ルイーズ・ピアソン
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来日
ピアソンは39歳の時、ジェームス・ハミルトン・バラが要請した日本への派遣に応じると、米国婦人一致外国伝道協会の宣教師として、メアリー・プライン、ジュリア・クロスビーと共に1871年6月25日に横浜港に降り立った[1][2]。三人は同年8月28日に横浜の外国人居留地山手48番地にあったバラ夫妻の家屋を借りて、家庭組織の塾舎[4]として「亜米利加婦人教授所」(アメリカン・ミッション・ホーム)を建設した[1]。三人の中でいち早く日本語を習得したのはピアソンだった[3]。プラインは経営と管理、クロスビーは教師と会計を担当し、ピアソンは校長として全科目を教え、混血児養育とキリスト教主義の女子教育を目指した[1]。ピアソンには音楽の素養もあり、ホームの祈祷会ではオルガンを弾き、讃美歌の歌唱を指導した[1][3]。
混血児や生徒が集まらず、クロスビーが街頭で呼び込みをしたこともあった[1]。当時、静岡学問所の教授だった中村正直がピアソンらのホームの教育を絶賛し、生徒募集の入学案内を書いて紹介した[1][2]。来日の翌年、1872年には山手212番地に移転し「日本婦女英学校」と改称した[1]。
移転を機に、女子教育専門の学校を設立することになり、来日5年目の1875年には同英学校を共立女学校と改めた[1][5]。そのころの生徒「セキ」が署名し、アメリカの支援者に宛てたカタカナ書きの手紙と、ピアソンによる英訳が伝わる[注釈 1]。
日本人女性の伝道者を育成するため、1881年には偕成伝道女学校(後の共立女子神学校)を開設して、初代校長に就任したピアソンは共立女学校長と兼務し[1]、伝道女学校の校長に専念したのは1891年以降である[1][2]。
訪問伝道を開始したのは女学校開設と同じ頃、1875年前後とされ、箱根や静岡県三島方面に出かけた[1]。伝道は聖書講読や家庭訪問が中心で、春夏の休暇には生徒を連れて東北や信州、四国などを巡り、持参したベビーオルガンで伴奏して讃美歌を歌い、パンフレットを配った[1]。
来日してから一度も帰国せず[1]、1899年11月28日[1][2]に67歳で現役のまま横浜で死去した。葬儀は11月30日に共立女学校が執り行い[3]、熊野雄七、稲垣信などが弔辞を述べた。ピアソンの墓所は横浜外国人墓地にある[1][2]。
1904年、共立女子神学校は新築した講堂に「ピアソン・チャペル」と命名した[3]。
ピアソンらが共同で作ったスクラップブック1冊が伝わり(ウィートン大学収蔵)、日本を含む海外で布教した宣教師たちの目から、南アジアおよび東アジアの世相と活動が記録してある[7][注釈 2]。伝道先の人々と祖国の支援者がやりとりした手紙も複数、綴じ込んであり、ピアソンの関与は明らかでも、資料として扱うには第三者資料による細部の裏付けが待たれる[8]。
