サマセット・ロリー=コリー (第2代ベルモア伯爵)
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初代ベルモア伯爵アーマー・ロリー=コリーと1人目の妻マーガレット(1748年1月23日 – 1775年4月、初代キャリック伯爵サマセット・バトラーの娘)の息子として、1774年7月11日にダブリンのサックヴィル・ストリートで生まれ、8月8日にセント・トマス教会で洗礼を受けた[3]。家庭教師の教育を受けた[2]。
1797年アイルランド総選挙でバリーシャノン選挙区とティロン県選挙区からアイルランド庶民院議員に選出され、後者の代表として議員を務めた[1]。このうち、前者の選挙区は父が掌握していた[1]。1798年1月に初演説した[1]。アイルランド王国とグレートブリテン王国の合同に父とともに反対、1800年2月にもいつでも反対票を投じる決意を表明したが、合同法案の可決を見ていられないとして、同年6月7日の採決で議場から退出した[1]。このほか、1798年から1804年までティロン県民兵隊隊長を務めた[1]。
1801年に連合王国議会が成立すると、ティロン県選挙区選出庶民院議員として続投した[4]。しかし連合王国庶民院では活動の痕跡が確認できず、次期総選挙に備えて1801年11月にコリーが政権に対し中立を表明した程度だった[2]。そして、コリーはティロン県での選挙活動をはじめたが、1802年2月2日に父が死去、コリーはベルモア伯爵位を継承してティロン県での被選挙権を失った[3][4]。このとき、次期伯爵となる息子はまだ幼児で、代理で立候補できる兄弟もいなかったことから、ベルモア伯爵は代わりにアイルランド貴族代表議員への就任を目指すようになった[2]。
ティロン県選挙区ではもう1人の有力者初代アバコーン侯爵ジョン・ハミルトンが自身の推す候補を確実に当選させるためにベルモア伯爵と手を結ぶことを選び、ベルモア伯爵の連合王国貴族叙爵または貴族代表議員選出を口添えすることを約束した[4]。しかしアバコーン侯爵が1804年に政界での盟友である小ピットから拒否されると、ベルモア伯爵はアバコーン侯爵と決裂、代わりに1806年と1807年の総選挙でトマス・ノックス閣下と手を組み、ノックスを当選させた[4]。ノックスは挙国人材内閣を支持していたが、この内閣もベルモア伯爵に求めるものを与えなかった[4]。
1818年の総選挙において、ベルモア伯爵はノックスを見捨て、与党候補の初代準男爵サー・ジョン・ステュアートを支持した[4]。ベルモア伯爵はこのときも貴族代表議員選出を諦めておらず、この裏切りもそれを目指すための行動だった[4]。そして、ベルモア伯爵は1819年5月5日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1841年に死去するまで務めた[5]。1819年から1841年までティロン県の首席治安判事を務めた[3]。その後も選挙活動を続け、1823年には長男アーマーをファーマナ県選挙区で当選させた[1]。
1828年11月19日にジャマイカ総督に任命された[1]。在任中の1831年にバプティスト戦争が勃発したことで、イギリス領における奴隷制度の廃止が早められた[1]。1832年、陸軍・植民地大臣の初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ロビンソンと折り合いがつかず、本国に召還された[1]。
1839年にロングフォード県の地所を売却した[1]。同年に卒中を起こして体に麻痺をきたし、快復しないまま[1]1841年4月18日にウォリックシャーのロイヤル・レミントン・スパで死去、29日にティロン県カリドンで埋葬された[3]。長男アーマーが爵位を継承した[3]。