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サヴィル幾何学教授

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サヴィル幾何学教授[1][2](サヴィルきかがくきょうじゅ、英: Savilian Professor of Geometry)の地位は、1619年にオックスフォード大学で設立された[3]。オックスフォード大学マートン・カレッジ学長(英語版)、イートン・カレッジ学長(英語版)を務めた数学者・古典学者のヘンリー・サヴィル(英語版)が、「イングランドにおける数学研究の悲惨な状況」というある数学者の嘆きに反応してサヴィル天文学教授(英語版)と同時に創立した[4]。初代教授には、ヘンリー・ブリッグスが任命された。1931年から1963年までこの教授職を務めたエドワード・ティッチマーシュ(英語版)が教授への応募時に、幾何学の講義を行う準備ができていないと述べた際、幾何学講義の職務は除去されたものの、「幾何学教授」という肩書きは変更されなかった。19世紀後半以来、2つのサヴィル教授職はニュー・カレッジ(英語版)の教授フェローシップと結び付けられてきた。19世紀半ばまでの約175年間、幾何学教授はニュー・カレッジ・レーン(英語版)に公式に住居を有していた。

A tall elderly man with a beard, wearing long black robes and a large white ruff. He is standing with a fan in his right hand and with his left hand resting on books on a table.
サヴィル幾何学教授職創立者であるヘンリー・サヴィル(英語版)。

2026年現在までに、21人が教授職を勤めた。2017年から2025年まで務めたフランシス・カーワン(英語版)は初めてサヴィル幾何学教授に就任した女性であった。この職務は現在まで多くの著名な数学者に保持されてきた。初代教授のブリッグスは「数学の中で最も使いやすい体系」と形容される常用対数の発展に寄与した[5]。3代目に教授を務めたジョン・ウォリスは無限の概念に対し∞記号を使用し、「当時の一流数学者の一人」であると述べられた[6]。ハレー彗星の周期を予測したエドモンド・ハレーとその後任者のナサニエル・ブリスは王室天文官を務めた。スティーヴン・ピーター・リゴー(英語版)は「彼の生きた世代の中で屈指の天文学・数学史家」と呼ばれた[7]。 ジェームズ・シルヴェスターは、その生涯と仕事を敬して王立協会によりシルヴェスター・メダルを設立された。エドワード・ティッチマーシュ(英語版)はシルヴェスター・メダルを受賞した。シルヴェスターとマイケル・アティヤはコプリ・メダルを授与された。アティヤは在職中にフィールズ賞も受賞した。

設立と職務

オックスフォード大学マートン・カレッジ学長(英語版)、イートン・カレッジ学長(英語版)を務めたヘンリー・サヴィル卿(英語版)は、20世紀の数学者アイダ・バスブリッジ(英語版)の「イングランドにおける数学研究の悲惨な状況(the wretched state of mathematical studies in England)」という嘆きに深い悲しみを覚え[4]、1916年にオックスフォード大学で幾何学と天文学の教授職を設立した。サヴィルは「主に数学の書籍の読者のために」、ボドリアン図書館に本を寄贈した[4]。教授には人格が優れ、26歳以上で、科学の根本的な知識を得る以前に「アリストテレスとプラトンを源泉としてより純粋な哲学の知識を吸収していた」男性を必要とした[8]。また、キリスト教国出身者であればよいとされたものの、イングランド出身の者は最低限修士であることが求められた[9]。生徒には古代を代表する一流科学者の作品、例えばエウクレイデスの『原論』やアポロニウスの Conics 、アルキメデスの作品群に学ぶことを望んだ。三角法の授業は2人の教授に分担された。多数の学生が数学の知識に乏しければ、(当時オックスフォード大学で使用されていたラテン語ではなく)英語で基礎数学を講義することも許可された[8]。

