元東支鉄道職員であったアルメニア人メリク・ワルタニャンツが、中国語の新聞を発刊していた哈爾濱公報社社長である關鴻翼(关鸿翼[4])へ提案して、特別区行政長官の張煥相の補助を受けて創刊したとされるが、ソビエト連邦側の秘密支援により東支鉄道より莫大な支援を受けていたことが暴露され、關とワルタニャンツが罷免された[1]。
權世恩やサトフスキー・ルジェフスキーらが経営するようになると、ソビエト連邦の支援が無くなったことから経営が悪化した。特別区行政長官張景恵が介入し關鴻翼を再び社長とさせたことで、中ソ紛争では中国側の御用紙振りを発揮し、同じロシア語新聞の『ザリヤ』社長のレムビッチと共に反ソビエト感を出していたが、中国政策でのソビエトへの軟化と資金誘致のために中立となり、ソビエト連邦と連絡が取れるワルタニャンツを再び主筆とした。満州事変後は排日的な態度をとっていたため、1932年3月に強制接収が行われ一時廃刊となった。關が満州国に忠誠を誓ったため、5月に再び発刊が許可され、親日的態度となった[1]。
ハルビン市在住ロシア人社会を研究する際の資料となっている[5][6]。