ジュリア・クロスビー
From Wikipedia, the free encyclopedia
ジュリア・ニルソン・クロスビー | |
|---|---|
|
Julia Nielsen Crosby | |
|
肖像 | |
| 生誕 |
1833年7月31日 ニューヨーク |
| 死没 |
1918年1月28日 横浜 |
| 埋葬地 | 横浜市山手 |
| 国籍 |
|
| 職業 | 宣教師、校長 |
| 活動期間 | 1871年–1915年(日本) |
| 団体 | 横浜共立学園、共立女子聖書学院 |
| 著名な実績 | 讃美歌の和訳 |
| 代表作 | 「主我を愛す」 |
| 肩書き | 総理(共立女学校1875年–) |
| 前任者 |
ルイーズ・ピアソン[1] (共立女学校) |
| 後任者 |
第3代[1] R・L・アーヴィン 1894年(明治27年)– 第4代[1] クララ・ルーミス 1901年(明治34年)– |
| 栄誉 | 藍綬褒章 |
ジュリア・ニルソン・クロスビー(英: Julia Neilson Crosby、1833年7月31日 - 1918年1月28日)は横浜共立学園の前身・共立女学校と共立女子聖書学院の前身・偕成伝道女学校[2]を創設した女性宣教師の一人である。讃美歌「主われを愛す」を初めて和訳した人物[3]。
横浜の乳業
1833年ニューヨーク生まれ、父ウィリアム・H・クロスビー(1808年-1892年)、母ジョセフィーヌの一番上の娘[注釈 1]として育つ。父親はラトガース大学のラテン語とギリシア語の教授であった。
米国婦人一致外国伝道協会(WUMS)は、ジェームス・ハミルトン・バラから宣教師を日本へ送るように要請されると人材を選び日本へ派遣する。39歳のクロスビー以下、宣教師として1871年6月25日にルイーズ・ピアソン、メアリー・プラインは来日した[1]。三人は8月28日にバラの横浜の家屋を借りて、横浜山手48番地にピアソンを総理としてアメリカン・ミッション・ホームを開設し、クロスビーは教務のかたわら会計と庶務を担当した。
ホーム開設当初からピアソンとともに児童や生徒に授業を行ったクロスビーは、大坪正之助の助けを借りて「Jesus loves me. This I know.」[注釈 2]を子供たちに歌わせようと訳した。「主我を愛す」と題した歌は、同年の第一回在日宣教師会議で発表された。
クロスビーらの施設は1872年に山手212番地に移転し、それを機に女子教育専門の学校を設立することになった。ホームは1875年に共立女学校(英語名称「英: Doremus School」)と改称し、同年、プラインが健康を害して帰国すると、クロスビーが2代目総理になった[6]。
1894年には小笠原島で6ヵ月間伝道をした。また共立女学校の校長が不在の期間には女学校の責任を負った。女学校の第4代校長にクララ・ルーミスが就任すると、1915年に引退した。
1918年、リューマチが悪化して衰弱、ジュリア・ニルソン・クロスビーは7月4日に死去した。葬儀は7月6日、共立女学校講堂で、熊野雄七の司式で執り行われた。
遺体は、ルイーズ・ピアソンの隣[どこ?]に埋葬[7]された。
横浜山手40番地でプライン、ピアソン、クロスビーが始めた乳牛飼育は、自家用の牛乳の生産を続けた。宣教医D・B・シモンズと共に日本人も牛乳を飲むように指導奨励した。
栄誉栄典
主な著作
訳詩「主我を愛す」
|