任命

サヴィルが最初に教授に選出した人物は、グレシャム・カレッジ(英語版)の天文学教授(英語版)を務めていたエドマンド・ガンターであった。ガンターは比例コンパス(英語版)と象限儀の使用法を実践したことで記録されているが、サヴィルはこれを幾何学でなく「奇術の披露」であるとみなして、1619年にグレシャム幾何学教授(英語版)のヘンリー・ブリッグスを選んだ[8]。1620年、ブリッグスは年給150ポンド[注釈 1]で雇われ、イギリスで設立された2つの数学職に最初に就くこととなった[4][5]。

サヴィルは生涯の間教授を任命する権利を有した。自身の死後はカンタベリー大主教やオックスフォード大学学長(英語版)、ロンドン司教(英語版)、国王秘書長官、民訴裁判所主席裁判官、国王座部主席判事(英語版)、財務府裁判所主席判事(英語版)、アーチーズ裁判所主席判事(英語版)など「極めて錚錚たる人物」群の大多数の指名で任命されることを命じた[11]。オックスフォード大学副学長(英語版)は欠員を彼ら有権者に知らせ、必要ならば進言を行うことができた。任命は即座に行われることも、英国外から「著名な数学者を招聘すること」ができるかを判断するために数か月議論を遅らせることも可能であった[11]。

19世紀の大学再編の一環として、1881年にオックスフォード大学委員会委員は新しい法令を定めた。サヴィル幾何学教授は「純粋幾何学及び解析幾何学の講義と指導」を行い、ニュー・カレッジ(英語版)のフェローとなることが定められた[12]。教授職任命の有権者はニュー・カレッジ学長(または大学に学長と代わる人物として選ばれた人物)、 オックスフォード大学学長(英語版)、王立協会代表、オックスフォード大学セッドリー自然哲学教授(英語版)、ケンブリッジ大学セッドリー純粋数学教授(英語版)、および大学評議会とニュー・カレッジによってそれぞれ選ばれた人物1名とされた[12]。1931年から1963年まで教授を務めたエドワード・ティッチマーシュ(英語版)は任命時に幾何学の講義を行う準備ができていないと述べた。ティッチマーシュの任命を果たすため、幾何学講義の職務が除去されたが、幾何学教授の肩書は変更されなかった[13]。20世紀及び21世紀初頭の大学内部の法令の改正によってサヴィル教授などの個々の任命と職務に関する法令が廃止された。現在、大学評議会は勤務条件と教授任命の適切な段取りを作成する権限を与えられている。有権者委員会には、教授職が割り当てられているカレッジ(サヴィル教授の場合はニュー・カレッジ) から2人の代表者が送られる[14][15]。

教授の住居

サヴィル幾何学教授が正式に使用するニュー・カレッジ・レーン(英語版)に面する住宅。

1649年から1703年までサヴィル幾何学教授を務めたジョン・ウォリスは1672年から1703年(没年)までニュー・カレッジ・レーン(英語版)沿いに住居を借りていた。あるときに住宅は2つに分割され、サヴィル天文学教授のデイヴィッド・グレゴリー(英語版)が晩年に東側の区画に居住した。ウォリスとグレゴリー間の賃貸契約書は残されていない(両者の間で契約が交わされていたかも不明)。1701年に初めて教区の台帳にグレゴリーの名が現れている。ウォリスの息子が1704年に父の長期の在任を記念して、残存する賃借権を譲渡し、2人のサヴィル教授に公式に邸宅が提供された。ニュー・カレッジは1716年から低廉な賃料で賃貸借契約を更新し、1814年まで定期的に契約を更新した。各住宅の居住者に関する記録は全期間を通じて残っているわけではないが、現存の文書から教授らがしばしば住居を転貸し、また18世紀初頭には下宿屋としても使われていたことがわかっている。スティーヴン・リゴー(英語版)は1810年からサヴィル天文学教授となった1827年までこの住居に滞在し、その後ベーデン・パウエル(英語版)が家族とともに居住した。幾何学教授は天文学教授よりも長期間この住居と関わってきた。ラドクリフ天文台が1770年代に建設されると、所長職が天文学教授職と兼務とされ、その職務に伴う住居が提供されたためである。大学側が天文学教授の家を転貸した。19世紀初頭にはニュー・カレッジが自らの所有地として物件を使用することを決定し、1854年に賃貸借契約が満了した[16]。

