サマセット・ロリー=コリー (第2代ベルモア伯爵)

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第2代ベルモア伯爵サマセット・ロリー=コリーSomerset Lowry-Corry, 2nd Earl Belmore1774年7月11日1841年4月18日)は、アイルランド王国出身の政治家、貴族アイルランド庶民院議員を務め、父とともに1800年合同法に反対した[1]。短期間連合王国庶民院議員を務めた後、爵位を継承し、政府への支持とティロン県選挙区英語版への影響力をもとにアイルランド貴族代表議員への選出を目指し、20年近くの努力を経て1819年に成功した[2]

爵位継承以前はコリー子爵儀礼称号を使用した[1]

初代ベルモア伯爵アーマー・ロリー=コリーと1人目の妻マーガレット(1748年1月23日 – 1775年4月、初代キャリック伯爵サマセット・バトラーの娘)の息子として、1774年7月11日にダブリンサックヴィル・ストリート英語版で生まれ、8月8日にセント・トマス教会英語版で洗礼を受けた[3]。家庭教師の教育を受けた[2]

1797年アイルランド総選挙英語版バリーシャノン選挙区英語版ティロン県選挙区英語版からアイルランド庶民院議員に選出され、後者の代表として議員を務めた[1]。このうち、前者の選挙区は父が掌握していた[1]。1798年1月に初演説した[1]アイルランド王国グレートブリテン王国合同に父とともに反対、1800年2月にもいつでも反対票を投じる決意を表明したが、合同法案の可決を見ていられないとして、同年6月7日の採決で議場から退出した[1]。このほか、1798年から1804年までティロン県民兵隊英語版隊長を務めた[1]

1801年に連合王国議会が成立すると、ティロン県選挙区英語版選出庶民院議員として続投した[4]。しかし連合王国庶民院では活動の痕跡が確認できず、次期総選挙に備えて1801年11月にコリーが政権に対し中立を表明した程度だった[2]。そして、コリーはティロン県での選挙活動をはじめたが、1802年2月2日に父が死去、コリーはベルモア伯爵位を継承してティロン県での被選挙権を失った[3][4]。このとき、次期伯爵となる息子はまだ幼児で、代理で立候補できる兄弟もいなかったことから、ベルモア伯爵は代わりにアイルランド貴族代表議員への就任を目指すようになった[2]

ティロン県選挙区ではもう1人の有力者初代アバコーン侯爵ジョン・ハミルトンが自身の推す候補を確実に当選させるためにベルモア伯爵と手を結ぶことを選び、ベルモア伯爵の連合王国貴族叙爵または貴族代表議員選出を口添えすることを約束した[4]。しかしアバコーン侯爵が1804年に政界での盟友である小ピットから拒否されると、ベルモア伯爵はアバコーン侯爵と決裂、代わりに1806年1807年の総選挙でトマス・ノックス閣下と手を組み、ノックスを当選させた[4]。ノックスは挙国人材内閣英語版を支持していたが、この内閣もベルモア伯爵に求めるものを与えなかった[4]

1818年の総選挙において、ベルモア伯爵はノックスを見捨て、与党候補の初代準男爵サー・ジョン・ステュアート英語版を支持した[4]。ベルモア伯爵はこのときも貴族代表議員選出を諦めておらず、この裏切りもそれを目指すための行動だった[4]。そして、ベルモア伯爵は1819年5月5日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1841年に死去するまで務めた[5]。1819年から1841年までティロン県の首席治安判事英語版を務めた[3]。その後も選挙活動を続け、1823年には長男アーマー英語版ファーマナ県選挙区英語版で当選させた[1]

1828年11月19日にジャマイカ総督に任命された[1]。在任中の1831年にバプティスト戦争英語版が勃発したことで、イギリス領における奴隷制度の廃止が早められた[1]。1832年、陸軍・植民地大臣初代ゴドリッチ子爵フレデリック・ロビンソンと折り合いがつかず、本国に召還された[1]

1839年にロングフォード県の地所を売却した[1]。同年に卒中を起こして体に麻痺をきたし、快復しないまま[1]1841年4月18日にウォリックシャーロイヤル・レミントン・スパで死去、29日にティロン県カリドン英語版で埋葬された[3]。長男アーマー英語版が爵位を継承した[3]

家族

出典

外部リンク

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