サマセット・ロリー=コリー (第4代ベルモア伯爵)
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第4代ベルモア伯爵サマセット・リチャード・ロリー=コリー(Somerset Richard Lowry-Corry, 4th Earl Belmore GCMG PC (Ire)、1835年4月9日 – 1913年4月6日)は、イギリスの政治家、アイルランド貴族。10歳で爵位を継承して、アイルランド貴族代表議員、内務省政務次官、ニューサウスウェールズ総督を歴任した[1]。総督就任から2か月後、ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子がクロンターフを訪問して、ヘンリー・オファレルによる暗殺未遂事件が起きたが、冷静に対処した[2]。内政では財政改革に着手したが、退任直前に首相サー・ジェームズ・マーティンが採決敗北を理由に解散総選挙を進言、伯爵が助言を受け入れたことで議会に非難された[2]。
生い立ち
第3代ベルモア伯爵アーマー・ロリー=コリーと妻エミリー・ルイーズ(1814年5月3日 – 1904年1月3日、ウィリアム・シェパードの娘)の息子として、1835年4月9日にメイフェアのブルートン・ストリートで生まれた[1]。1845年12月17日に父が死去すると、ベルモア伯爵位を継承した[1]。イートン・カレッジを経て、1853年2月22日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学、1856年にM.A.の学位を修得した[3]。
政界入り
1857年1月13日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1913年に死去するまで務めた[4]。第3次ダービー伯爵内閣期、1866年7月から1867年7月まで内務省政務次官を務めた[1]。
ニューサウスウェールズ総督
就任時の状況
1867年8月22日にニューサウスウェールズ総督に任命され[5]、同年9月17日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。1868年1月8日にニューサウスウェールズ総督に着任した[2]。
ベルモア伯爵が総督を務めた時代のオーストラリアでは責任政府がすでに設立されていたが、総督職はまだ名誉職と化しておらず、イギリス帝国に責任を負う官僚、植民地政府を率いる君主の代表としての役割があった[2]。このとき、ニューサウスウェールズの人口は約45万人であり、収入は土地の売却、地代、税率の低い関税に依存していた[2]。羊毛の値段が下落した結果、1864年に従価税方式の関税が導入されており、保護貿易が主流になっていたが、保守党所属で自由貿易派のベルモア伯爵は着任してすぐに財政問題に着手した[2]。
アルフレッド王子暗殺未遂事件

財政問題に解決の端緒が開く前に事件が起こった。ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子がクロンターフを訪問し、1868年3月12日にヘンリー・オファレルがアルフレッド王子を銃撃するという暗殺未遂事件である[2]。ベルモア伯爵は離れたところにいて、事件を目撃しなかったが、冷静に対処し、直ちにアルフレッド王子をシドニーに護送して治療にあたるよう命じた[2]。
オファレルは標的がベルモア伯爵で、自身が単独犯であると供述した[2]。アルフレッド王子が寛容を求めた一方、首相サー・ジェームズ・マーティンは治安維持を目指し、反逆重罪法(Treason Felony Act)を1日で可決させた[2]。ここでもベルモア伯爵は冷静に判断して、反逆重罪法が慎重に適用されるべきだと主張して、本国の植民地省も賛成した[2]。
財政改革
暗殺未遂事件が一段落し、本国の植民地大臣第3代バッキンガム=シャンドス公爵が1868年3月に「シドニーを今のヴィクトリアのような(憲政の)混乱に陥れさせないことを望むほかは、何も言うことはない」とベルモア伯爵に述べたことで、伯爵は財政改革に着手した[2]。
1869年7月、ニューサウスウェールズ財務大臣サウル・サミュエルはベルモア伯爵に対し、国庫からの支出が大臣から勧告されている限り、総督は議会による可決なしに令状(warrant)をもってそれを承認できると保証した[2]。すなわち、総督は実質的には「女王陛下のみに責任を負う(中略)国庫の監査官」(サミュエルの言葉)である[2]。ベルモア伯爵はこの制度が違法であると判断し、本国の植民地省も厳密な法律の場合行政はニューサウスウェールズ両院の許可を得たうえでなければ支出を承認できないとしたうえで、緊急時のために特例を設けることが望ましいとした[2]。サミュエルは本国政府が植民地独立の原則に違反していると抗議したが、結局1870年5月に法改正が行われた[2]。
その他の政策
在任中のニューサウスウェールズ州では1870年のシドニー植民地間博覧会、1871年4月のノーザン鉄道のスコーン駅への延長といった出来事があった[2]。
外交では1870年の普仏戦争勃発に伴い太平洋におけるフランス軍の情報、シドニーの防衛に関する助言を本国に送った[2]。マーティン内閣がフィジー王国(1871年建国)を併合すべきと主張すると、その意見を本国の植民地省に送ったが、このときは植民地省が併合に反対、国王セル・エペニサ・ザコンバウとの外交を展開すべきと返答した[2]。
退任
1871年6月26日に1872年3月付で総督を退職することを発表した[2]。辞任の理由に妻の健康、議会活動と領地管理を挙げた[2]。1872年1月25日にマーティン内閣が国境税に関する採決で敗れると、ベルモア伯爵はマーティンの進言を容れて議会を解散した[2]。これに対し議会が激怒して、選挙期間は金銭法案を可決しないと宣言した[2]。ベルモア伯爵は同年2月21日にシドニーを発ち、暫定総督に就任したアルフレッド・スティーブンは後に「B卿の議会解散はダウニング街から反対されなかったばかりか、論争における彼に対する怒りに驚いた」と述べた[2]。
1872年3月22日、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダーを授与された[1]。
現ニューサウスウェールズ州シドニーにはベルモア伯爵に因んで名付けられたベルモア・パークがあり、同州のゴウルバーンにも伯爵に因んで名付けられた公園がある[2]。
総督退任以降
帰国以降、ベルモア伯爵は領地管理に専念した[2]。というのも、彼は1883年時点でティロン県に14,388エーカー、ファーマナ県に5,041エーカーの領地を所有し、合計で年収11,015ポンドに相当した[1]。1890年新年記念叙勲の一環として、1890年1月1日に聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[6]。1892年2月20日にティロン統監に任命され、1913年に死去するまで務めた[7]。
1913年4月6日にファーマナ県エニスキレンのキャッスル・クールで死去、9日にファーマナ県デリーヴランで埋葬された[8]。