ルイーズ・ピアソン

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ルイーズ・ピアソン
ルイーズ・ヘンリエッタ・ピアソン
生誕 1832年4月7日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州
死没 (1899-11-28) 1899年11月28日(67歳没)
日本の旗 日本神奈川県横浜市
墓地 横浜外国人墓地
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 宣教師
活動期間 1871年-1899年(日本滞在期間)
著名な実績 共立女学校設立、偕成伝道女学校設立
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ルイーズ・ヘンリエッタ・ピアソン(Louise Henrietta Pierson, 1832年4月7日 - 1899年11月28日)は、横浜共立学園の前身・共立女学校と共立女子聖書学院の前身・偕成伝道女学校を創設した女性宣教師の一人である。

1832年4月7日[1][2]フランス系アメリカ人の教師ルイ・H・トマとアメリカ人の母親の第二子としてニューヨーク州に生まれた[1][3]。17歳で師範学校(ノーマル・スクール)を卒業して、夫ピアソンと結婚した[1]。三女一男が生まれるが、1865年、28歳の時に夫が死去し、4人の子供全員も次々に亡くなった[1][3]。来日するまでは教員をしながら文筆活動をしていた[2][3]

横浜の山手212番地にあったアメリカン・ミッション・ホーム(背景)。プライン、ピアソン、クロスビーと生徒たちが映る

来日

ピアソンは39歳の時、ジェームス・ハミルトン・バラが要請した日本への派遣に応じると、米国婦人一致外国伝道協会の宣教師として、メアリー・プラインジュリア・クロスビーと共に1871年6月25日に横浜港に降り立った[1][2]。三人は同年8月28日に横浜外国人居留地山手48番地にあったバラ夫妻の家屋を借りて、家庭組織の塾舎[4]として「亜米利加婦人教授所」(アメリカン・ミッション・ホーム)を建設した[1]。三人の中でいち早く日本語を習得したのはピアソンだった[3]。プラインは経営と管理、クロスビーは教師と会計を担当し、ピアソンは校長として全科目を教え、混血児養育とキリスト教主義の女子教育を目指した[1]。ピアソンには音楽の素養もあり、ホームの祈祷会ではオルガンを弾き、讃美歌の歌唱を指導した[1][3]

混血児や生徒が集まらず、クロスビーが街頭で呼び込みをしたこともあった[1]。当時、静岡学問所の教授だった中村正直がピアソンらのホームの教育を絶賛し、生徒募集の入学案内を書いて紹介した[1][2]。来日の翌年、1872年には山手212番地に移転し「日本婦女英学校」と改称した[1]

移転を機に、女子教育専門の学校を設立することになり、来日5年目の1875年には同英学校を共立女学校と改めた[1][5]。そのころの生徒「セキ」が署名し、アメリカの支援者に宛てたカタカナ書きの手紙と、ピアソンによる英訳が伝わる[注釈 1]

日本人女性の伝道者を育成するため、1881年には偕成伝道女学校(後の共立女子神学校)を開設して、初代校長に就任したピアソンは共立女学校長と兼務し[1]、伝道女学校の校長に専念したのは1891年以降である[1][2]

訪問伝道を開始したのは女学校開設と同じ頃、1875年前後とされ、箱根静岡県三島方面に出かけた[1]。伝道は聖書講読や家庭訪問が中心で、春夏の休暇には生徒を連れて東北信州四国などを巡り、持参したベビーオルガンで伴奏して讃美歌を歌い、パンフレットを配った[1]

来日してから一度も帰国せず[1]、1899年11月28日[1][2]に67歳で現役のまま横浜で死去した。葬儀は11月30日に共立女学校が執り行い[3]熊野雄七稲垣信などが弔辞を述べた。ピアソンの墓所は横浜外国人墓地にある[1][2]

1904年、共立女子神学校は新築した講堂に「ピアソン・チャペル」と命名した[3]

ピアソンらが共同で作ったスクラップブック1冊が伝わり(ウィートン大学収蔵)、日本を含む海外で布教した宣教師たちの目から、南アジアおよび東アジアの世相と活動が記録してある[7][注釈 2]。伝道先の人々と祖国の支援者がやりとりした手紙も複数、綴じ込んであり、ピアソンの関与は明らかでも、資料として扱うには第三者資料による細部の裏付けが待たれる[8]

伝・ピアソンのアルバム

ウィートン大学収蔵資料「ルイーズ・H・ピアソン関係資料」(台帳番号720)[8]には『アルバム』と題した資料が伝わり、扉ページに手書きで「押し花は箱根旅行中(1880年)にL・ピアソン夫人が採取した植物」と記してある[7]。ページ最下部には「Marcus Ward & Co.」製と印刷してある(所在地はベルファスト[注釈 3])。革貼りの表紙は上部に活字体で「ALBUM」と入れてあり、縁飾りで囲んだ中に箔押しでもみじらしき立木の下に鹿が数頭、描いてある[7]

内面には押し花、写真、ニュースレターその他の記念品を貼り混ぜた[9]

脚注

参考文献

関連項目

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