クランノンの戦い
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背景
紀元前323年、アレクサンドロス3世の死を知ったアテナイ人はレオステネスを指導者としてマケドニアのギリシアでの覇権に対して反乱を起こすことを決定した。彼らは傭兵を募集し、アイトリア同盟などを味方に組み入れた。当初アテナイをはじめとする反乱軍(22500人、うち騎兵は500騎)は兵力においてアンティパトロス率いるマケドニア軍に対して優位に立ち、当初は有利に戦いを進めた。彼らはアンティパトロスをラミアに包囲し、追い詰められたアンティパトロスはアジアにいたマケドニアの将軍たちに援軍を要請した[1]。
しかし、ラミア包囲中にレオステネスが頭を石で打たれて死に、アンティフィロスが後任の将軍に就任した[2]。アンティパトロスの援軍要請に最初に応じ、歩兵20000と騎兵1400を率いてきたレオンナトスはアンティパトロスをラミアから脱出させたが、それと引き換えにギリシア騎兵との戦いで戦死した[3]。続いてクラテロス率いるマケドニア軍(歩兵10000人、騎兵1500騎、ペルシア人弓兵・投石兵合わせて1000人)が到着し、レオンナトスの軍もあわせたマケドニア軍は重装歩兵40000人、弓兵と投石兵合わせて3000人、そして騎兵5000騎となり、兵力においてギリシア連合軍を圧倒した。クラテロスから指揮権を譲り受けたアンティパトロスは軍を率いてテッサリアに進入した。それに対し、ギリシア連合軍は緒戦での勝利のために状況を楽観視していたため、それぞれが故郷へ帰っており、兵力は十分ではなく、歩兵が25000人と騎兵が3500騎しかいなかった。ギリシア連合軍は友軍の到着を待とうとしたが、マケドニア軍が仕掛けてきたので、仕方なくそれに応じた[4]。