教授の一覧

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サヴィル教授職の年表[3]
肖像 名前 就任期間 出身校[注釈 2] 教授を務めた大学 備考
ブリッグス, ヘンリーヘンリー・ブリッグス 1619–1631 ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版) マートン・カレッジ[注釈 3] ブリッグスはケンブリッジ大学で数学と物理学(医学物理学)の講師をしていた。1957年にはグレシャム・カレッジ(英語版)の幾何学教授に就任した。1615年までに自然対数の原理を習得した。対数の計算は桁の大きい数の掛け算を足し算として扱えるため、天文学や航海の計算でよく使用された。ブリッグスはネイピアに常用対数を使用することを提案した。エディンバラに住むジョン・ネイピアをブリッグスが2度訪問した後、2人は対数法の再定義に合意した。1617年に健康状態が悪くなったネイピアは、ブリッグスらに計算を任せる旨を記している。ブリッグスは「数学において最も扱いやすい体系の一つ」を作ったと認識されている[5]。 1624年の主要な作品 Arithmetica logarithmica には1から20000、90001から100000までの対数が小数第14位まで記述されている。1631年にマートンで没し、マートン・カレッジ・チャペル(英語版)のクワイヤに埋葬された[5]。
ピーター・ターナー(英語版) 1631–1648 セント・メアリー・ホール(英語版) 及びクライスト・チャーチ マートン・カレッジ ターナーは1620年にブリッグスのグレシャム・カレッジ(英語版)の幾何学教授を後任した。1631年にサヴィル幾何学教授を引き継いでグレシャムの教授職を辞任した。辞任以前にターナーはカンタベリー大主教とオックスフォード大学学長(英語版)を務めていたウィリアム・ロードに大学統治のための新しい法令の草案作成の援助を依頼され、1634年に、ターナーの書いた最後の草案が公布された。イングランド内戦時、ターナーは騎士党側に所属し1641年にストウ=オン=ザ=ウォルド近くで捕らえられた。1643年の捕虜交換までサザークに収容された。1648年の国会議員監査(英語版)でマートンのフェローシップと教職から退くこととなり、1652年に貧困のうちに没した。実質的な出版物はほとんどないが、現代では数学者・古典学者としてよい評判を受けている[18]。
ウォリス, ジョンジョン・ウォリス 1649–1703 ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジ エクセター・カレッジ[注釈 4] ケンブリッジ大学に入学する以前、15歳のウォリスは兄から多分野に渡って数学を教えられた。後に自伝の中で、その後は「余暇の気分転換」として数学を独習したことと、当時の数学は「大学レベルの学問研究としての科目」というよりも「貿易商、商人、航海者、大工、測量士など」のためのものだと考えられていたことを書いている[6]。イングランド内戦で騎士党側で働くうちに、暗号理論に興味を持った。王立協会創立会員の一人で、60以上の論文と書評を執筆した。幾何学教授に指名された後は、「当時の一流数学者の一人」と述べられるほど数学の才能を伸ばした[6]。無限を表す記号として∞を導入し、著作ではアイザック・ニュートンに影響を与え、ブレーズ・パスカルとトマス・ホッブズのような学者間のさまざまな数学の討論に参加した。1658年にKeeper of the Archive(英語版)職に任命され、1660年におけるチャールズ2世のイングランド王政復古の間も職を保持し続け、没するまで務めた[6]。
