と、同年12月、日本に戻る。

横浜に着くと、共立女学校の第4代校長に就任した[5][2]。同校の創立者の一人ジュリア・クロスビーの要請を受けてのことだった[12]

女学校は初代校長ルイーズ・ピアソンの後、2代、3代校長はどちらも健康を害して短期間で帰国した[7]。6部屋ばかり[6]の校舎も老朽化しており、25歳のクララには新校舎の建築資金を調達するという仕事が待っていた[7]

アメリカから多額の寄付を得て必要な金額が集まり、1904年11月、3階建ての女学校校舎ドリーマス・ホール[13][6]と、ピアソン・チャペルのある神学校校舎が完成した[7]。同年、校章、校歌、スクールカラー、ピンが制定された[7][12]

クララはYWCAの活動にも力を入れ、1907年には学内にYWCAを発足させた[7]。横浜YWCAの幹事としても尽力した[7]

1921年には創立50年を記念してクロスビー講堂が増築され[7]、クララの母ジェーン・H・G・ルーミスを記念してニューヨークで購入したピアノが置かれた[7]。1922年夏には、当時まだ珍しかったスチーム暖房設備が講堂に備えられた[7]

1922年、休暇でアメリカに帰り、父の伝記『Henry Loomis - Friend of the East』を執筆し[7]、同書には中国で宣教師を務めた経験のある長老派教会幹部ロバート・エリオット・スピア英語版が序文を献じている[14]。1923年6月末、日本に戻り、伊香保にある卒業生の実家・橋本旅館で静養した[7]。9月初旬に横浜に帰る予定にしていたところ、関東大震災が起き、通信や交通が途絶えてしまう。19日まで伊香保に留まり20日に出発、列車を乗り継ぎ23日の朝に横浜に着いた[7]。女学校の被害は大きく、校舎ドリーマス・ホール、寄宿舎、宣教師館が倒壊・焼失した。図書室の書籍、講堂のピアノ、暖房設備も失った。神学校の校舎1棟は類焼を免れた[7]。クララは横浜への帰途で目にした惨状や復興に努める女性宣教師たちの様子を記録に残した[12]

1931年10月、創立60周年の年にヴォーリズ設計の3階建て新校舎の献堂式と祝賀会が開かれた[12][注 2]。翌年、理事に就任する[16]

1934年(昭和9年)10月、私立学校恩給財団の10周年記念に際して34年間勤続者として表彰された[9]

日本社会が軍国主義化してアメリカ人校長を排斥する動きが起き、クララの後任にふさわしい名実共に優れた人物として笹尾粂太郎が選ばれた[7]。1936年(昭和11年)4月、笹尾が第5代校長となり、名誉校長の座についたクララ[7]は、11月30日に帰国した[8][12]

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)にかけてニューヨーク州イサカのホーム・エコノミクス・カレッジでコースを取得し、1939年(昭和14年)[注 3]から1940年(昭和15年)には京都の同志社大学で教鞭をとった[10]

戦争への危機が迫り1941年(昭和16年)にアメリカに帰国[10]コネティカット州ニュー・ヘイブンに住み、ウェスレヤン大学で1学期間、教えた[10]。その後はカリフォルニアにある引退宣教師の保養所クレアモント・ホームに住んだ[7][10]。共立学園創立80周年、90周年の記念式典には来日した[7]

1968年9月5日に心臓発作のため90歳で亡くなった[7][10]。墓所はオークパーク墓地(ロサンゼルス郡クレアモント[1]。共立学園同窓会は横浜外国人墓地の両親の墓の前に記念碑を建てた[7]

栄誉栄典

  • 34年勤続表彰 - 1934年(昭和9年)私立学校恩給財団[18]
  • 藍綬褒章 - 1937年(昭和12年)3月17日[5][19]

著書

  • Loomis, Clara Denison (1901). Japan's educational system (Thesis) (英語). OCLC 56145749.原稿、修士論文、コロンビア大学。
  • Loomis, Clara Denison; Speer, Robert E. (Robert Elliott) (1923) (英語). Henry Loomis, friend of the East. Fleming H. Revell. NCID BA09227064  中国で宣教した長老派教会幹部ロバート・エリオット・スピア英語版による序文。
  • Loomis, Clara D. (1930). Manners and customs of the West. Tokyo: The Herald Press. NDLJP:1700494 
    • 日本語版 クララ・デニスン・ルーミス、Loomis, Clara Denison『西洋の社交と礼儀』(改訂新版)ヘラルド社、横浜共立学園、1996年。 NCID BA48707252 

参考文献

脚注に使用。区分内は主な執筆者や編者の順。

官行物
  • 大蔵省印刷局(編)「◎法人登録/財団法人横浜共立学園創設/一、理事ノ氏名住所」『官報』1789(1932年12月15日)、日本マイクロ写真、1932年、515(コマ番号:22 )。 昭和7年発行。
  • 大蔵省印刷局(編)「◎法人登録/財団法人横浜共立学園変更」『官報』3879(1939年12月09日)、日本マイクロ写真、1939年、329(コマ番号:29)。 昭和14年発行。
  • 総理府賞勲局 編『紅・緑・藍綬褒章名鑑 明治15年~昭和29年』総理府賞勲局、1980年、799頁。doi:10.11501/11894973NDLJP:11894973/1/412 
  • 『横浜市史稿』 7巻《教育編》、横浜市、1929年、(コマ番号:302)頁。NDLJP:3432635/1/302。「(略)4年。12月、ミス・クララ・デニスン・ルーミスが共立女学校長に就任。1904年(明治37年)新校舍が竣(後略)」 昭和7年発行。全11冊 ; 23cm。
  • 「5 認定共立女学校」『横浜市史稿』横浜市 編集発行、1932年、(コマ番号:300)頁。doi:10.11501/1213506NDLJP:1213506/1/300。「(略)12月、ミス・クララ・デニスン・ルーミスが共立女学校長に就任。1904年(明治37年)。新校舍が竣工。(後略)」 昭和6年-8年発行。
その他

脚注

関連資料

関連項目

外部リンク

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