ザリヤ

From Wikipedia, the free encyclopedia

ザリヤもしくはザリアロシア語: Заря、「暁光」の意)とは、白系ロシア人による白系露字新聞の一つであり、発行していた会社の名前でもある。日刊紙である[1][2]

亡命白系ロシア人であるエム・エス・レムビッチが発行人で、同じく亡命してきた主筆コープツェフ、記者としてシプコフ、ミハイロフらが参加し合資創刊した。1925年レムビッチの個人経営となり、新聞発行シンジケート「ザリヤ社」を組織する。日本の外務省情報局からは中立的で穏健な新聞とされている[2]

新聞社の所在地は、哈爾濱透龍街七號。朝刊のみで6ページから8ページ程度だが、日曜は16ページとなる。発行部数は1939年11月4日時点では4200部[3]

歴史

1910年、合法的活動を目指すメンシェヴィキ清算派 (リクヴィダートル、後に祖国防衛派となる) は、月刊のナーシャ・ザリヤ英語版ロシア語: Наша заря、「我等の暁光」の意[4])を発行したものの、1914年に廃刊となった[4]

ポーランド人のエム・エス・レムビッチ(M.S.Lembich。社長。ルーコスヱ・スローヴオロシア語版紙で従軍記者をしていた)は、オムスクのリュビンスキーで「ナーシャ・ザリヤ」を発行した[5][6]

1920年、ハルビンにおいて、レムビッチ、ケ・エヌ・シプコフ(編集長。臨時全ロシア政府国立出版部に勤務していた)、イヴァン・アドリアノヴィチ・ミハイノフロシア語版(元臨時全ロシア政府大蔵大臣)の共同出資により、日刊としてザリアが復刊された[5]。商人のコワリスキーなどからの融資や、グリゴリー・セミョーノフからの補助金も受けていた[5]

1925年、シプコフとミハイノフは経営から手を引いた[5]。1926年、レムビッチは、上海でシャンハイ・ザリア (Shanghai Zaria)を、天津で「ナーシャ・ザリヤ」(Наша Заря、ナーシャ・ザリャー)を発行した[5]。1929年、同業他社のルーコスヱ・スローヴオルーボルの権利を約半数取得した[5]

1932年、レムビッチが死去したことから、負債引受人であるアメリカ系のトリフトコール銀行の監督下に置かれると共に経営は、レムビッチの未亡人、カウフマン、シプコフ、コープツェフの共同経営となり、ハルピン市でザリヤとルポール、天津でナーシャ・ザリヤ、上海でシャンハイスカヤ・ザリアの4紙を発行した[2]

関連項目

出典

Related Articles

Wikiwand AI