ハレー, エドモンドエドモンド・ハレー 1704–1742 クイーンズ・カレッジ(英語版) クイーンズ・カレッジ(英語版)[注釈 5] ハーレーは現在ハレー彗星と呼ばれる彗星の軌道を計算したことで知られる数学者。学部学生時代にはすでにヨーロッパ大陸の天文学者と文通し、3つの論文を執筆した。1677年に水星の太陽面通過を観測するためオックスフォードからセントヘレナに旅立ち、太陽との距離を計算した。このときの仕事により、ハーレーはヨーロッパで高い評判を得て22歳で王立協会に選出された。アイザック・ニュートンに惑星の軌道について尋ねたことがきっかけで、1687年にニュートンは自身の研究を再開し『自然哲学の数学的諸原理』の執筆を始めた。ハーレーは書籍の執筆を監督し、出版費を賄った。 1691年にはサヴィル天文学教授(英語版)として指名されなかったが、ニュートンを介して王立造幣局に職を得た。彼自身の作品に、虹や工学や気圧計に関する議論があり、カエサルのブリタンニア侵攻の開催地を汐の満ち引きから計算した。またイギリス海軍のために航海調査を実行して、太陽、月、惑星の位置を長期間にわたって算出する表を完成させた。1721年、王室天文官に選ばれた[19]。
ブリス, ナサニエルナサニエル・ブリス 1742–1764 ペンブローク・カレッジ(英語版) ペンブローク・カレッジ(英語版)[注釈 6] ブリスは1736年にセント・エッブズ・チャーチ(英語版)のレクター(英語版)に任命された。ハーレーの後任を申し込んだ際は、王室天文官のジェームズ・ブラッドリーやケンブリッジ大学の天文学教授(英語版)ロバート・スミス(英語版)などの支援者がいた。教授職に就くと、公邸近くのオックスフォード・シティ・ウォール(英語版)の一部に装置を取り付けて、街で4番目の観測施設を作った。ブリスはブラッドリーとシャーバーン城(英語版)に観測所を持つジョージ・パーカーに測定データを提供した。1762年、王室天文官をブラッドリーから継いだが、1764年に急逝した[20]。
ジョセフ・ベッツ(英語版) 1765–1766 ユニヴァーシティ・カレッジ(英語版) ニュー・カレッジ(英語版) ベッツは1763年にサヴィル天文学教授(英語版)に就任を試みたが失敗し、代わりにトマス・ホンスビー(英語版)が選ばれた。投票の際の後援者には学長(英語版)のジョージ・リーと首相のジョン・ステュアート、国務大臣のジョージ・モンタギュー=ダンクがいた。1764年4月1日の金環日食を描いた版画の献辞の中で、彼らへの感謝を示した[21]。
ジョン・スミス(英語版) 1766–1796 ベリオール・カレッジ及びセント・メアリー・ホール(英語版) ニュー・カレッジ(英語版) 1744年からベリオールで学び、1748年に学士号、1751年に修士号、1753年に医学士号(英語版)を取得した。セント・メアリー・ホールで医学博士号(英語版)を取得し、1784年にはチェルトナムで医師として活躍しており、その際はエイブラハム・ロバートソン(英語版)が代理を務めた[22][23]。スミスは中世の市壁の一部を壊し、教授職の公邸の正面に馬小屋と小さい家屋を建て、遺書の「いささか大仰な」条項で後任者に遺贈した[16]。
エイブラハム・ロバートソン(英語版) 1797–1810 クライスト・チャーチ クライスト・チャーチ[注釈 7] ロバートソンはオックスフォードで夜間学校を運営したが失敗し、その後24歳でオックスフォード大学にて勉強を始めた。ジョン・スミスの支援を受けており、1784年にはスミスの代理を務めた。講師として著名であり、生徒を奮起させた明快な講義と学生を親身に励ます姿勢で評判であった。1795年、円錐曲線に関する作品(1792年の Sectionum conicarum libri septem )と「学識と科学探究における勤勉さ」を評価され王立協会フェローに選出された[23]。アルキメデスの著作集の出版を監督した。1797年スミスの後を継ぎ幾何学教授となり、また1810年にサヴィル天文学教授(英語版)となった[23][24]。
スティーヴン・リゴー(英語版) 1810–1827 エクセター・カレッジ [注釈 8] リゴーの父はキュー天文台(英語版)所長であった。リゴーはエクセター・カレッジにて初めて天文学的記録を取り、学部生にしてフェローに選出された。1805年頃からトマス・ホンスビー(英語版)が病床に伏したために、代理でサヴィル天文学教授(英語版)と実験哲学教授長(英語版)に就いた。1810年にロバートソンがホンスビーの後任になるとリゴーは幾何学教授に就任した。1814年には父の後を継いで祖父とキュー天文台の共同観測員を務めた。同年に妻が没すると、リゴーは子供と仕事に専念した。「彼の世代で屈指の天文学・数学史家」、「人格と学識の両面において誠実さで知られる」人物であると評された[7]。
