サワーンワッタナー
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幼少期と教育
シーサワンワッタナーは、1907年11月13日にルアンパバーンにおいて、シーサワン・ウォン国王とカムウン王妃の長男として誕生した。
10歳の時にフランスへ留学し、モンペリエで中等教育を受けた後、パリで法律、政治学、外交を学んだ。
帰国後、1930年にルアンパバーン王国の事務総長に任命され、1936年にはフランスのレジオンドヌール勲章を授与された。親仏的な感情を持つ人物として知られていた[2]。
家族と私生活
サワンワッタナーは、学業を終える前の休暇中にカムプイ王妃と結婚した。ラオス王室に古くから伝わる一夫多妻制の伝統を自ら放棄した[3]。
5人の子女をもうけた[3]。
- ウォン・サワーン皇太子(ラーオ語: ເຈົ້າຟ້າຊາຍວົງສວ່າງ ): 1959年に皇太子に指名。
- サウィーワンサワーン・マニヴォン王女(ラーオ語:ເຈົ້າຟ້າຍິງສວີວັນສວ່າງ ມະນີວົງສ໌ )(革命後フランスへ亡命)
- ダーラーサワーン・シースパーヌヴォン王女(ラーオ語: ດາຣາສວ່າງ ສີສຸພານຸວົງສ໌) (革命後フランスへ亡命)
- シーサワーン王子(ラーオ語:ເຈົ້າຟ້າຊາຍ ສີສວ່າງ)
- スリヤ・ウォンサワーン王子(ラーオ語:ເຈົ້າຟ້າຊາຍ ໂສຣິຍາ ວົງສວ່າງ)(革命後フランスへ亡命)
読書家であり、特にフランス文学を愛した。ルアンパバーンの王宮には、膨大なコレクションを備えた図書館を築いていた。また、農業への関心も高く、王立農場では現代的な農業機械や肥料の導入を自ら実験していた[3]。
統治

1941年8月には、ルアンパバーン王国の保護国範囲を明確にする条約が父王によって署名されたが、この際、教養ある皇太子は、より独立した権限を与えられた。また、王国の行政近代化の一環として、彼を長とする国王の私的諮問委員会が設置された[1]。
彼は当初フランスへの忠誠を維持していたが、日本軍が明号作戦を起こしルアンパバーン王都に到達すると、1945年4月8日に王国の独立と日本との協力を宣言した[4]。しかし、終戦後の1945年8月30日、フランス当局(インフェルト大佐)の要請により、彼は保護領の地位は消滅しておらず、日本による独立宣言は無効であると宣言させられた[4]。
1950年代半ば以降、病弱な父王に代わって王室の職務を担うようになり、1959年8月に摂政に任命された[2]。
1959年11月1日、父であるシーサワン・ウォン国王の逝去に伴い王位を継承し、1975年の退位までの16年間、ラオスを統治したが、第二次インドシナ戦争(1959–75年)の勃発による混乱のため、平和が戻るまで正式な戴冠式を延期した[5]。戴冠式を内戦状態にあったラオスの「国民的和解の象徴的頂点」にするという強い願いを持っていた[6]。
1961年4月に行われた父王シーサワーンウォンの葬儀の際、サワンワッタナーは参列していたカンボジアのノロドム・シハヌーク殿下に対し、「私はラオスの最後の王になる運命にあるのだ」と深く悲観的な言葉を漏らしたと伝えられている[6]。
常に、ビエンチャンの政治的争乱から遠く離れた、王都ルアンパバーンに隠棲する、やや隔絶された人物であった[2]。
政治的立場と内戦
反共主義的立場
シーサワン・ワッタナー国王は、ラオス内戦の期間中、主にスワンナ・プーマ首相が推進する中立政策を支持したが、彼自身は強固な反共主義者であり、親米的な立場を取った[5]。
民主主義の維持
1960年8月のコン・レーによるクーデターなどの圧力に対し、首相職を直接引き継ぐことを拒否し、憲法上の君主制を守ることに重点を置いた。1962年のジュネーブ協定に基づいて樹立された第二次連合政府を全面的に支持した。1964年と1965年に右派勢力によってクーデターが試みられた際も、国王はクーデター勢力の要求を拒否し、スワンナ・プーマ政権を支えた[2]。1967年5月には、7年ぶりに国民議会を開会するなど、民主主義を復活させる動きを見せた[5]。
国民統合の試み
