第二次世界大戦中、インドシナ情勢が混乱する中、シーサワーンウォンはラオス国王として重要な政治的決断を下した。
太平洋戦争 末期の1945年3月9日日本軍 が明号作戦 を発動し、インドシナ に駐留するフランス軍を攻撃、駆逐した。当時のラオスは交通不便な山地であったため、日本領事 渡辺耐三 がラオス王宮 にたどり着いたのは3月20日頃、同領事は、国王にフランス軍を駆逐したことを伝えたが、シーサワーンウォンは当初はこれを信じなかった[ 4] 。この時、フランスを支援するか、日本が命じる独立を受け入れるかの決断を迫られた[ 2] 。その時、何百人ものラオス人が、日本軍に対抗してジャングルへと逃れるフランス人に従った。国王と皇太子は反日運動に同調し、日本が要求したラオスの独立宣言を遅らせた[ 2] 。
しかしながら、4月7日に日本軍部隊の姿を見るに到って、漸く領事の言を信じ[ 4] 、4月8日、日本の圧力によりフランスとの保護条約は無効であると宣言し、ラオスの独立を布告せざるを得なくなった[ 1] 。
シーサワンヴォン
1945年8月の日本の降伏後、国王はフランスの帰還を支持する忠誠主義運動を率いた[ 2] 。また、息子のサワーンワッタナー 皇太子の全面的な支持を得て、フランスの保護領が依然として有効であると直ちに宣言した[ 1] 。
この宣言は、独立を主張するラーオ・イサラ の指導者ペッサラート 王子の不興を買い、国王はペッサラートを首相兼副王から解任した[ 1] 。これに対し、ラーオ・イサラ の勢力は1945年10月20日に暫定人民議会(Provisional People’s Assembly)を開き、国王の廃位を議決した[ 1] 。最終的に国王と皇太子は逮捕された[ 2] 。
交渉が続き、最終的に「元国王」は1945年11月10日にラーオ・イサラ を承認し、フランスと条約を結ばないことを誓約した。「好むと好まざるとにかかわらず」与えられた支持により、彼は1946年4月20日に復位することに同意し、1946年4月23日、国王は暫定憲法とラーオ・イサラ 政府の行動を合法化する交渉に応じ、復位した[ 2] 。
翌日、ヴィエンチャンは自由フランス軍によって陥落し、その頃には国全体が再征服されることは明らかな状態であった[ 2] 。
ビエンチャンにあるシーサワンヴォンの銅像 1946年5月12日、フランス軍がルアンパバーン市に入城する前日、サワーンワッタナー 親王は元フランス・ラオス高等弁務官ジャン・ド・レイモンからの書簡を受け取った。そこには、「フランスはシーサワーンウォン国王陛下の高い権威の下でラオスが統一されることを望んでいる」という新たな同盟についての言及があった[ 2] 。
1946年5月13日、シーサワーンウォンは、帰還したフランス当局者をルアンパバーンに個人的に出迎え。1946年5月14日、 国王はフランスの申し出を受け入れ、民主憲法を制定すると宣言[ 2] 。
1946年6月、委員会が新しい暫定協定(modus vivendi)を起草1946年8月27日、フランス・ラオス間暫定協定(Franco-Lao modus vivendi)に署名、戦争によって断絶された植民地的な絆が修復された[ 2] 。シーサワンウォンは統一ラオス王国の国王となった[ 2] 。
これに先立ち、南部ラオスを統治していたチャンパーサック王家のブンウム王(Boun Oum)は、ラオスの統一の利益のためにチャンパーサック王国の王位継承権を放棄することに同意した。この放棄は協定の付属議定書に盛り込まれている[ 1] 。
ラオス王国の1947年憲法は、憲法制定議会で選出された代議員によって1947年4月28日に制定され、同年5月11日に国王の布告によって公布された。
1947年3月15日、シーサワーンウォンは王政の優位性を再確立する新憲法を起草するため、憲法制定議会を召集した。 44名の議員中35名は北部出身者が支配する行政機関の役人であった。本憲法は、ラーオ・イサラ 運動が起草したものと比較して、明らかにエリート主義的であり、王政中心のものであった。新憲法の前文では、「ラオスの住民は、王政への忠誠と民主主義の原則への愛着を確認し、シーサワーンウォン陛下をラオスの主権者として宣言する。」としている。民主主義は王政の下に置かれ、新憲法はラーオ・イサラ 版から特定の民主的要素を削除し、国王を国民議会の上に位置づけた[ 2] 。
1947年5月11日に憲法が公布された[ 2] 。この憲法は、ラオスを「単一で不可分な民主的な王国」であると宣言され、ラオス語が公用語、仏教が国教と定められた[ 1] 。
この憲法は7つのセクションと44の条文で構成され、国王の役割(継承は男系)、閣僚評議会、国民によって選出される国民議会、国王諮問評議会、行政および司法の役割が規定された[ 1] 。
この憲法は、1954年のジュネーブ協定 に対応するため1956年9月29日に改正され、さらに1961年~62年のジュネーブ会議に備えるため1961年7月30日に再度改正された。ラオス王国がラオス人民民主共和国に取って代わられた1975年12月2日まで効力を持ち続けた[ 1]
1953年からラオスはルアンパバーンを王都(royal capital)とし、ヴィエンチャンを行政首都(administrative capital)とする二都制が敷かれた[ 1]
1953年から健康の衰えと共に公的な生活から姿を消していった。この頃から息子のサワーン・ワッタナー はより多くの公務を引き受けるようになった[ 2] 。
ワット・シェントーンに保管されているシーサワンヴォンの霊柩車
シーサワンウォン国王は第二次インドシナ戦争の開始直前、1959年10月29日に逝去するまで統一ラオスの国王の地位にあり、その後は長男のサワーンワッタナー が王位を継承した。国王の遺体は、翌1960年に儀式的な火葬に付された。
彼の死は、息子のサワーンワッタナー が戴冠式を延期せざるを得ないほどの激動の時代の始まりを告げるものであった[ 2] 。
彼が死去した時、彼は世界で最も在位期間の長い君主であると言われた。シーサワーンウォンの死は国民に衝撃を与え、ペッサラート 親王の死から1か月も経たないうちに起きたこともあり、一つの世代の終わりを告げるものであった[ 2] 。
現在、彼の旧居であったルアンパバーンの王宮はルアンパバーン国立博物館 となっているが、その庭にはシーサワーンウォン王の像が残されている。この像は、革命後に破壊を免れましたが、これは像がソビエト連邦からの贈り物であったため、撤去が外交上の配慮に欠けると見なされたためである[ 5] 。
シーサワンウォン国王はルアンパバーンに留まり、王室の公務に専念し、ルアンパバーンにある王室の寺院、特にワット・シエントーン を美化するなど、ラオス伝統芸術の偉大な後援者として知られている[ 1]