ベーデン・パウエル(英語版) 1827–1860 オリオル・カレッジ [注釈 9] パウエルはケントとロンドンの教区聖職者を務めていた際に、熱と光に関する分野で実験を行った。物理学における数学の進歩に追従することに苦労し、また1830年に王立協会に提出したいくつかの論文には大量の間違いが含まれていた。幾何学教授の職を引き受けたときに聖職者職を辞めて、科学組織・委員会の活動に活発に携わり、多くの著作を出版した。オックスフォード運動(イングランド国教会内のトラクト主義者と呼ばれる集団による宗教運動)に反対し、奇跡の存在を否定して、ダーウィンの理論を支持した姿勢でも注目された。科学研究の立場の改善など大学内の改革を主張したが、反対が膨らみパウエルはオックスフォードを去ることとなった。1854年にロンドンに移り、科学と文学における主要人物らと交流した。息子の一人であるロバート・ベーデン=パウエルはスカウト運動の創設者[25]。
ヘンリー・スミス(英語版) 1861–1883 ベリオール・カレッジ ベリオール・カレッジ及びコーパス・クリスティ・カレッジ[注釈 10] スミスは学部時代に天然痘とマラリアに罹患し学業の中断を余儀なくされた。療養中に勉学に励み古典学(英語版)と数学で一等の学位を獲得した。ベリオール・カレッジでフェローとなって数学の講師を務めた。また、同カレッジの実験室の管理や化学の指導も担当した。他の大学と共同で数学の講義を行えるように手配した体制は、他大学や他教科でも採用され、大学全体を基盤とする講義システムへと発展した。 1874年からオックスフォード大学自然歴史博物館(英語版)館長を務めた。大学の委員会や科学教育・大学部門の王立委員会に深く関与し、オックスフォード大学における科学と数学の地位を訴えた。数学においては主に幾何学、楕円函数論、数論を専攻した[26]。
シルヴェスター, ジェームズジェームズ・シルヴェスター 1883–1894 ロンドン大学とケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジ(英語版) ニュー・カレッジ(英語版) 14歳でロンドン大学に入学したが、他の生徒への暴行を理由に退学した。ケンブリッジ大学ではセカンドラングラー(英語版)(ケンブリッジ大学のある試験において次席となったものに与えられる称号)となったが、ユダヤ人であることを理由に学位や賞を授与されることも、フェローになることもできなかった。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで自然哲学の教授を3年務め、1841年バージニア大学に移動し1842年に大学当局と揉めて辞職した。イングランドに帰国して一時期、アクチュアリーとして働いた。余暇には消去理論(英語版)を研究し、1855年に王立陸軍士官学校の教授に抜擢された。55歳の定年退職の後、詩を書いたりクラブ(英語版)に参加したりして過ごし、1876年にアメリカに戻って新設されたジョンズ・ホプキンズ大学の数学教授に就いた。不変式論(英語版)と行列理論の研究意欲が湧き、自身の算出した結果を創刊した雑誌 American Journal of Mathematics(英語版) に掲載した。この間にコプリ・メダルを授与された。ホームシックを患い、(オックスフォードがユダヤ人に対する学問の基準を下げたため)シルヴェスターはサヴィル教授職に応募し、任命を受ける前にホプキンズ大学から去った。適切な講義題目が見つからず、1885年に就任講義を遅らせた。病気に罹り、1892年に副教授が配属され1894年に辞職した。1901年に彼を称えてシルヴェスター・メダルが設立された[27]。