ナショナリズムと王室への忠誠を植え付けるためのプログラムを推進した。特に、1947年に創設したラオ・スカウト運動を支援し、1963年7月にはすべての公立学校の生徒に参加を義務付けた,。スカウトは「国家のために善と正義を築く」ことを目的とし、国王への忠誠を誓うことが第一の原則とされた[5]。
退位
1975年4月にカンボジアと南ベトナムで共産主義勢力が勝利し、ラオス国内でパテート・ラオによる政治的圧力が激化すると、国王は危機に直面した[2]。パテート・ラオは当時成立していた暫定国民連合政府に対する最後の大攻勢をかけ、1975年8月までにヴィエンチャンを占領した。
当初、パテート・ラオは王制の維持を約束していたが、権力を完全に掌握するとその方針を翻した。元ラオス王国政府首相のスワンナ・プーマ殿下が退位の仲介役を務め、最終的に国王は1975年12月1日に退位を余儀なくされた。政権側は、国王が「自らの意思で、国の進歩のために権力を人民に返還した」と宣伝した[6]。これにより、600年にわたるラオス王制は終焉を迎えた[2]。
退位後、彼はラオス人民民主共和国(LPDR)大統領顧問(新政府の初代国家主席に就任したのは王族出身のスパーヌウォンだった。)という名目的な地位を与えられたが、実質的な役割はなかった。
退位前後の動き
- 1974年6月: 最後の米軍「顧問」がラオスを出国。
- 1975年4月: カンボジアと南ベトナムが陥落。パテート・ラオが王国政府への大攻勢を開始。
- 1975年8月23日: パテート・ラオ軍がヴィエンチャンを占領。
- 1975年11月19日: 国王がルアンパバーンにて地元の村長らを招いて宴会を主催。これが事実上、国王としての最後の公的行為の一つとなった。
- 1975年12月1日: サワンワッタナー国王が正式に退位。
- 1975年12月2日: ラオス人民民主共和国の樹立を宣言、王制が廃止。サワンワッタナーは国家主席(スパーヌウォン)の最高顧問に任命された。
- 1976年4月: 元国王に対し、ルアンパバーンの王宮(現ルアンパバーン博物館)を明け渡すよう命令が下され、私邸であるホー・シェントーンへ移住[6]。
逮捕、逝去
1977年初頭、反政府ゲリラ勢力が国王と皇太子を「解放」し、民衆の結集点にしようとしているという噂が流布した[4]。1977年3月、カンプイ王妃と共に逮捕された[2]。国王はヴォン・サワン皇太子らと共に、ホアパン県のヴィエンサイにある再教育キャンプに送られ、そこで劣悪な環境に置かれたと報告されている[2]。
1977年に国王が逮捕される直前、ルアンパバーンでは不思議な噂が流れた。宮殿近くに「警察が捕まえようとしてもすり抜け、弾丸も貫通しない不思議な力を持つシャーマン」が現れた。このため彼から国王を守るという名目で、国王はヘリコプターに乗せられ連れ去られたという、逮捕を正当化するための物語がある[6]。
シーサワンワッタナー国王は、マラリアまたは失意のため、おそらく1980年3月に逝去したとされている[2]。カンプイ王妃もまた1984年より前に同地で逝去した[2]。彼の死因や正確な日付については、公式な情報として明らかにされていない[2]。
1989年のカイソーン・ポムヴィハーンのパリ訪問時に、「王は自然死だったと、今ここでお伝えできる。彼は高齢だった。誰にでも起こることだ」と、唯一の公式訪問を出した[7]。
アメリカによる評価
アメリカの外交官や政策立案者たちは、サワーン・ワッタナーを極めて博識で洗練された人物として認識していた。一方でアメリカ政府内では、彼の政治的リーダーシップに対して極めて厳しい評価が下されていた。
- 洗練された教養
- 彼はパリ政治学院で学び、マルセル・プルーストを愛読し『失われた時を求めて』を頻繁に引用するほど、西洋文化に深く通じていた。博識で旅慣れた、高潔で真面目な人物であった[8]。
- 主体性の欠如
- ワシントンやヴィエンチャンの米国大使館からは、対立する派閥を制御するのに必要な「尊敬と熱意」に欠けていると見なされていた。また、状況に受動的に従うだけの「準拠的な名目上の人物」であるとも評されていた[9]。
- 合憲性への拘り
- 立憲君主としての立場を厳守し、日常的な権力闘争から距離を置いていたが、アメリカ側はこれを「危機の際に介入して状況を正そうとしない無価値な存在」と断じることがあった[10]。