ウィリアム・エッソン(英語版) 1897–1916 セント・ジョンズ・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) 1860年からマートン・カレッジのフェローであったエッソンは、1894年から1897年にニューカレッジのフェローになるまで副教授として活動していた[28]。化学変化の割合に関するオーガスタス・ハーコート(英語版)との共著作品(『フィロソフィカル・トランザクションズ』の3つの論文で30年以上に渡って発表)によって、1869年に王立協会フェローに選出された。ある死亡記事には、彼の残りの論文は「数も多くなく、重要でもない」と書かれている[29]。『タイムズ』誌の死亡記事では「高等数学とその自然科学とのつながりに専念し大きな成功を収めた」、「数学の科学において指折りのベテラン」と述べられている[30]。
ハーディ, ゴッドフレイ・ハロルドゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ 1919–1931 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) ハーディは1900年にトリニティ・カレッジでプライズ・フェローに選ばれ、同年に論文を執筆した(生涯で発表した論文は350以上に上る)。1911年からリトルウッドと協力した様子は「数学史の中でもっとも有名」であると述べられている[31]。以降、素数や解析学、解析的整数論、ウェアリングの問題の解決など多分野で100以上の共著論文を書いた。インドの天才数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャンとの協力も著名な出来事となっている。同僚のバートランド・ラッセルとは友人で、第一次世界大戦でラッセルが平和主義的な立場を取ったためにケンブリッジ大学から受けた扱いに心を痛めていた。オックスフォード大学で幸せな生活を送ったが、1931年にサッドリー純粋数学教授(英語版)職を引き受けたことを理由にケンブリッジへ帰った。集団遺伝学への貢献ではハーディー・ワインベルクの法則で知られる。この功績について、ハーディの伝記を執筆したベーラ・ボロバーシュは、「善かれ悪しかれ」、自分のしたことが「世界の快適さにいささかの影響」をもたらしたことも、今後もたらす可能性も全くないというハーディの主張に対する数少ない例外の1つとして記録している[31]。
エドワード・ティッチマーシュ(英語版) 1931–1963 ベリオール・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) ティッチマーシュはハーディのもとで学び、ハーディの助手として働き、1923年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで教職を得た。1924年から1930年までモードリン・カレッジ の非常勤研究員であった。1929年から1931年にハーディの後任となるまで、リヴァプール大学で純粋数学の教授をしていた。ティッチマーシュは(ハーディと違って)応募時に幾何学を講義することをいとわれず、ティッチマーシュのために講義の規定が削除された。オックスフォード大学の数学の重要人物であり、広い分野で論文を発表し、1955年に王立協会からシルヴェスター・メダルを授与された。講義には消極的であった[13]。
アティヤ, マイケルマイケル・アティヤ 1963–1969 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) アティヤはケンブリッジ大学とプリンストン大学で教鞭を執り研究を行った。1961年にセント・キャサリンズ・カレッジ(英語版)のフェロー・数学の準教授としてオックスフォード大学に移り、後にティッチマーシュの後任となった。1969年にプリンストン大学に戻ったが1973年に王立協会研究教授として再びオックスフォードに帰った。 1990年から1997年までケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのマスターを、2005年から2008年までエディンバラ王立協会(英語版)会長を務めた。1983年にナイトを叙され、1992年にメリット勲章受章者となった。K理論と(理論物理学分野で主に使われる)アティヤ=シンガーの指数定理の功績で1966年にフィールズ賞、1988年にコプリ・メダルを獲得した[32][33]。
イオアン・ジェイムズ 1970–1995 クイーンズ・カレッジ(英語版) ニュー・カレッジ(英語版) オックスフォード大学で修学した後、ジェイムズはプリンストン大学とカリフォルニア大学バークレー校で研究した。ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの研究フェローとしてイギリスに帰国した。1957年、ジェイムズはオックスフォード大学の純粋数学の準教授となり、1959年から1970年までセント・ジョンズ・カレッジの研究フェローとして働いた。1995年に引退し名誉教授となった。主な研究分野は位相幾何学、特にホモトピー論で、位相幾何学史の探究や位相幾何学に関する雑誌の編集も行っていた[34]。
テイラー, リチャードリチャード・テイラー 1995–1996 ケンブリッジ大学クレア・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) テイラーはケンブリッジ大学とプリンストン大学で学問を修めた。1988年、クレア・カレッジのフェローとなり、1995年にオックスフォードに移動した。しかしその1年後にハーバード大学に職を引き受けた[35]。主にラングランズ・プログラムを研究し、佐藤・テイト予想を解決し、アンドリュー・ワイルズと協力してフェルマーの最終定理の解決に寄与した[36]。2007年、(ロバート・ラングランズとともに)「素数と対称性を結び付ける数学の壮大な統一的視点の提唱と発展」に対して、ショウ賞を受賞した[37]。
ナイジェル・ヒッチン 1997–2016 ジーザス・カレッジ及びウォルフソン・カレッジ(英語版) ニュー・カレッジ(英語版) ヒッチンはプリンストン大学とニューヨーク大学で教鞭を執り、更なる研究のためにウォルフソン・カレッジに戻って研究を続けた。セント・キャサリンズ・カレッジ(英語版)フェロー・講師を経てウォーリック大学の数学教授やラウズ・ボール数学教授(英語版)(1994年)を歴任した。研究分野は微分幾何学、代数幾何学、超ケーラー多様体、シンプレクティック多様体[38]。
フランシス・カーワン(英語版) 2017 - 2025 ケンブリッジ大学クレア・カレッジ及びベリオール・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) カーワンは1983年から1985年までハーバード大学のジュニア・フェロー、1983年から1986年までモードリン・カレッジのフェローであった。その後ベリオール・カレッジのフェローとなった。研究分野には代数幾何学におけるモジュライ空間、GIT、シンプレクティック幾何学におけるGITとモーメント写像との関係など多岐にわたる。代数的・位相幾何学的性質を研究し、幾何学的対象の構造を理解する事を目指している[39]。
ドミニク・ジョイス(英語版) 2025 - マートン・カレッジ ニュー・カレッジ(英語版) ジョイスは1992年にサイモン・ドナルドソンのもとで D.Phil を取得した。クライスト・チャーチ、プリンストン大学、カリフォルニア大学バークレー校で短期間の研究職に就いた。1995年からオックスフォードで数学の講師として働いた。リンカーン・カレッジ(英語版) で tutorial fellowを務めたのち、2006年に数学の教授となった。ジョイスの主な功績には、例外型ホロノミー群G2およびSpin(7)(英語版)を持つ、コンパクトな7, 8次元多様体の最初の例の構成、優れた参考書 Compact Manifolds with Special Holonomy[40] の執筆、校正(英語版)部分多様体の特異点の特定と研究、カラビ-ヤウ多様体のモジュライ空間の不変量(ドナルドソン・トーマス不変量)の数え上げ理論への貢献、シンプレクティック幾何学と代数幾何学においてモジュライ空間の構成への厳密な足掛かりを与えるために導来幾何学の新しい枠組みを発展させたことなどがある。
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脚注

関連項目

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